立ち読み:新潮 2020年3月号

曼陀羅華X 2004/古川日出男

Y/y

    父なき姉妹きょうだい

 一月十七日に、ららは新交通ゆりかもめに乗らなかった。この日は土曜で出勤する必要がなかったからである。午後、ちらつき出した雪を部屋の窓から眺められた。ららの部屋は八階にあって窓とベランダは真西に向いている。雪は、つかもうとすればつかめるふわっとした大きさだ。おもてに出よう、と考える。カバー付きの本を一冊増やそう、とららは考える。
 思いついて二分後には外出した。マフラーをしっかりと巻いた。
 JRの駅まではだいぶ距離がある。大きな運河が二つ、それから小さな運河が一つ。計三つの橋を歩いて渡り、おおよそ十五分で田町駅の西口――正式名称は三田口――に抜ける。その間、幾度も空を仰いだ。都心の雪だ、そう思った。
 駅前の本屋に入る。中規模店舗だが文庫本の品揃えが充実している。ららは棚と棚のあいだの通路を歩み、いかにも慣れたていで左右に視線を走らせる。狙いは、カタカナ表記の著者名、そしてかさ――それなりの厚み。つまり海外の小説で、五百ページ前後あるというのが理想だ。題名はまるで気にしない。それどころかジャンルは問わないし、裏表紙の梗概あらすじにも目を通さない。
 視線が止まれば、それが“当たり”だ。
 ららは棚から抜き出す。
 レジに行って購入した。税抜きで九百四十円した。店員に「カバーをお掛けしますか?」と問われる。書店のオリジナル・カバーは要りますか、と。ららはうなずいた。その覆いジャケットは絶対に要るのだ。カウンターの後ろの壁には時計がある。針が二時四十分を指している。昼食をろう、とららは思う。休日には起床時間がでたらめになるから、併せて食事の時間それもめちゃめちゃになる。
 ハンバーガー店に入った。やや高級感のあるメニューで知られるハンバーガー・チェーン、しかし頼んだのはいちばんシンプルな、小ぶりのバーガーだ。それからMサイズのコーヒー。
 ららはゆっくり噛む。
 バンズを丁寧に咀嚼する。挟まれたレタスも。
 食べ終え、文庫本を出す。掛けられている書店のオリジナル・カバーを、まず脱がせる。それから現われた文庫の本体のカバーもいったん外す。外したそのカバーをひろげて、真っ白い裏面をおもてにして、いったんす。
 その、裏向きの形で、カバーを付け直した。もともとの折り目は全部逆にした。白い文庫本が誕生して、さらにそこに――その上に――書店のカバーを掛ける。
 ページをぱらぱらと捲って、もともと出版社がさしはさんでいたしおりを取り出し、百ページめと百一ページめのあいだに挿み直す。
 ららはそれからコーヒーを口に運ぶ。

(続きは本誌でお楽しみください。)