立ち読み:新潮 2021年2月号

骨を撫でる/三国美千子

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 石橋に続いた門屋の片隅にある小門のかんぬきは、ことんと耳になじんだ音を立てて静かに内側に開いた。母屋家にふさわしい堂々とした門なのに、ささやかな音は昔から変わらなかった。年寄りたちが小ぐりとか呼んでいる小さな門はあまりにも長い年月にさらされたため、木ではなくもっと軽やかでもろい材質に変化して見えた。ちょうどオーブンで焼きあげたお菓子に似た色合いをしていた。
 ビスケットに似てんな。それを言ったのはまだ小学校に上がる前の二つ下の弟だ。あの子は、けったいなことを考える子やった。そろばん塾から帰って来たようなつもりで頭を低い小門にぶつけかけた倉木ふき子は、サンバイザーの深い影から、八月になったばかりの真夏の日差しに照らされ様変わりした実家とその奥の弟一家の家を見上げた。
 もう小学生やあらへんわ。木製の閂を開ける度、子供の頃に戻ったような錯覚をおぼえるふき子は苦笑いした。これでも、今年五十歳になる。弟の明夫が結婚してから、実家は歩いて十分もかからない場所にあるのに遠い場所になってしまった。
 毎週土曜日に一度、それも弟の結婚相手に遠慮しながら帰る。古い巡礼街道沿いの村にはそこかしこに見張りの目が光っており、その日のうちにふきちゃん帰ってはりましたで、と農作業中の父親の善造に言いつける人がいた。
 お宮さんの裏には羽日山はねひやまという山が広がっている。善造が昔話にスクドをかいたと話す、かまどの焚き付けに使う枯れ松葉を拾った、生活に欠かせない山だった。ふき子の母は姉妹たちとまつたけ狩りで半日遊んだ思い出を何度となく娘に話して聞かせた。
 ふき子が小学校三年生の頃に、山は崩され宅地が造成された。華々しい宣伝文句と一緒に、きれいに区画整理され羽日ヶ丘はねひがおかと町名をつけて売りだされ、大阪市内へ急行電車で二十分という立地のよさもあり住宅地に変わった。
 丁度、羽日ヶ丘の真ん中に、ふき子が初めての出産をした総合病院がある。長女は未熟児ぎりぎりの体重で生まれた。意地の悪い看護婦が一人いて、決められた授乳時間にお乳を飲ませられないと目をつけて嫌味を言った。すぐに眠ってしまう赤ちゃんの小さい足をつねって、閉じてしまう唇に無理やり乳首を押し込まなければいけなかった。
 羽日ヶ丘の病院は、肺結核専門として建てられたのを在の人なら誰もが知っていた。山の方角から風が吹いたら結核菌が集落まで流れてくると嫌がったものだ。ふき子も祖母に言われて慌てて物干しざおの洗濯物を取り込んだ。そういうとき目に見えない菌がそこまでふわふわ飛んでくるような、空恐ろしい気持ちになった。出産で入院したとき、結核を恐れる人はいなくなっていたけれど、綺麗に磨かれた床や、白いベッドのそこかしこに、目に見えない嫌なものが潜んでいるような気がした。
 母屋の奥の崖の上に建てた、かれこれ二十年近くなる明夫の新居をこの家ではいまだに「新築」と呼んでいるように、ふき子も母屋の人も月日が経っても昔風のままを守っている。二〇〇一年になっても、裏の山はこの家の中ではまつたけ山のままだった。
 どっち道、私はこの家の娘や。娘が自分とこ帰って遠慮する必要あらへん。ふき子は敷居を取って平らに改築された表玄関ではなく、裏の戸を開けた。
「お母さーん」
 土間はなくなったが、裏口の小さな外台所だけが以前と変わらなかった。新聞紙が広げられかごに変形したきゅうりとはぜかけたトマト、病気のせいでへたの辺りから茶色くかさぶたのようになったまずそうな茄子が三つ転がっている。
 鍋から湯がふきこぼれふたが浮いている。コンロの前のタイルには火伏のお札が貼ってある。ふき子は顔をしかめてサンダルを脱ぎすてスイッチを止める。
「お母さん」
 咎める口調で反対側の食卓のある台所の網戸を押して、いつもベタついている板の間と皮脂汚れのせいで黒っぽいスリッパを横目に、菓子折りをそれもあまり衛生的ではない食卓に置いた。建て替えと同時に買い替えた食器棚にばらばらの食器が入っている。農機具屋の名前が印刷されたカレンダーとそこに書かれた父親の鉛筆の文字はふき子がこの家にいた頃のままだ。
 サンバイザーと丸めた手袋をふき子は置いた。流しの洗い桶の中にボウルが浮かんでおり、醤油色の底に干しエビが身を縮めて丸まっていた。薄くて甘っぽい、実家の素麺のつゆの香りがふんと漂った。底から滴る冷たい雫を、仕方なしにその薄汚い布巾で拭く。
 片手で何気なくボウルを持ち上げた拍子に右手の指先がじくりと嫌な風にうずいた。人差し指と中指の第一関節は変形している。元々節高だった第二関節よりも腫れあがり、内側に曲がっている。ふき子は冷蔵庫を開けて賞味期限切れの食品や貰い物の漬物を見ないようにし、すき間に麺つゆのボウルを押し込んだ。
 窓の向こうにあるはずの明夫の嫁の軽自動車はなく、牛小屋だった建物のくすんだ漆喰の壁が光っていた。
「ふき子か」
 食卓の向こうから声がする。
 かちかちになった餅みたいなくるぶしが食卓の脚の横で動いていた。
「お母さん。嫌やわ。どこで寝てんの」
 ふき子の声がきんと尖る。
 倉木敏子は化繊のスカートに去年七十歳の誕生日に娘からもらったブラウス姿で頭だけ上げ、頬かむりをしたままいかにも信用ならないきれいな笑顔をむけた。
「腰が痛いさかい、ちょっとのばしてたんや」
「吉田先生とこでけん引してもらったら」
 ふき子は身についた保護者めいた物言いをしながら引っ張り起こす。
 兄嫁に育てられたさかいと敏子は言い訳したが、度々鍋を焦がして火事を出しかけるのはそそっかしい性格のためだ。
 ええときに来てくれた。敏子は横になっていたのが嘘みたいにはね起きると、さっそく菓子折りを仏壇のお供えのてっぺんに乗せ、便利に使われるのを警戒するふき子を連れて、南の廊下を歩いた。
「じき昼や。お父さんら帰ってきはるで」
 素麺の用意がまだと指摘されても敏子は首を振った。
「滅多なことですぐ終わらへん。こーんな石どーんと二つも持って行かはったんやもん。男三人でもかかる」
「石でふさぐやて、意地のわっるい」
 歩道橋の交差点にある納屋の、その筋向いにどろぶけと善造が呼ぶ土地があった。ふき子の夫はその細長い土地に関するごたごたで朝からたたき起こされ、一仕事させられているはずだった。どろぶけは元々高い崖の真下にあるせいで、日当りが悪く水っぽい田んぼだった。その崖の並びに建てられた数軒の小さな店舗にとって、駐車場として恰好の場所なのだった。そしてそのうちの一軒の飲み屋と善造はここ半年ほど駐車料金をめぐって対立していた。
「止めときて私、せんど言うたのに」
「まるでやくざや」
 善造の短気と癇性は有名だった。
 敏子は南の廊下から仏間に通じる滅多に開けない戸に手をかける。
「お母さん。私、大掃除なんか嫌やで」
 突拍子もない敏子の性分をふまえて、ふき子は警戒した。
「掃除やてこの暑いのにするかいな。ええからついといで」
 現れた中二階へ続く黒い階段梯子を敏子は慣れた様子でひょいひょいと上ってゆく。
 ふき子の目の前に敏子のすねがむき出しになった。若い頃の母親の足はむっちりとよく肥え、農作業のせいかふくらはぎがこんもり盛り上がっていた。棒みたいに痩せてしもて。
「落ちなや」
 母親が振りむいたので、ふき子は「落ちるかいな」と憎まれ口をたたいて、目の前の梯子段に集中した。
「新築の人らは?」
「堺。夕飯よばれてくるのとちゃうか」
 実家だと聞いてふき子はほっとする。
 明夫が三つ年上の絵梨を連れてきたとき、土も触ったことない子は嫌と反対したのは敏子だった。絵梨の母親が新居にとアパートを借りる実行手段に出ると、善造はあっけなく手の平を返して結婚を認めた。嫁は下目からもらえが口癖の父が、婚期を逃すのを恐れて妥協したのがふき子にはわかった。
「むっとする」
「あんた、そこ気をつけや」
 敏子はふき子の足元のすき間をあごで示す。

(続きは本誌でお楽しみください。)