立ち読み:新潮 2020年5月号

遺稿/古井由吉

 九月も中旬、二百二十日にかかる頃に、台風がやって来た。海上を進んで房総半島の東か西かへ上陸すると予報されたのが、夜半過ぎに東のほうへあがり、台風の規模にしては中心気圧が低くて風も強く、進路の西にあたる東京でも深夜から未明にかけてだいぶ荒れたが、房総のほうではさらに激しく、あるいは車を飛ばされ家の屋根を剥がれ、あるいは高圧線の鉄塔を倒され、無数の倒木に電線を絶ち切られ、あちこちに停電と断水の難を後に遺した。
 後日の報道の映像を見ると、台風というよりは、まるで龍巻の走った後のように見えた。この国にも龍巻がしばしば起こるようになったのは、今から二十年ほども前からだろうか。半日を隔てて伝えられたところでは、強風に吹かれたにしてもあまりにももろく倒れた樹木を調べて見ると、その多くが病害におかされていて、その幹が内部から朽ちかけている。ながらく間伐を怠ったせいで樹が密生して、ひょろりと長く、虚弱に育ち、それで病害を招いたと見られる、とあるのを読んで、しばし考えこまされた。近年、間伐を進めていたが、山林地主の所在が不明で、手のつけられないところもあるという。
 台風の来た夜には、コンクリートの集合住宅の二階になる私の住まいでは南側のガラス戸から表をのぞけば雨を捲きあげて吹く西風に目を瞠らされたが、東側の部屋にこもると嵐の凄さにさほど迫られることもなかった。それでも窓という窓をとざした中で、刻々と気圧は下がり湿気は上がっていくようで、まどろんでは汗まみれになって目覚める。夜が明けて風がよほどおさまってきたところで、窓を細目にあけて空気を入れ換え、南おもての桜の老木の無事だったようなのを確めて、ようやく眠りに就いた。
 陽が高くなってからぐったりとなって起き出してくると、空は晴れあがって、たちまち猛暑になった。まだ強い風が渡り、樹の枝を揉みしだいているが、台風一過のすがすがしさはなく、相も変らず湿気が重い。房総のほうから被害が続々と伝えられる。電気も水道も来ないという。そんな窮地に自分のような者が置かれたら、とても持たないだろうなと思うにつけても、身の弱りを覚えさせられた。一夜の内にまた弱ったような気もした。
 また翌日には午後から空が暗くなり、雷が鳴って刻々と激しく、こんな時期に本格の夕立になり、爽快なほどの雷雨を見たが、小一時間ほどで上がってみれば後の清涼さもなく、夜に入ってさらに蒸し返してきた。その後も、秋へ傾くとも夏へ逆戻りするともつかぬ天候が続いて、さすがに肌寒いように感じていたかと思えばその肌に汗が滲んで、それにつれて夏場の疲れが一度にまわり、膝からは力が抜けて、頭は浮くようで、こんな暮らしはいい加減にして、何とかしなくてはならないな、などといまさら改めようもないのにつぶやいたりするうちに、彼岸はとうに過ぎて、彼岸花も盛りを回わりかけているのに、重たるい天候も体調も改まろうとしない。
 ――夏の間につい働きすぎると、秋になってこたえるよ。やはり還暦をとうに過ぎたからかね。
 人の声が聞こえた。私よりも七つばかり年上の人の声だが、今の私よりは二十年の若い昔のことになる。やはり彼岸も過ぎた秋の暮れ方のことになる。沈むばかりの陽が街を赤く染めていた。風はぱったりと止んで、夏の名残りの蒸し暑さが赤光とともにあたりに凝っていた。約束の時刻に遅れて駅から急ぎ足で来た私の目に、杖を引くようにゆっくりと行くその人の背が見えて、ほっとして追いついて肩を並べるとむこうから、顔も見ずに、独り言のように話しはじめた。
 夏場の疲れが一度にまわって、膝からは力が抜けて、頭は浮くようで、とはあの人の言ったことだった。こんな頭をこんな膝で支えて、よくもよろめかずに、まっすぐ歩いていたもんだと思うよ、とさらに言う。並びかけた時に、もたれかかるような気はしなかったか、いや、往来で倒れるなどという、派手な往生は、俺みたいな者には似つかわしくないことだと笑った。聞いて私はまだ五十代のなかばにかかる年頃ながら近頃、頸椎が塞がりかけて歩行不能のぎりぎり間際まで行ったばかりのところなので、他人事にも思えず、歩くほどむずかしいことはないのですね、と相槌を打った。
 あなたはたしか僕と六つ違いだったね、と相手はたずねて返事は待たずに、いずれにしても食料不足の時代の子だな、そう言えば今でもときおり、ひもじさの翳が目もとに走るよ、ならば覚えているだろう、腹をすかせて力の入らない足でどこまでも歩いたことを、道の先のことはもう考えず、一歩ずつ、だるさを踏んでいたものだ、と今もその続きのようにひとりでつぶやいていたが、しかし子供は、それこそ餓鬼のように痩せこけていても、まだ身は軽い、と転じた。僕などは敗戦の年に旧制の中学の二年生で、まだ少年の内だったが、空腹に苦しむと、身体はもう軽くなかった、と言う。
 子供の頃から何かと肉体労働をさせられた時代でもあり、学校で軍事教練も多少積んでいたので、痩せこけていても、骨格は出来ていたと思う、と続けた。筋肉のほうも、脂気もなくすじすじのものながら、それなりについていた。食料事情が追い追い良くなってきたのは、新制の高校へ移ってしばらくした頃だろうか。質よりも、まず量のことだ。粗末な喰い物でもとにかく腹が満ちるようになると、体格が見る見るよくなった。まして肉も喰べられるようになると、さらに頑丈な身体にはなった。しかし、あれがはたして良かったか。青年期にかけて急速に成長したことが、後年のわざわいになっているのかもしれない。愛想もない身体のようでも、どこか弱いところがある。五十代に入って同年配の、旺盛と思われた人の訃音が一時期しきりと伝えられたものだ。脳溢血に心臓発作、動脈瘤に静脈瘤、長年の働き過ぎのせいもあるのだろうか、毛細管が身体の急な成長に置かれて、強くなる時機を逸して、育ちきらなかったせいだか。循環系の不調に苦しむわけでないが、身体の微妙なところの、何とはない不全を感じさせられる。とりわけ暑かった夏の名残りの、こんな赤い秋の暮れ方には若い頃からそうだった。
 還暦を過ぎても頑丈に見えるのに、内にはそんな虚弱さがひそんでいるかと私は訝って、六つ年下の我身の、来歴をひそかに較べた。わずか六年の差でも、食料事情の改まってきたのがまだ子供の内だったのと、すでに大人になりかけていたのとでは、身体の出来方が違うようである。私のほうは高校の頃には痩せこけた、背も低い生徒だったのが、大学に入った後からおもむろに背が伸びて、やがて人並みの身長を、当時としてはわずかに上まわるところで落ち着いた。しかし食料が豊富とはまだ言えぬ時代だった。ろくなものを喰っていなかった。それに、元気ではあったが、食がどこか細かった。腹をすかせていても飲食の手前で、貧しかった時代の喰い物の臭いが鼻についてくるようで、箸を置いてしまう。いまさらのアレルギーのようなものか。その後も中年まで、食事を済ますと、ほっとして立つ癖がついた。それでも、人からは、元気な人間と見られていたことだろう。実際におおむね元気だった。衰弱感に苦しむこともまれだった。過不足のない、ありがたい身体とも思うようになった。
 ところが先頃、頸椎に狭窄を来たして歩行不能の手前まで行き、手術後に半月にわたる仰臥のままの固定という苦業を強いられた時、かなり恢復した頃に執刀医が、あなたの骨は固くて良い質なのだが、頸椎のところが生まれつき人より狭くて、長年の間にこんなことになったと言う。聞いて私は自分の身体の秘密をこの年になってようやく知らされた気がした。影響がどこへどう及んでいるかは感じ分けられなかったが、背をまっすぐ立てた上に頭をやや垂れて歩く自分の後ろ姿が目に浮かんだ。手術の直前まで病棟の廊下を歩いたものだ。腰から背をまっすぐに立て、頭はさすがに垂れると全身のあやうい釣り合いが崩れそうで正面に向かって上げていた。先方の廊下のはずれが遠く、足もとへちらりと目を落せば、脚が長く見えた。それでも杖にも歩行器の世話にもならず、廊下の壁の手摺りにも頼らず、むしろ両側の壁の質感に負けるのをおそれて廊下の真中を、一歩ずつ、揺らいで倒れかかるのを先送りするように歩いていた。あのもう歩けるか歩けないかの脚で、どうしてあれが出来たのだろう、といまさらあやしんだ。あるいはあれほど切り詰まっていなくても、何十年もの間、あんなふうにして長年のここまで歩いて来たのではないか。よくも歩いたものだ。速足にして同じこと、あやういところを前のめりに抜けて来たのかもしれない。
 それから半月もして、廊下に出て歩けるようになった頃に、医師がまた言った。あなたはすなおな身体をしている、と。よけいな反応を示さないということらしい。聞いて私は四六時固定の時を振り返り、そんなことはなかろうと首を傾げた。幻覚にしばしば苦しめられた。夜の寝覚めには広漠とした虚空に放り出された。しかし喘ぐでもなく呻くでも、まして助けを求めるでもなく、黙って堪えていた。むしろ取り乱すほうが、正常の身体の反応ではないかと思われた。
 忍耐とすれば、これにも含みがあるようだ。その芯には怖れがあった。もしもほそぼそとした忍耐がひとたび切れたら、自分はまっすぐに狂乱の中へ突っこんでいくのではないか、歓呼でもするように、とその怪異な姿を怖れた。結局は耐えることになる。先のことは思わず、刻一刻の心になり、ただ呼吸を整えるうちに、何でもない表の世界のやすらかな光景が浮かんで、自分も病みあがりの脚で歩いているようで、苦しい幻覚はほぐれる。
 五十日の病院暮らしから家に帰ると、長年の住まいの内でも足取りがあらためてたどたどしく、せいぜい部屋から部屋へと歩行につとめるうちに、十日もすると戸外にも出られるようになり、また半月もすると近間の並木路から馬事の公苑まで足を伸ばし、気長に歩いていた。とにかくまっすぐ歩けることが不思議に、寝たきりの病床からの幻覚のように思われた。
 まして秋には暮れ方に公苑のまわりを走るようになり、日が短かくなるにつれて周回を重ね、冬至の頃には走り出すと間もなく夜になり、やがてはまったく夜を行く、夜行となり、これこそ我ながら気狂い沙汰かと疑われた。
 あれから三十年近く経つ今ではなおさら、あれは誰であったのか、怪しい者でも見たように目を瞠らされる。
 壮健ということは、去られて見れば、あやかしのようなものか。

(続きは本誌でお楽しみください。)