立ち読み:新潮 2021年1月号

テクノブレイク/金原ひとみ

 それぞれの名前を冠したピンが地図上に散らばっている様子を目にするたび、「ぐちゃっ」と音がしたような気がする。その様子は、すごろくの盤にいくつかのコマを落としたかのようで、どことなく投身自殺を思わせるのだ。
 知ってるこれ? とやけにポップなアイコンのアプリを皆に紹介したのはナナちゃんで、好奇心旺盛な大学生たちは何それと食いつきそれぞれスマホで調べ始めた。「位置情報共有アプリ?
GPSみたいなこと?」「そうそう、どこにいるか分かるし、移動速度とか、バッテリー残量も分かるの」「何それ怖くない?」「だから、自分の居場所を知られてもいい友達だけ登録するんだよ。あ、ミナミン近くにいんじゃん合流しない? みたいな感じで近い人誘えるし」「え、これ家とか学校とかも分かるの? 住所登録するってこと?」「ううん、夜を寝て過ごす場所に勝手に家マーク、毎日通ってるところに学校とか職場マークがつくんだよ」ナナちゃんは装っているのか分からないけれど、無邪気に言う。
「えー怖い」「犯罪起きそうじゃね?」「恋人同士で使ったら絶対浮気できなくない?」などとほとんどの人が冗談めかした懸念を示したけれど、その場にいた二十人の内十二、三人が「卒業して皆が散り散りになってくのも見てて楽しいかもな」とか「関西行く時とか関西組に会いやすくなるよね」とか言いながらノリで、あるいは「誰かと繋がっていたい欲望」からゼンリーをインストールした。
「芽衣もやる?」
 遼がそう聞いてきて、「遼は?」と聞き返すと「一緒にやってみようよ、芽衣の場所分かったら安心だし」と屈託のない笑みで答えたから、私も入れた。いつもそうだった。その日も遼の友達が多くアウェー感のあるバーベキューに誘い、迷っていた私を「行けば楽しいって!」と鼓舞したのも、就活の頃ほとんど興味のない説明会に「何か出会いがあるかもしれないじゃん」と連れて行ったのも、消極的な選択をしがちな私を「あっちに行こう!」とバカの一つ覚えみたいに光の差す方に向かって引っ張ってくれたのはいつも遼で、バイトもあるしとゼミの卒業旅行を辞退しようとしていた私に「先生とゼミ仲間たちとの最後の思い出になるんだよ」と真剣に行くよう勧め、さらに遼のテニスサークルの軽井沢への卒業旅行にほとんど無理やり連れて行かれることとなった。卒業する頃、もはや彼のその資質は私には重苦しく、卒業旅行のあれこれで就職に向けての心の準備が間に合わず環境の変化に散々メンタルをやられたため、もう遼のペースには振り回されないと心に決めたのだ。そしてそう決めてしまうと、あんなに眩しく見えたポジティブさが、子供向けのアニメに出てくるような妖怪じみたものに感じられるのが不思議だった。単純に、恋愛というステージを降りて見れば、私は彼のような人が人としては好きではなかったのだ。
 明らかに属性の違った私たちはそれぞれのクラスタ向きの仕事に就き、当然の流れとして自然と疎遠になり、「俺たち別々の道を歩んだ方がお互いのためなんじゃないかと思うんだ」という最後までポジティブに別れようとする遼に、私は呆れつつホッとしていた。本当に芽衣の幸せを心から願ってる、ずっと友達でいようね。妖怪ポジティバーの言葉がどこまで本心なのか分からなかったけれど、ゼンリーの友達登録を外されることもなく、ゴースト機能にされることもなく、私は別れたあとしばらく、遼のピンを見続けていた。夜になると新宿三丁目や渋谷の方にしょっちゅう出かけている遼は、もう新しい彼女がいるのか、それとも合コンや仕事の飲みに出かけているのか分からないけれど、私と違って恋人一人と別れたところで遊ぶ人に困らないのは明らかだった。何だかんだで二年以上付き合っていた遼との別れは本質的な痛手ではなかったものの、自分自身が自分自身だけでは本当に狭い範囲でしか活動しない、コミュニケーション能力の低い陰キャであるという事実を改めて思い知らされるきっかけとなり、ゼンリーは陽キャな彼氏がいた証のようなものとして、私のスマホに残り続けた。
 自分に近い趣味趣向を持つ蓮二に出会った時、私がほとんど反射的に彼を好きになってしまったのは、そんな元彼と付き合っていたからというのもあったのかもしれない。映画や本の趣味も、激辛料理好きというところも一致していて、キャロライナ・リーパー、トリニダード・スコーピオン、ブート・ジョロキアなど激辛唐辛子の種類の話で盛り上がった時には、もうこの人と付き合いたいと思っていた。デートはもっぱら辛いもの巡りで、中野の激辛担々麺、五反田の激辛火鍋、渋谷の激辛麻婆豆腐、新大久保の激辛ヤンニョムチキン、歌舞伎町の本格四川料理屋、去年の夏激辛グルメフェスが開催された時にはラウンドが変わって店が入れ替わるたび食べに行き、毎週肛門が焼けるような思いをした。
 辛さを感じているのは味覚ではなく痛覚だという。味ではなく痛み、刺激を私たちは辛味と感じるのだ。激辛グルメフェスでそれまでとレベルの違う辛さに完食不可かと思われたキャロライナ・リーパーカレーを灼熱の太陽の下汗だくで食べながら、私たちは涙目でなぜ辛みはある一定のレベルを超すと苦味に変化するのかと話していた。単なる痛覚が限界を超えたことによるバグ説、痛みが限界を超えて「これを口に入れてはならない」という危険信号として人が嫌う苦味に変換しているのではないか説、激辛カレーの対抗策として買ったレモンサワーの氷を噛み砕きつつ私たちはそんな話をして、何とかかんとか完食するとそのまま歌舞伎町のラブホテルに入った。
 カレーで滲み出た汗が引く前に私たちは全裸になって、シャワーも浴びずにベッドに入った。汗だくになってセックスをする。それが私たちの恋愛のテーマとも言えた。会うたびにセックスをして、セックスの精度を上げていくことに二人で尽力した。バック、正常位、騎乗位、座位、それぞれの体位で互いがどの姿勢になると一番奥まで入るか、どの姿勢になるとクリトリスが擦れるか、どの姿勢になるとGスポットに刺激が与えられるか、どの姿勢になると締め付けが激しくなるか。研究し尽くした私たちはセックスをするたびにセックスを好きになり、互いの体に親しみと愛情を高め続けているようでもあった。相性が良くないかもしれないと最初の数回は思ったけれど、大きすぎると感じた性器は次第に性器に収まるようになり、しっかり奥まで届くその快感を、もうこれ以上でも以下でもない性器では得られないだろうという確信を得るまでになった。性依存の傾向など一切なく、あんまり性的なことに貪欲なタイプではないよねと、遼にはやんわりと物足りなさを表明されていたほどだったというのに、蓮二と付き合い始めてから私の性欲は延々高まり続けていた。毎回、今ここで死んでもいいむしろ死にたいという思いを募らせる。蓮二と最高のセックスをしたいがために付き合い始めて数ヶ月でピルを飲むようになった。彼が中に射精するたび、ピルは私たちのために開発されたのではないだろうかと錯覚した。蓮二とのセックスなしにもう生きていくことは不可能なのではないだろうかとさえ思った。嫌な仕事も、上司のパワハラすれすれの発言も、嫌な仕事相手との打ち合わせも、死ぬほど面倒臭い給湯室の掃除当番も、これを我慢すれば蓮二とセックスができると思うことで乗り越えた。というよりも、全ての嫌なことのご褒美に蓮二とのセックスを設定していた。
 カレーの汗がセックスの汗で全て流れ落ちるくらい激しいセックスの果てに蓮二が射精すると、真っ裸のまま仰向けで息を整える。私よりずっと運動量が多いはずの蓮二は全く息が乱れておらず、スタミナ不足を痛感する。
「ずっとセックスしてられたらいいのに」
「芽衣はすぐにもうだめって言うからね」
「すぐじゃない。今だって一時間はしてたよ」
「入れてたのは三十分くらいじゃない?」
「蓮二はずっとしてられるの? もうだめってならないの? どうしてそんなにもつの?」
「コントロールしてるんだよ。別に五分でイクことだってできるし、一時間くらい入れてることもできるよ。皆そんなもんじゃないの?」
「私の経験上素人男性の平均挿入時間は十分から二十分だと思うよ」
「玄人男性としたことあるの?」
「ないない素人だけ。どうやってコントロールしてるの?」
「呼吸かな。あと精神力」
「精神力? 根性論的な?」
「じゃなくて、自分の気持ちよさに集中しないようにする精神力」
「気持ちよさに集中してないの?」
「何ていうか、気持ち良くなりながらも気持ち良さに身を委ねないように気をつけるんだよ。長い時間かけてイク方が気持ちいいからね。だから、常に頂点を目指してる感じかな。せっかくだから、限界を目指したいじゃない」
 目指したいよ、私は笑って蓮二に抱きつく。この二人にしか目指せない限界があって、その限界を私たちは真摯に志していく。その事実だけで、ずっと生きづらかったこの世界を生きていく力が湧き出るようだった。蓮二が持ってきた水を一気に半分くらい飲むと、再び大の字になって天井を見上げる。その時はっと思い出して、私は横の蓮二を見つめる。
「蓮二、ゼンリーって知ってる?」
「何それ」
「アプリ。入れてるとお互いの場所とかが分かるの。大学の頃リア充の友達に勧められて入れたんだ」
「へえ。俺もやろうか?」
「ほんとに? 蓮二の場所が分かったらすごく嬉しいし安心する。一緒にやろうよ!」

(続きは本誌でお楽しみください。)