立ち読み:新潮 2020年10月号

大楽必易――わたくしの伊福部昭伝/片山杜秀

第一章 見捨てられた様な薄汚いものから

 武蔵野台地の縁の坂道を降りて行く。東急電鉄大井町線の尾山台駅から駅前商店街を南の方に歩き、環状八号線を渡ると、その先は下り坂になる。石坂洋次郎の小説『陽のあたる坂道』の坂道は緑が丘の坂道で、緑が丘駅も同じ大井町線。尾山台駅から大井町行きに乗ると三駅め。とても近い。尾山台も自由が丘も緑が丘も武蔵野台地の縁にあって高低のあるところということでは同じだろう。どこからも多摩川はもうすぐである。とにかく尾山台から多摩川に向かう陽のあたる坂の途中に、伊福部昭の家はあった。
 伊福部という作曲家の存在する空間を是非とも感じたい。思い立って尾山台に出かけたのは、中学一年の夏休みであったから、一九七六(昭和五一)年のことである。
 幼い頃、耳について離れなくなる音楽があった。映画音楽である。どれも何だか似ている。映画館で覚えてきてしまい、何日も何週間も頭の中で鳴る。ようやく忘れたつもりになっても、虚を突くようにまた始まる。そうなると堪らない。音楽から画像も想起されてくる。興奮が止まらない。
 別に映画館に行かずともよい。茶の間のテレビでその種の映画の放送を観れば、同様のことが起こる。のぼせ上がる。その種の映画というのは、『キングコング対ゴジラ』、『モスラ対ゴジラ』、『三大怪獣地球最大の決戦』、『怪獣大戦争』、『怪獣総進撃』といった作品だ。幼稚園から小学校の時代、それぞれ何度観たことか。ゴジラの出てくる東宝映画ばかりである。映像よりも先に音楽で昂ぶってしまう。しかし、「ゴジラ」シリーズだといつもそうなるのではない。同じゴジラ映画でも『南海の大決闘』や『ゴジラの息子』だと、そこまで音楽に気を取られはしなかった。普通にバック・グラウンドの音楽として聞き流していられる。
 なぜ違うのか。作曲家が異なるらしい。封切り館で観るときは、親に必ずプログラムを買ってもらい、コレクションしていたから、漢字が読めるようになると、プログラムのスタッフ表を確かめて、そのことを理解した。伊福部昭という人が作曲している映画にかぎって、音楽に憑かれてしまうと分かった。なるほど、伊福部狂いということか。やっと腑に落ちた。
 しかし、好きな映画を観るときにしか好きな音楽を聴けないのでは困る。映画館に入り浸ってはいられないし、そもそもゴジラの類が毎日上映されているわけではない。テレビでだって時おりだ。家庭用のビデオ・デッキはまだない時代だし、ならばレコードを買えばよいとも思うが、当時、ゴジラ映画のサウンドトラック盤なんて存在しなかった。洋画の話題作のサントラ盤は多く発売されていたけれど、日本映画となるととても少なく、ゴジラの類になると、テーマ曲やBGМのレコードは絶無と言ってよかった。レコード会社は、武満徹や黛敏郎、あるいは早坂文雄や芥川也寸志ならまだしも、伊福部の映画音楽に商品価値があるとはこれっぽっちも思っていなかった。
 今でこそ、伊福部には、日本のクラシック音楽の畑を代表し、しかも極めて日本的・アジア的な主張を押し出したことで存在感を放ち続ける大作曲家であり、戦後長く映画音楽の分野でも活動し、特に一九五四年の『ゴジラ』をはじめとする一連のSF怪獣映画のための仕事は最もよく人口に膾炙しているといった能書きが、ごく当たり前に付くのだが、一九六〇年代から一九七〇年代前半にかけては、情況がだいぶん違っていた。伊福部はオールド・タイプの民族主義者で、クラシック音楽の分野でのアクチュアルな仕事は、三十代半ばまで、すなわち戦前・戦中・戦後初期でほぼ終わっており、戦後に何か重要なことがあるとすれば、教育者として芥川也寸志や黛敏郎や松村禎三を育て作風に対しても影響を及ぼしたこと、それから作曲を学ぶ者の避けて通れぬ理論書『管絃楽法』を執筆したことの二点に尽き、生活のために携わった多数の映画音楽はどれも同じようなもので、とりたてて称揚すべき要素はないと、玄人筋ほど得意げに語り、その種の言説が狭い日本のクラシック音楽界に圧倒的影響力を保持していた。伊福部を無視することで日本の作曲史は紡がれていたし、伊福部を演奏するのは恥ずかしいと、今日、だいたい八十代から六十代くらいまでの日本の演奏家の多くは音楽学校で師匠たちから教育されていた。極端に言えば伊福部外しの時代があった。
 文学でも思想でも美術でも、真に大切な人を居ないことにすると、他のみんなが最大多数の最大幸福を得られるということが、どの国のどの時代にもたいていあると思う。日本の作曲だと、戦後のかなり長い間の伊福部が「居ないことにされた人」に該当した。伊福部はそのあたりを深く自覚していたし、無視される孤独に耐えることが、伊福部の人生のかなりを占めていた。ここで正直に書けば、「自分を居ないことにしている人たち」を数え上げて、紫煙をくゆらせながらしみじみと語るのが、伊福部のひとつの憂さ晴らしであったと思う。私は若い時期にしばらく、その聞き役をずいぶんとした。
 いや、伊福部の映画音楽のレコードがない話であった。より正確に言うと、全くなかったわけではない。映画のサウンドトラックから台詞や効果音を切り刻んでほんの数分に編集された、たとえば『怪獣総進撃』のいわゆるソノシート盤が、封切りの頃に、私の記憶ではレコード店よりも書店で売られていた。『怪獣総進撃』の封切られたのは一九六八年の夏休み。私はその頃、中央線の武蔵境に住んでいて、武蔵境駅北口の本屋で『怪獣総進撃』のソノシート付きの絵本のようなものを手に入れた覚えがある。ペラペラで丸められたりもするソノシートを簡易な卓上プレーヤーでかけてみると、音楽も台詞のうしろから少し聴こえてくる。いつも楽しむことができる伊福部の映画音楽の録音物といったら、少なくとも私には長いことそれしか無かった。ちいさな宝物であった。今もそのソノシートは、山本直純の音楽の『マグマ大使』や、いずみたくの音楽の『宇宙大怪獣ギララ』などのソノシートとともに、手近に置いてある。
 でも、音楽がほんの少しのソノシートだけではあんまりだ。買える品物がないならその先は勝手に工夫するしかない。小学校も四年生くらいまで来ると、カセットテープ・レコーダーの使い方を覚えた。テレビのイヤホン・ジャックと接続コードでつなぎ、映画のテレビ放送時、カセットに音楽をとりだめてゆく。「大魔神」シリーズや、市川雷蔵主演の「眠狂四郎」シリーズや、『空の大怪獣ラドン』や、三船敏郎主演の『大坂城物語』や、勝新太郎主演の『秦・始皇帝』。伊福部の映画の仕事を探し始めるとキリがなかった。しかも、いちいちクレジットを確かめなくても、東宝や大映や東映のマークが出るところの音楽で、どんな映画でも伊福部と分かってしまう。その識別のために特別な耳は要らない。おそらく誰でも、幼稚園児でも、伊福部の響きに軽くでも馴染めば、すぐに気づけるくらいに特徴的だ。個性的すぎるのか、それとも普遍的すぎるのか。
 小学校の五年、六年まで行くと、情報検索能力も少しついてきた。伊福部は映画音楽専業ではないと分かった。人名事典や音楽関係の年鑑の頁を繰ると、戦前にチェレプニン賞というオーケストラ作品のコンクールで第一位を得ているとか、かつて東京藝術大学音楽学部の講師であり、今は東京音楽大学の教授をしているとか、書いてある。いちおうヴァイオリンを習い、滝廉太郎や山田耕筰やごう泰次郎の曲を弾いたことはあったから、近現代の日本にもクラシック音楽の作曲家が存在しているという程度の知識は持っていた。伊福部はそこに連なっているのか。ならば、演奏会用の作品のレコード録音があるのではないか。それまでレコード店では映画音楽のコーナーしか探していなかった。間違っていた。クラシック売場に行って、日本人作曲家の棚を探し、伊福部の『リトミカ・オスティナータ』というピアノ協奏曲がB面に入ったLPを見つけた。これが伊福部の本領なのか。さっそく聴いた。だが、ヴァイオリンを何年習っても下手過ぎて、クラシック音楽にかえって憎しみを抱き、映画やテレビの音楽ばかり聴いている子供の耳である。怪獣映画等で慣れ親しんでいるリズムやフレーズを探す聴き方しかできない。鑑賞力がない。よく分からなかった。そこで聴き込んだ。楽曲解説も一所懸命に読んだ。そのうち面白くなった。毎日毎日聴き続けた。ついに音楽の法悦境に至った。無我夢中になって、トリップしてしまうようになった。
 もっとレコードはないのか。歌曲や『土俗的三連画』という室内オーケストラの作品も現役盤があると分かり、手に入れた。そして中学生になった一九七六年の七月、行きつけの新宿のレコード店で耳寄りなネタをつかんだ。無いと信じてきた伊福部の映画音楽のサントラ盤が間違いなく出ていると、三十代前半くらいに見えた細面の女性の店員が言う。「何ですか」と尋ねる。一九七三年の東宝映画『人間革命』だという。伊福部が作曲した映画として題は知っているが、まだ観たことはなかった。そのサントラ盤は「うちのような普通のレコード店」では取り扱っていないが、信濃町の特殊なお店には売っていると、彼女は断言する。まだ明るい時間だった。すぐに信濃町に行った。特殊なお店はどこかと尋ね歩き、たどり着いた。さっそく売り場で探してみる。目当てのものは見つからない。売っていたのは、当時公開されたばかりの『続人間革命』のサントラ盤である。音楽は伊部晴美。日活のアクション映画の作曲家としてなじみがある。そうか、きっとあの新宿の女性の店員さんは、たぶん創価学会の会員で、普通のレコード会社より発売されたばかりの『続人間革命』のサントラ盤から、三年前の『人間革命』を思い出し、そのサントラ盤も必ずあったと思いこみ、けれど「うちのような普通の店」では扱いがないから、学会本部のある信濃町で売られている特殊な商品であると勘違いしたのではないか。いずれにせよ伊福部と伊部では大違いである。とてもがっかりして帰った。
 そのがっかりを埋め合わせるために、私は伊福部邸への旅に駆り立てられたのだった。住所も電話番号も、音楽之友社が毎年刊行していた『音楽年鑑』や日本現代音楽協会の会員名簿などに出ていた。信濃町を彷徨したのと同じ月か翌月に、伊福部邸の前に至った。此処に住まわれているのか。門前で感激した。かといってそこから先は何もない。呼び鈴を押すのでも、写真を撮るのでもない。短時間佇んで、表札を凝視して打ち震え、お辞儀をして帰った。尾山台駅からまた電車に乗るつもりでいたが、何か気持ちが収まらない。あの時分、住んでいた阿佐ヶ谷まで、徒歩で戻ることにした。地図も調べず、当てずっぽうで歩き、なんとなく北上する。たくさんのトラックが行き来していて渡るのが怖いほどに感じられた甲州街道にぶつかったころは、もう真っ暗だった。広い道を渡りながら、まだ感激していた。あの日の旅は私の聖地巡礼だった。もう四四年も経つが、道すがらの諸々も鮮やかな記憶としてある。伊福部昭は私の宗教なのであろう。
 それからいろいろなことがあった。一九七六年秋、芥川也寸志指揮するアマチュア・オーケストラの新交響楽団が伊福部の戦争中の銘品『交響譚詩』を演奏し、会場の東京文化会館で、伊福部昭の本物を初めて観た。高校生になると、少し図々しくなって、一ファンとして演奏会場でサインをねだるようになった。一九七九年の『ラウダ・コンチェルタータ』というマリンバ協奏曲が初演された晩には、東京文化会館のロビーで握手までしてもらった。ちょうど伊福部が長い不遇時代から復活してくる時期に当たっていたから、作品の演奏機会も増え、作曲家の臨席する会場に聴衆として共に居ることはしょっちゅうになった。
 だが、面と向かって話を伺う機会はずうっとなかった。ファンとして音楽を聴いていれば十分で、サインをもらう以外に、作曲家に近づこうとする気持ちはなかった。それで済まなくなったのは、大学三年生のとき。一九八四年の暮れと覚えていたが、正確には年が明けてからだろう。一九八五年四月に、所属していた大学のクラシック音楽愛好サークルで、芥川也寸志と新交響楽団に出てもらい、伊福部と早坂文雄と小山清茂のオーケストラ作品のコンサートを行うことになって、その日のプログラム冊子に、伊福部の談話を載せられたらということになった。
 はて、学生の勝手な希望を受けてくれるだろうか。私は伊福部には先述の通りサインを貰うばかりで、きちんと名乗ったことも多分それまでない。けれど、決して多くはなかった伊福部ファンの中でもコアな人たちとの交流は若干あった。中でも古参のファンで、伊福部との直接の付き合いも深い、当時は顔座という小さな劇団の俳優だった伊藤浩二さんとは、録音物のやりとりをさかんにさせていただいていた。伊藤さんは後に改名し、伊藤幸純になって、年を取られてから俳優として多くの良い仕事に恵まれた。代表作には北野武監督の映画『龍三と七人の子分たち』(二〇一五年)がある。伊藤さんは七人の子分のひとり、五寸釘のヒデを演じている。
 やはり伊藤さんに頼むしかない。そうしたら即座に対応してくれた。段取りは一日で済んだ。サークルの友人たちと共に伊福部家を訪問した。今度は拝んで帰るだけではない。呼び鈴を鳴らし、仕事部屋兼応接室に入れてもらう。作曲家手ずからコーヒーを淹れてくださる。クッキーも出る。感動よりも、禁断の聖地に足を踏み入れている、してはいけないことをしている、という気持ちが先に立った。でも来てしまったからには、恐懼して押し黙っているわけにもゆかない。日本、アジア、民族主義、反復技法、音階、変拍子、民謡、ストラヴィンスキー、バルトーク、その他。時間の許すかぎり、根掘り葉掘り質問した。無礼と言うか恐れを知らぬと言うか、挑発的な訊ね方をしてしまったのも、あとから考えればよかった。伊福部の話が熱を帯びた。たとえば「助川敏弥という作曲家が、伊福部先生の功績はストラヴィンスキーのスタイルを日本の作曲に導入したことにあるが、しかしバルトークに対してはとても冷淡で、そこに限界があると言っていたと思いますが」なんて切り出すと、助川にそんなことを言われる筋合いはないとばかりに色をなして反論をはじめ、熱弁を振るって、「バルトークの近代的自意識は鼻持ちならない、ストラヴィンスキーにはそれがない、そこがいい、バルトークの嫌いな人間はストラヴィンスキーが好きで、その逆も真である、両方好きな人間がいれば、その人は虚偽である」という名言を承った。
 スリリングな時間は夢のように過ぎ、私は喜んでインタヴューを纏め、作曲家紹介や曲目解説、加えて伊福部や早坂の音楽を今日改めて聴く意義についても別途書き下ろし、プログラム冊子に無署名でまとめて掲載させてもらった。それを伊福部はすぐには読まなかったのではないだろうか。しかし、その頃、東京音楽大学で伊福部の側近だった作曲家の永瀬博彦さんが面白がって、伊福部にきちんと読むようにと強く奨め、それがきっかけで私は尾山台に頻繁に通うようになった。当時、伊福部は自伝を纏める構想を、特定の出版社から持ちかけられていたのではなく、あくまで自身として有していて、そのための聞き書きの役が、大学院進学を予定していて、当分時間のありそうな私に振られた。身に余る光栄に打ち震えた。結局、その頃の膨大なインタヴューは私の不心得もあってかたちにならなかったのだが、一九九二年に私も共著者のひとりとなった『伊福部昭の宇宙』(音楽之友社)に幾分か反映され、それ以後、二〇〇六年に作曲家が亡くなるまで、お付き合いは続き、伝記や作品にまつわるもろもろを最後までたっぷり伺うこともできた。そろそろ何かまとめておかないと怒られてしまうのかもしれない。本当は三〇年以上前にかたちにしておかねばならなかったことなのだから。

(続きは本誌でお楽しみください。)