立ち読み:新潮 2021年1月号

わいせつなおねえさまたちへ/山田詠美

 なんとも言えない綺麗な瞳を持っている。そう幼ない頃から言われ続けて来ました。坊っちゃんの目で見りゃ、泥水も澄んだ湧き水に変わっちまうんじゃないのか、と冗談めかして言ったのは、祖母の所有するアパートの管理人を務める小島さんでした。
 祖父の昔からの知り合いの息子さんだという小島さんは、私がもの心ついた時には、もう既に我が家のどこかしらで働いていました。常に自分で仕事を見つけては庭を掃き清めたり、縁台の修繕をしたりする彼を見て、私の母は、陰で「便利屋さん」と呼んでいました。
 後に祖父が他界すると、祖母は、私の両親の提案を受け入れて、広過ぎる屋敷の一画を整備し、独身女性専用のアパートを建てました。そして、小島さんは、そこの管理人に収まったのです。
 まあ、管理をまかされるとは言っても、住人の共有スペースである廊下や玄関の清掃、ごみ置き場の点検、郵便受けに入り切らない荷物の預かりなどが主で、小島さんは時間を持て余しているようでした。私が管理人室の前を通り掛かると、大抵、気持良さげに船を漕いでいるのです。
 そんな姿を認めると、私は、窓口のガラスを指ではじいて小島さんを起こしてやるのでした。それでも目を覚まさない場合は、その小さな窓を開けて、祖母の声音を真似て少し強い調子で言うのです。
「小島さん! 居眠りにお給金は出せませんことよ!!」
 すると、小島さんは、飛び上がらんばかりに驚いて目を凝らすのです。そして、私の姿に気付いて安堵する。そんな変わり身がおもしろくて、私は、用もないのに居眠りが佳境に入っているらしいのを見計って、その初老の管理人を襲撃するのでした。
「……なんだ……坊っちゃんか」
 そう呟いて溜息をつく小島さんは、厳格な明治の男といった風情だった祖父よりも、高度成長期の波に乗った精力的な様子の父よりも、はるかに親しみ深い男として、私の目に映りました。私と来たら、まだ子供のくせに、裕福な他人の屋敷の片隅で、ゆったりと時の流れに身をまかせて生きている小島さんを既に羨しいとすら感じていたのです。彼は、少しも建設的でない!
生産性もない! それは、まったく私好みの人生のあり方なのでした。
 しかし、年中、暇に見える小島さんでしたが、アパートを清潔に保ったりする雑用以外に、実は、はるかに重要な仕事をまかされていました。いえ、それは、仕事と言うより、むしろ任務と呼んだ方が相応しかったかもしれません。頼みますよ、小島さん! と念を押すような祖母の声が、長い年月を経ても時折私の耳を掠める気がして、そのたびに身を震わせたものです。
 外の人々に向けては、我が尾崎家の女主人然として威厳を保っていた祖母の富江でしたが、孫たちにとっては、とても甘く優しいおばあちゃんでした。特に私に対する特別扱いはすさまじく、弟や妹への接し方とは比べものにならないほどでした。友也ちゃんは、尾崎家の跡取りになるのだからねえ、と何かにつけ口にする祖母ににっこりと愛想笑いを返す嫌らしいちびだった私ですが、内心、こんなふうに思っていたのです。ふん! ぼかあ、跡取りでなく小島さんになるんだもんねーだ!
 祖母は、嫁いで来た母をいびることもなかったようで、慕われていましたし、祖父の代から父へと続く仕事関係者の出入りにも寛容でした。家政婦さんたちも居心地が良さそうに働いていました。
 しかし、そんな祖母が、男女の色恋についてだけは、ものすごく厳しかったのでした。いえ、それは厳しいというより嫌悪を表明するのに近かった。
 町内の祭りなどで、いちゃつく男女に出くわしたりすると、私の手をつかみ慌ててその場から立ち去ろうとするのです。引き摺られるような格好で浴衣の裾をはだけ、道端に下駄を置き去りにしてしまった私のことなどおかまいなし。裸足の踵を擦り剥いて、痛いよ痛いよと必死に訴える孫の声など無視して、祖母は怒りに身を震わせて唸るのです。
「なんてこと! けがれが移っちまう、おお嫌だ! よくもまあ、人前であんな汚ならしい姿をさらすもんだ」
 子供心にも、大袈裟過ぎるんじゃないのかと呆気に取られました。あの人たちは、ただ親密な様子で互いをつ突き合っていただけではないか。あけっ広げで、ぜーんぜん嫌らしくない……って言うか、つまんない。
 男女のことに関して一事が万事そんなふうであった祖母が敷地の一画に建てたアパートを女子専用にしたのも当然だったのです。男女が雑多に出入りするなんて、考えただけでも不潔で許しがたいことだったのでしょう。
 小島さんに管理をまかせるのが決まった時、祖母は、いくつかの規則を作って彼に伝えたのですが、その中でも一番の重要事項は、「男の訪問者は絶対に室内に入れないこと」でした。親兄弟の場合、父親なら管理人室に届けを出した後、共有玄関での立ち話をするくらいなら許可されます。でも、兄や弟は、いつ何時、装った偽者が訪ねて来るやも知れず、まったく信用ならないので、却下。
「小島さんだって男じゃないか。そんなにうるさく言うなら、女を管理人にすりゃあ良いんだ」
 私がそう言うと、小島さんは、うしし、とずるそうに笑って首を横に振るのでした。
「いやいや、坊っちゃん、おれなんぞ年齢としを取っちまったから、もう男の内になんぞ入らんと、大奥さまは思ってますですよ」
 その時の小島さんは、六十を越えたあたりだったでしょうか。髪は、早くも白髪混じりになり、油っ気も抜けた感じでしたが、どう見ても、まだ男の内です。いや、性別というのではなく、彼から漂って来る匂いのようなものが。
「しかしね、男と認識されなくなったってのは、なかなか便利でしてね……」
 その後に続く言葉を待ちましたが、小島さんは何も言わずに、ただうすら笑いを浮かべるだけでした。

(続きは本誌でお楽しみください。)