立ち読み:新潮 2020年10月号

ウィーン近郊/黒川 創

     1

「ユースケが死んだ? まさか。ぼくは、ついこのあいだ、このT字路で、彼とばったり会って、しばらく立ち話したばかりだよ。そう、まさに、この場所だ。二、三週間前だったか。少しくたびれているようには見えたけど、それなりに元気な様子だった。もうじき、日本に一時帰国するけど、すぐにまたウィーンに戻ると言っていた。
 あなたは? 妹か。日本から来たの? すると、この男の子は、ユースケの甥っ子なんですね。
 だが、信じられない。
 彼は、病気だったの?」

 マディ・サファリという三〇歳くらいの男性と、偶然に言葉を交わしたのは、二〇一九年九月二八日。
 ウィーン市の18区、ペーター=ヨルダン通りが行き止まりにぶつかり、そこから右に折れていく、丘の上の住宅地でのことだった。ノーネクタイの白いシャツに、スラックス。がっしりした体つきで、中東あたりの人かと思える浅黒い肌、黒目がちで柔和な表情をした人物だった。
 兄、西山優介の住まいのフラットがある建物の前の三叉路だった。路面電車トラムの停留所のほうから、背丈より少し高いくらいの木立のあいだを百段余りの緩い石段がだらだら上ってくる。石段を上りきったところが、この三叉路。「T」の字で言うなら、石段の道は、横棒の左端から中央まで、緩い段々を上ってくる。そして、横棒の中央で、車道にぶつかる。一方、この車道の「ペーター=ヨルダン通り」のほうは片側一車線程度の道幅で、縦棒の下から上に走ってきて、この三叉路で行き止まりにぶつかる。そして、ここで右に折れ、「ヘルマン=パッハー通り」と名前を変えて、「T」の字の横棒の右のほうへと走っていく。
 このT字路に立ち、石段の側から眺めると、正面右側の角に、レンガ色の三角屋根と、クリーム色でコンクリート造りの外壁をもつ、二階建ての集合住宅が見えている。兄の住まいのフラットも、この建物のなかにある。
 三〇分ばかり前から、ベビーカーを押しながら、このあたりでロマーナ・バウアーという兄の知人女性の住まいを探しまわっていた。だが、いっこうに見つからない。そのうち、薄曇りの空から小雨がぱらぱら落ちてきた。しかたなく、どれも似た造りの建物の一つを選び、入口ホールの軒先でひと休みしがてら、息子の洋の膝小僧などを濡らした雨粒を拭いてやり、空模様を見上げたりしているところだった。石段の道を上がってきた男が、通りがかりに、何か声をかけてくれたのが、きっかけだった。その言葉が、ドイツ語なのでわからず、戸惑うと、
 ――何かお探しですか? お助けしましょうか? ――
 と、英語で言いなおしてくれたのだった。少し話したところで、マディ・サファリ、と彼は名乗った。
 さらに話すと、彼が兄・優介のことを知っていて、ロマーナ・バウアーとも親しいということがわかった。それでも、
「彼は、病気だったの?」
 という質問に、とっさに「自殺」とは答えきれなかった。
 自殺であれ、「デプレッション」という病には違いない。だから、
「そうなんです」
 ひとまずは頷いた。

 恐れていたことが、ついに起こった。
 ここの住まいで兄が自死しているのが見つかったとの知らせに触れたのは、半月前、九月一二日の深夜だった。私は、息子の洋を京都・北白川の自宅アパートで、なんとか寝かしつけ、締切りに遅れているイラスト描きの仕事に切りをつけておかなければと、焦りをつのらせているときだった。
 兄から最後に電話があったのは、その二日前、九月一〇日の朝九時ごろのことである。
「こっちが朝になったら、ウィーン空港からアムステルダム行きに乗る。そこで乗り換えトランジットし、関西国際空港に向かうから」
 と、ビデオ通話を使って、パソコンの画面の向こうから、兄は言っていた。けれども、彼はその飛行機に乗れていないのではないかという不安が、だんだんつのった。ついに、本当に乗っていないとはっきりしたのは、その飛行機が関空に着いた、日本時間の一一日朝一〇時過ぎである。
 きょうだいともに四〇代となり、両親はすでに亡い。だから、兄の近親者は、私と、この子、一歳九カ月の洋だけである。兄はもう四半世紀もウィーンで暮らしつづけて、日本には親しく付きあう友人もいない。私が兄を探さなければ、彼の消息を求める人は、もはや、世界に誰もいないのではないか、とも思えて、いっそう恐ろしくなってくる。
 兄からの電子メールの一つに、最近お世話になっているという、ウィーンの日本語カトリック教会の司牧補佐という女性の名前があったのを思いだした。兄は二〇歳過ぎから、その街に長く暮らして、ドイツ語の会話にも不自由しない。だから、日ごろは、現地在住の日本人のコミュニティに接触しようともしなかった。七年ほど前に、カトリックに入信したときも、オーストリア人の代父が所属する教会で世話になり、日本語教会とのつながりはなかった。だが、一年前に独り身となってから、不安がつのると、日本語教会を訪ねるようになった。自宅から歩いてでも通えるところにあることが、心強くもあったのだろう。不安が迫ると、体に震えが出る。暑い季節でもないのに汗が流れ、止まらない。そういう状態でいるときも、ただそっとしておく、というふうに、事務室の見えるピロティの長椅子に、長時間でも座らせておいてくれると、兄は電話で私に言っていた。そういう体調でいるとき、彼は、自分の身体の置き場所を見つけること自体が、たいへんなことのようだった。
 たしか、日本語カトリック教会の司牧補佐は、高木邦子さんという名前で、教会内の居室で寝起きしながら奉職している人のようだった。兄は「ヨハンナさん」と呼ぶ。それが彼女の洗礼名らしく、「高木ヨハンナさん」と言うこともあった。
 あわててメールサーバーを検索すると、兄からの電子メールのなかに、運よく「ヨハンナさん」のメールアドレスが記してあるのが見つかった。
 このところ、調子が悪くて、薬を飲んでも眠れない、と兄はビデオ通話や電子メールで何度も言ってきた。とにかく誰かにそれを訴えることが、兄には必要だったのかもしれない。そういうとき、ビデオ通話などで話していると、少なくともそうしているあいだは、だんだん彼が落ちついてくるのがわかった。
 一人で夜を過ごすのが、とても恐ろしくなる、と兄は言っていた。教会を訪ねていき、ヨハンナさんに、「今晩、ここに泊めていただけないでしょうか」と頼んでみたこともある、とのことだった。そういう、相手を困らせるようなことを言うのか、と、聞いていて、内心、私は驚いた。気位の高いところのあった兄が、いまでは、教会の世話役の女性に「怖い」と率直に言って泣きついたりできるということに、ちょっと意外な感じを受けていた。兄が話すのを聞いていると、「ヨハンナさん」は、ほぼ兄と同世代くらいの人なのかな、と思われた。相手と対等に接することで、打ちとけた心持ちを引き出せる人がいる。
「ここに泊まっていただくことはできないのですが」と、ヨハンナさんは兄の望みを丁寧に斥けてから、「きょう集まっておいでの会衆の方たちに、どなたか都合がつく人がいるかもしれませんから、伺ってみましょう」と言ってくれたのだそうである。シュリンク千賀子さんという、やや年配の女性が名乗りを上げ、「うちに電話して夫に訊いてみます。下の息子が今年からパリの大学に進んで、部屋が空いていますから」と言ってくれた。そういう次第で、この晩は、千賀子さんのお宅で泊めてもらった。
 偶然にも、そのお宅は、同じウィーン市3区にある、兄の勤務先の事務所にも近かった。千賀子さんの夫シュリンクさんは、オーストリア人の学校教員で、その夜は三人で美術や歴史の話をあれこれすることもできた、と兄は喜んでいた。
 ――すごい。じゃあ、その日に初めて会った人のお宅に泊めてもらったん? ほとんど放浪生活やね。五〇近くにもなって。――
 パソコンの画面の向こうの兄に向かって、あのとき、私は冷やかした。
 ――そうやな。まったく。――
 やっと、くすんと、兄は鼻を鳴らして、パソコンの画面の向こうで、微笑していた。

(続きは本誌でお楽しみください。)