立ち読み:新潮 2020年8月号

聖都創造/天童荒太

第一部 人は去り 馬が消え 兵士は飛んだ 二〇三二

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 雲が低い。いや、山が高いのだろう。
 微細な水滴と氷晶からできた乳白色のかたまりが、緩慢に横切ってゆく上方に、雪の積もった山峰が望める。
 白い稜線は、奥へ向かって霧の中へとかすんでゆき、こちらに向かっては急な下りの傾斜となって、次第に雪の合間に岩肌がのぞける。雪の白と、岩の黒のまだら模様は、やがて雲の流れよりも低い山並みによって閉ざされる。
 雲の下に円錐形の頂きを並べる山々は、岩場と黒い森が相半ばし、途中でさらに低い山によってさえぎられる。折り重なる山並みは、低くなるにしたがい森が増え、色合いもやや明るくなる。
 それらの山に囲まれた盆地に、五十戸近い家が集まった村が存在していた。人里離れた山あいに、ぽつんと一つ生まれた寒村というおもむきだ。
 方角からして、雪の積もった岩山や黒い森は、村の北側に位置している。村と接する森から川があらわれ、平坦な土地にできた村の中央を南へ向かって流れている。上空から見る限り、川幅は五メートル前後。水量は豊かで、この流れが村人の生活を支えてきたのだろう。
 川をはさんで東側に住居が固まり、西側に耕作地が広がっている。住居の集まったエリアのさらに東側と南側は、木々の茂った森が村の敷地を区切る壁となり、そのまま山並みへと連なってゆく。
 耕作地の西側は、岩ばかりの荒れた傾斜となり、ほどなく崖となって断ち切られる。村を流れる川も、南側に広がる森の手前で西に曲がり、岩場の崖から滝となって、下の渓谷に落ちてゆく。二十メートル近い崖下の谷を走る川が、遠い山々から下ってきた本流らしい。川幅は崖の高さと同じくらいあり、流れも速い。
 家々と東の森のあいだに、平坦な空地が見える。村に車が入れるような道は通っていない。車の行き来がある最寄りの町までは、南側の深い森を抜け、一日がかりで険しい山道を歩いて下らなければならないという。そのため村が最も栄えていた頃、重病者や妊婦を運ぶためにヘリポート代わりの空地が広げられたと、事前にコーディネーターが村の出身者から聞き取っていた。村でヘリを呼ぶ際は、ふもとの町まで壮健な男が一日がかりで歩いていき、ドクターヘリを要請していたらしい。近頃は、村の高齢化が進み、そうしたヘリの要請もほとんどないとの話だった。
 ヘリコプターが村の上空を旋回したのち、空地の上でホバリングを始めた。それぞれの住まいから出てきた人々が、空地の近くに立ち、こちらを見上げている。ほとんどの人が、古びたシャツやズボン、長めの巻きスカートなど貧しい身なりをして、ローターが巻き起こす風に飛ばされてしまいそうな、頼りない印象を受ける。
 南アフリカから参加している国連軍のパイロットが、マイクを手に、英語を話す。機体外部のスピーカーからは、この村の言葉に翻訳されて伝えられる。
「我々は国際連合に属する特別な機関から派遣されました。国連の特別機関の指示に従い、村を調査するために来ました。あなた方の国の大統領から、村に入る許可が出ています。着陸してよろしいですか。着陸の許可を願います」
 すると、人々の集まりの中から、赤いキャップをかぶった小柄な人物が跳ねるように飛び出してきて、ヘリコプターに向かって両手を振った。
「なんだ? 子どもか……?」
 パイロットが、マイクを口もとから外して、隣の副パイロットにつぶやく声が、後方の席にいる四人にも伝わった。
「ご協力、感謝します。ヘリから離れてください。ヘリから距離をとってください」
 パイロットがふたたびマイクを通して、下に伝える。赤いキャップの人物が、人々の集まりの先頭まで引き返すのが、ヘリコプター後部の窓からも見えた。
 ヘリコプターは、一機分の余裕しかない狭い空間に無事着陸した。すぐに機体外部に汚染検査計が出て、地上の空気を測定する。村の上空の大気はすでに測定し、異常はなかった。ほどなく、放射能の濃度を含め、測定可能な有毒物質の濃度はすべて基準値内であることを知らせる信号音が鳴り、機体中央部のドアが自動的に開いた。
 ユネスコの職員証を胸に留めた四人が順番に村に降り立つ。服装はそれぞれアウトドアに適した私服だが、村人保護の名目で、マスクと手袋の着用が義務づけられている。また全員が、ヘッドホンとマイクが一体となったヘッドセットを装備している。
 四人の先頭に立つのは、ユネスコの正規職員で、世界遺産の調査に複数回関わった経験がある、スイス国籍の三十四歳の女性だった。彼女は、調査班のリーダーとして、人々の集まりに向かって歩み寄り、
「はじめまして。国連教育科学文化機関、ユネスコの調査員です」
 ヘリコプターのスピーカーと同様、ヘッドセットにも翻訳機能がついており、自国の言葉をマイクを通して話せば、胸のスピーカーから相手国の言葉に翻訳されて伝わる。また相手の言葉は、ヘッドホンを通して、自国語に翻訳される。
 赤いキャップの人物が、真っ先に前に進み出た。子どもかと思ったが、二十代半ばの男性だろう。浅黒い肌に、目鼻の大きい愛嬌のある顔立ちをしている。色あせた紺の長袖Tシャツにジーンズ、赤いキャップにはいまは消滅してしまった大リーグチームのロゴが入っている。彼は、にこにこと邪気のない笑顔で、彼女に手を差し伸べた。
「ごめんなさい。握手は禁じられています。わたしは、キチイ、と言います」
 彼女は男性に告げた。この村への調査団が組まれるとき、全員が仮名をつけるよう上司に求められた。今回のプロジェクトのルールらしい。彼女は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』に登場する、もう一人の地味なヒロインの名前を名乗ることにした。
 赤いキャップの若者は、キチイの胸の辺りから、彼の国の言葉が発せられたことが不思議そうで、首を何度もひねり、それこそセクハラすれすれなところまで鼻先を近づけ、
「あなたの胸のところに、誰か、人が入ってるの?」
 と尋ねた。幼稚なしぐさや、子どもっぽい甘ったれた口調に、キチイは覚えがあり、どうやら彼には知能の発達においてハンディキャップがあるらしいと察した。
「ここにはスピーカーが付いています。村の責任者の方はいらっしゃいますか」
 彼女は、若者の背後に控えている村人たちに告げた。あらためて見回せば、全員が身長百五十センチ前後の、六十から七十代と思われる高齢者ばかりだ。赤いキャップの若者とは対照的に、誰もが表情が暗く、来訪者をはねつけるような警戒心が感じられる。
「突然このようなかたちでお邪魔して失礼しました。今日お訪ねしたのは、世界文化遺産と連携した、国連機関の新しいプロジェクト『次世代に残したい世界の集落』の対象として、この村を見せていただくためです。彼らは、撮影と採集を担当するクルーです」
 キチイは、自分の後ろに控えた三人の男性を紹介した。二人はノルウェー国営放送の技術職員で、四十代の第一カメラマンはブラック、二十代の第二カメラマンはレッドという仮名を名乗っていた。もう一人は、土壌や水を採集して検査することを専門とするアイスランドの大学の研究者で、マブセと名乗った。三人とも、国連機関のプロジェクトチームが指名したという話で、スイスのユネスコ事務局で合流した。四人のあいだのコミュニケーションも、やはりヘッドセットを通して行われるので支障はなかった。
「今回の調査は予備審査にあたり、映像やリポートを提出して、最終審査へ進むかどうかが決まります。ふだんの村の暮らしを拝見する必要があり、事前にご連絡することができませんでした。これが、皆様方の国の大統領の、入村および調査に対する、署名入り許可書のコピーです」
 キチイは、ショルダーバッグから書類のコピーを出し、村人たちに向けて掲げた。キチイと村人たちのあいだに、赤いキャップの若者が顔を突き出して、書類を見上げる。
「うわー、それが大統領さんのサイン? 大統領さんの命令で、村を見にきたの?」
「皆さんの村が、のちの世代に残す場所の候補として、事前の調査で選ばれ、今回、実際に確かめるよう、国連機関から指示が出ました。大統領は、その調査の許しをくださったのです。つまり……この村が、素晴らしいということを、確認しにきたんです」

(続きは本誌でお楽しみください。)