立ち読み:新潮 2020年11月号

第52回新潮新人賞受賞作
わからないままで/小池水音

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 厚いコート紙に印刷された型にそってカッターナイフを入れ、細長い機体を切り出す。同じように切り出した主翼や尾翼を、点線で示された位置に、一ミリのずれもないように糊づけして組み立てていく。
 ホームセンターで一機六百円で販売されていたホワイトウイングスというその紙飛行機をつくることは、父親と息子がともに熱中した、数少ない趣味だった。平日の夜、風呂からあがって眠るまでのわずかな時間、作業のほとんどが父の手によって行われたが、息子はいつもかならずその隣にいて、飛行機ができあがっていくさまを熱心に眺めた。もうすぐ寝る時間だからと、卓上灯のみが点いたうす暗い寝室で、ふたりは古いライティングビューローのまえに椅子をならべて座った。その頃の父親の手は、まだ震えていなかった。

 毎週のように増えていく機体を、ふたりは段ボールで自作した専用の箱に収めた。箱の側面には、父親がホワイトウイングスを真横から見たイラストを描いた。新たに飛行機が一機組みあがるたびに、端正な線で描かれた、絵というよりも設計図に近いイラストが増えていくことも、息子の楽しみのひとつだった。
 週末ごとにその箱を紺色のトヨタ・セプターの後部座席に置き、シートベルトで固定して、近隣の公園や、ときには隣県の河川敷まで運んでいった。求めていたのは、飛行時間をより長いものにする風だった。地上十メートルから二十メートルの上空で、機体を持ちあげて運んでいくゆるやかな風が吹く場所をさがすのが、休日のふたりの習慣になっていた。
 飛行機はゴムを使って飛ばした。三分の二ほどの長さに切った割り箸の端に、幅の広い強化ゴムを結んで、持ち手をつくる。機首の下についているJ字型の金具にゴムを引っ掛けて、手前に引く。持ち手を高く掲げ、ほとんど真上を向くような角度で、機体を空中へ放つ。
 発射に失敗すると、機体は急カーブを描いて落下し、勢いのままに地面へと墜落した。うまくいけば壮観だった。弾丸のように勢いよく上昇していって、頂点に達すると、機体は一瞬のあいだ、中空に静止して見える。やがて重力を思い出したかのように身を翻しながら下降をはじめ、そのまま着陸するかと思えば、ワイングラスの底をなぞるみたいにして、再び上昇をはじめる。上昇と下降を何度か繰り返して、だんだんと高度を下げたのち、機体は腹を地面に擦りつけながら、おだやかに着地する。
 飛行している秒数を、父と息子は声をあわせて数えた。飛行時間は、ときには三十秒を超えることもあった。よく飛ぶ機体は丁重に扱ったが、多くの場合、着地の衝撃で翼の角度が変わってしまい、次にまた同じように飛ぶとはかぎらなかった。

 父親の郷里では、盆は八月に行われた。送り盆の墓参りを終えたあとに親戚一同が本家の母屋に集まる慣例が、平成の中頃はまだかろうじて残っていた。やがて戦中世代が去るにしたがって、残った世代は好き好きに墓を参り、かたちばかりの挨拶をすませると、あっさりと本家を後にするようになった。あるいは盆にも正月にも訪れず、親族との関わりをほとんど絶ってしまう者たちもいた。
 夜の宴会は、子どもたちには退屈だった。母屋から細く長い廊下でつながった離れにつめこまれても、年に一、二度しか顔をあわせることのない子ども同士の仲はぎこちなかった。母親たちは、祖母の陣頭指揮のもと台所で料理を作りつづけた。男たちは皿が運ばれてくるのを座敷でただ待っていて、競うように大きな声で騒ぎながら、ひたすら酒を飲んだ。自分の話題をみなに聞かせようと声を荒らげる者、突然妻を叱りつける者、酔って前後不覚になる者、部屋の隅で肩身の狭い思いをしている者。毎年、同じ役を、同じ者が務めた。三十秒以上飛ぶ紙飛行機を作る父親は、どの相手の話にも困ったような笑みを浮かべながら、ただ小さく相槌を打つばかりだった。
 宴会の翌日にほとんどの親戚たちが帰っていき、翌々日に残っていた数人の近縁たちもいなくなると、父親と息子は例の箱を持って、近隣の河川敷まで歩いていった。夏の盛りの日差しは厳しく、父親は赤の、息子は紺色の野球帽をかぶった。箱は息子が持ち、父親はポカリスエットの入った水筒をぶら下げていた。ときたま強風が吹いて飛ばされそうになる帽子を、父親と息子はあわてて押さえた。
 息子は、一年前に同じ河原で川遊びをしたときのことを思い出していた。その日は親戚のおじのひとりが、子どもたちがテレビゲームでばかり遊んでいるのを見かねて、河原に引き連れていったのだった。子どもたちはおじの前に列をつくって、順番に川淵へと投げ飛ばされては大笑いした。
 息子も、一度だけ列に並んだ。おまえはやせっぽちだからよく飛ぶぞ、そう言っておじは両手でわきの下を抱えて、勢いよく放った。宙に浮いているあいだの光景はかたく目をつむっていたために覚えていないが、その直前、おじに抱えられて傾いて見えた世界は、目に焼き付いて記憶に残った。視界の端でほかの子どもたちが、好奇心いっぱいの瞳で自分のことを見つめているのがわかった。次の瞬間には、水面に叩きつけられていた。遠くに飛び過ぎたために浅瀬の岩にひざを擦りむいて、血が滲んでいた。息子はそれをおじに言い出すことができなかった。
 父親と息子は、ずいぶん長いあいだ置き晒しになっているように見える鉄パイプの束に腰をおちつけた。父親は水筒の蓋にポカリスエットを注いで、息子に差し出す。ひと息に飲んだ息子は、その冷たさにむせてせきこんだ。
 息子が箱を開きながらどれを飛ばそうかと訊くと、やっぱり新作からだろうと父親は言った。前の週の日曜日にまた一機、新しいホワイトウイングスが組みあがっていた。機体の名前はいつも、父親の持っているレコードの歌手の名前から取られた。ミッチェル、シーガー、サイモン、ドアーズ1号、2号、3号。その日の新作は、テイラー号と名付けられていた。息子は箱からテイラー号を取り出して、父親に渡す。自分で飛ばしたがることもあったが、新作の初飛行の際には、息子はむしろ進んで父親に任せた。
 ふたりは川下に向かって吹く強い風が和らぐのを待った。薄い雲が出てきて日差しは先ほどよりも弱まっていたが、それでも噴き出す汗を吸ってTシャツは次第に重くなっていった。あ、やんだ、と息子が言う。よし、と父親はちいさくつぶやいて、左手を高く掲げる。機体を持った右手を引いて、パチンコを撃つ要領で空中へと放つ。
 機体は十五メートルほどの高さまで一気に飛び上がると、左に大きく傾いで下降をはじめた。そのまま地面まで落下するかと思ったところで、父親の背の高さほどから持ち直して、再び上昇する。上空でまた風が吹きはじめたのか、風下側へと流されながらも、上昇と下降を二度繰り返した。飛行時間が十五秒を数えたところで、テイラー号は川べりに繁茂した背の高い草むらへと落下していった。初回の飛行は上出来だった。
 草むらをかき分けて、父親と息子は機体をさがす。発見したのは息子だった。地面がぬかるんでいたために、機体の先端は泥に汚れていた。父親がポケットからハンカチを取り出して、それを拭った。
 父親と息子はそれからテイラー号をかわるがわる飛ばした。十五秒、八秒、二十三秒、三秒、五秒、二十秒。ほかの機体も飛ばした。シーガー号、二十一秒。ドアーズ1号、十五秒、十八秒。十秒を越えれば上出来で、その日は多くの機体が優秀な飛行時間を記録した。上空で吹く風は、地上で感じるよりもおだやかなようだった。そうはいっても、機体はたびたび強風に流されて、ずいぶん先の落下地点まで取りに向かわなければならないこともあった。

 父親がもう一度テイラー号を飛ばそうとしているとき、土手を降りてこちらに向かってくる人影があった。息子がはじめて見る顔で、父親よりもひと回りは年上に見える背の高い男だった。土手の上にもう一人、女が立ってこちらを見ていた。男の連れのようだった。
 ひさしぶり、元気か。男が、親しげな口ぶりで言う。父親は驚きを飲みこんだ様子で、小さな声で、おひさしぶりですと返した。そこの坊やは、きみの息子か。聞かれた父親は、はい、と言って、息子の足元のあたりに視線を落とす。そうか、きみも所帯を持つようになったのか。どこに住んでいる、仕事はなにをしている、坊やは何歳だ。男の問いかけに、父親はひとつずつ答えた。息子には、父親の表情がうまく読み取れなかった。送り盆の宴会中と同じ困った笑顔を浮かべていて、早く問答を終わらせたいようにも、なにか父親のほうから言葉を発するタイミングを探っているようにも見えた。
 きみもぼくも、幸せにならなくちゃいけないな。ひと通りのやりとりを終えたあと、川面のほうを見遣って、男がそのように言った。父親は、その言葉にはなにも返さなかった。父親の指先がテイラー号の左翼のあたりをいじっているのが、息子の目に見えていた。
 それじゃあ待たせているからと言って、男は土手の上にいる女を指差したあと、懐から財布を取り出した。数枚の紙幣を四つ折りにして、裸のままで悪いけど、遅いお祝いだと思って。そう言って父親に紙幣を渡そうとした。いえ、とんでもない、受け取れません。父親が言うのも構わず、男は父親のズボンのポケットに、紙幣を無理やりねじこんだ。ラジコンの飛行機、坊やに買ってやってよ。坊や、勉強がんばりな。白い歯をむき出しにして男が笑う。息子はどう答えていいかわからずに、小さく頷く。
 男は革靴が泥に汚れないように注意しながら、かたちばかり急いだ様子で、女のほうへと駆けていく。父親は、その後ろ姿をぼんやりと眺めている。男は女のもとに辿り着くと、一度振り返ってこちらに大きく手を振る。そうして向き直るともう振り返ることはなく、女とふたりで並んで歩く後ろ姿が、土手の上を遠ざかっていった。
 誰なの? 息子が父親に聞くと、父親は、あぁ、とただひとことだけつぶやく。飛ばさないの? とテイラー号を指差すと、再び力なく、あぁ、とだけ言って息子に手渡す。
 息子は、手渡されたテイラー号をゴムに掛け、思い切り角度をつけて空へと放った。放った直後にゆるやかな風が川べりを流れはじめ、機体は上昇気流に乗り、見失いそうになるほど高く舞い上がった。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→受賞者インタビュー 別れをいかに表現しうるか/小池水音]