立ち読み:新潮 2020年6月号

アンソーシャル ディスタンス/金原ひとみ

 十歳の時、非常階段から何時間も下を眺め、生まれて初めて本気で自殺を考える。十三の時、彼氏と喧嘩した挙句初めて手首を切る。リストカットはその日以降数年間に渡り繰り返すこととなる。十六の時合法ドラッグにハマって廃人化し高校を中退。過食と拒食を繰り返しながら大学検定を受け、大学に入学。周囲との温度差、明度差にうんざりしながら大学生活を送りつつパパ活に勤しむ。ゼミの一年先輩であった幸希こうきと付き合い始めパパ活を止める。点滴を腕に固定されたままベッドに横たわって曇りガラスの窓を見上げ、久しぶりに自殺を本気で考える。←New!!
 どうしてこんな人生なんだろう。どうしてこんな人間なんだろう。ぐるぐるする疑問が点滴から注入されている安定剤のせいで思考力を奪われた頭に渦巻き、手を窓のロックに向かわせるかと思った瞬間、「小嶺さん」と控えめな呼びかけが聞こえてドアに顔を向ける。「そろそろ行きましょうか」という禍々しい何かをオブラートに包んだような言葉に頷くと、私はベッドから起き上がり点滴スタンドを引いてくれる看護師さんについて歩く。いつもある指輪がそこになくて、親指で薬指の付け根をなぞる。処置台の上で、両腕と両脚を固定され、数を数えてくださいと言われ一から二十四まで数える。

 本当に視界ってぼやけるんだ、と思う。ぼやけた視界の中に幸希の姿を見つけた時、ぼんやりした視界の中に初めて見つけたのが彼で良かったと思う。彼以外のものが目に入っていたら、きっと私は酷く傷ついていたに違いなかった。
「大丈夫?」
 控えめな声に頷いて、「寝てていいよ」という声にまた僅かに顎を動かし目を閉じると、幸希の手に包まれ左手が暖かくなった。幸希はいつも「大丈夫?」と聞く。私がぼんやりしている時、言葉が少ない時、歩みが遅くなった時、いつも聞く。うんと微笑んで答えると、彼はいつもほっとしたような表情を見せる。彼は私が苦しむことを忌んでいる、いや、恐れていると言ってもいいかもしれない。それでも愚かな彼はうんと答える私をそれ以上疑うことはなく、うんと言われれば沙南は大丈夫なのだと信じ込んでしまう。
「あれ、今寝てた?」
「十五分くらいしか寝てないよ」
「そっか。さっきより全然意識がはっきりしてる」
「お水飲む? もう飲んでいいんだよね?」
「うん。バッグの中にあるから取ってくれる? あと指輪もちょうだい」
 役割を与えられた幸希はどこか安堵したように私のバッグを取ってきて、ペットボトルの蓋を開けてから私に手渡し、自分のポケットに入っていた指輪を取り出す。十五時間固形物を、八時間水分を絶っていたためゆっくりと飲み込み、指輪を嵌める。少しずつ、非常事態から日常に戻っていく自分を感じた。
「どこにいたの?」
「すぐそこのファミレス」
「本読めた?」
「うん。読んだ。クソだった」
 笑いながら「全部読んだの?」と聞くとうんとこともなげに言う。
「絶対流し読みでしょ」
「中身空っぽだもん」
 術前の点滴が入れられるまでここにいた幸希は、入社前に読まなきゃいけないんだよと、内定先の社長が書いた本を嫌そうな顔で私に見せていたのだ。
「目次からすでにマッチョな資本主義感滲み出てたもんね」
「憂鬱だよ。こんな会社の社員になんてなりたくない」
 こんな時にも、私は幸希のことを心配する。私たちは弱々しすぎて、お互いに心配し合って、支え合っている。大丈夫? 大丈夫だよね? 二人してそうして心配し合うことで、何とか自分を保っている。こんな時に愛や悲しみや死について考えるための文学作品などではなく、こんな耄碌じじいの戯言が羅列されているような俗悪な本を持ってくる気の利かない幸希が、心から心配だ。
 彼はきっといつか挫折する。初めて会った時に抱いたその予想を裏切り続け、彼は無難に単位をとり無難にレポートを書き無難に発表をし無難に就活をし無難な会社に内定を得た。「嫌だな」、と彼はいつも言う。授業に行くのもレポートを書くのも人前で発表するのも飲み会も家に帰るのも予約の電話をするのも勉強も就活も就職も、彼は「嫌だな」と言う。嫌ならやめれば? という言葉を、私はいつもすんでのところで堰き止める。彼は「嫌」だけど、どんなに「嫌」でも何でもそつなくこなせるし、「嫌」な世界に「嫌々」生きることができるからだ。七転八倒しながらここまで生きてきた私とは、彼は違う。人付き合いも勉強も、嫌でもそれなりにできて、致命傷を負わないまま生き延びられる人なのだ。
 どこにも本気で参加したいと思ってないくせに大体どこにでも腰掛け程度に参加して誰からも嫌われないし別段好かれもしないけどそこにいることに誰も違和感を抱かない立ち位置をキープして中身が薄いくせに小賢しく世渡りしてる奴。私の第一印象はそうだった。だから彼が唐突に吐露した「自分が嫌いだ」という言葉は意外で、死ぬことを考える? という質問に「考えるよ」とこちらの反応を窺うように呟いた憂鬱さと自信のなさを滲ませた表情を見て、彼は初めて恋愛対象になったのだ。
 左手を握る彼の手を右手で覆うと、彼は空いていた手をそこに載せる。私たちは何か共通の使命を持つ生命体の最小ユニットのようだ。
「もう妊婦じゃないのか」
 妊婦って、と私の言葉に彼は悲しげに笑う。私と幸希の赤ちゃんが掻爬され吸引器によって吸い取られ、死んだ。私のどこかも死んだ。産めるんじゃないか、どうにかして産めないか、産むのも怖いけど堕ろすのも怖い、何か抜け道はないか。ずっと考えていたことが、もう考えなくていいことになった。私は地獄から追放され、元の地獄に舞い戻った。どっちも辛いけれど、張った胸や下腹部の違和感、始まりかけていたつわりから解放されるのかと思うと、これはある種の「解決」なのだという至極凡庸で最悪な結論にたどり着く。
「今回はタイミングが悪かったけど、ちゃんと幸せになろう」
 私は幸希のこの普通さが、普通に幸せになることを求めているところが、この世界が生きるに値する可能性を純粋に考えられているところが愛おしくて嫌いだ。この世の99%のことが「嫌」で、人と勉強と付き合いが嫌いで、本当はほとんどのものを見下しつつ無害な好青年を気取ってそれなりにうまくやっているところが、カーブの強い歪みを私以外の誰にも見せないところが、いい人そうで全然いい人じゃないところが、自分勝手な人に憧れながら自分は全く自分勝手になれないところが、そんな自分が好きじゃないくせに変わろうと努力をするほどの気概もなく、何となく無難に生きて死んでいく人生を予測しながら実際にそのレールを「嫌だなあ」と呟きながらとぼとぼと歩いている彼が、大嫌いで好きだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)