立ち読み:新潮 2020年12月号

あくるとしの三十三さいたち――『定本三島由紀夫書誌』制作のころ/黒田夏子

 たちと複数なのは、一九七〇年十一月のそのとき、そのひとの夫人と、すでに生前のそのひとと書誌出版の確約をすませていた薔薇十字社の社長と、しばらくまえからそこで校正の賃仕事をもらっていた者とがぐうぜんおないどしで、つまり三にんともがそのひとのひとまわり下の丑年早生まれだったからだ。半せいきが過ぎてみれば三十三さいは若いというよりはどこかこどもじみてもいて、おもえばそのひとの四十五さいもあまりに若い。
 三十三さいが十五さいだったころから、すなわちそのひとが二十七さいだったころからずっと作品を読みたどってきた賃仕事人には、そうと知っている友人がいくにんかあったので、テレビのない四帖半ひとまぐらしへ報道のとちゅうにすぐ電話でおしえてきた者もいたのだが、なんとも現実感はうすく、「現代生物学大系」(中山書店)の原稿整理がつづけられながらのいくつかの電話のやりとりのうちようやく事実らしくなってくるかんじの午後となった。
 そのときはまだ、書誌についてはまったく聞いていなかった臨時やとい人だったが、あとから知ればそれも当然で、社長が編者を伴ってそのひとの邸をたずね、日ごろから資料保管にたずさわってきた夫人ともども初回の打合わせをしたのが当の月の三日(『薔薇十字社とその軌跡』論創社による)だったそうだから、変事までがわずか三しゅうかん、そして事のあとの薔薇十字社としては、書誌よりも早く決まっていた写真集“男の死”(篠山紀信撮影)発刊をめぐる夫人の意向との調整など、さまざまな難問がかさなっていく師走だったことになる。
 そんなふうで、あくるとし正月五日、翌六日にそのひとのいなくなったそのひとの邸へ同道するようにとの社長の電話を受けた者は、その書誌なるものに蔵書目録まで入れるということさえすぐには呑みこめなかったくらいで、たしかに喪中であれば年末年始もなく、できるだけ早く作業にかかろうということであるにしても、なにしろまだ松の内なのにといささかあっけにとられたのだが、もともとの薔薇十字社への紹介人の、この仕事ならぜひやりたかろう、めったにないまわりあわせとよろこぶだろうと察しての推挙かと、むろんむじょうけんで応じた。
 時給申請のための作業記録が残っている。それによれば、打合わせに行った一月六日にもそのあと四じかんほど働いていて、いらいほとんど連日、一月十七かい、二月十九かい、三月十八かい、四月二十かい、五月十二かい、六月十四かいと、年の前半でちょうど百かいかよっている。たいがい午後一時ごろから五じかんぐらいで、つごうで夜九時十時におよぶ日もあったが、当時の借りべやはさほど遠くはなく、ちなみに電車賃は片道七十円とある。提出用はべつに清書したので、このおぼえがきにはほかの出版社の月刊誌(「芸術生活」)校了の数日や、邸の本の整理とカード取りが終盤に入ったころから始まった『鎌倉武家事典』(青蛙房)の所要時間も書いてあるのだが、それで年の後半は、それぞれの印刷所の進行につれてかわるがわる原稿作りや校正をして受け渡しや相談も会社か喫茶店ということがふえ、邸がよいはごく間遠になり、どうやら十一月二十三日、すなわち一周忌直前が最後の訪問であったようだ。
 ほんとうはその日までに出版したかったのだろうが、二十ねんあまりにわたって話題をふりまきつづけたそのひとの関連記事のおびただしさ、ときどき夫人が車で施設などへの寄贈に運び出していても日日にたまった受贈本のかさはおおかたの予測をこえていて、二階の書斎まわりだけでなく、三階の円いサンルーム二つにも、裏手別棟の書庫にも分散混淆していたから、とくべつに演劇かんけいの分の整理人や異言語かんけいの分の整理人が呼ばれていた日もあった。
 当初は社員も来ていたのだが、長期にわたりそうとなってこちらには臨時やといをもう一人ということになり、校正なかまでもあった友人をさそった。この友人は第十回新潮同人雑誌賞の受賞者(鴻みのる「奇妙な雪」)で、その折の選者の中にまさにこの書物群のぬしがいて授賞の集まりでも個人的に声をかけてきたのをとても恩義としていて、やはりほとんどの作品を読んでもいた。

(続きは本誌でお楽しみください。)