立ち読み:新潮 2021年4月号

墳墓記/高村 薫

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 正二位権中納言定家、石積みの墓室に臥したる夢を見き。五臓へ骨へ、しん、しんと静けさが沁みとほる心地す。けだし氷に音あらましかば、かくあらまし。しばしおとなふものなき半闇に身をゆだねし間、らぬ思ひは浮かびもせず。いまに至る少し前まで、上は眼尻の縁から、下は尻の穴まで身のくまぐまにひしめき、渦巻きし音どもぞいまはなかりける。定家卿、つひぞ見知らぬ静けさに感じ入り、声立てて嗤ふ。はは、はは。
 然は言へ、かくて無音のときに興をそそられしも束の間、五十年にもならうかといふ歌詠み暮らしの習ひか、思はず耳が音を、声をぞ探りつる。あ――あがしき夢。あ――あまつかぜ――。然れば、ふきまよふゆふぐれの。ゆふぐれは――ころもですずし。さてまた、ころもですずし夜半の秋かぜ。あきかぜ。あきかぜぞ。あきこそあれ人はたづねぬ松の戸を。あきをへておなじかたみにのこる月かげ。月。あまのとの月のかよひぢ――。打ちおけばすずろに降り注ぎ、交じらふ声々の、さらさらはらはら賑々しきこと、真言の偈頌げじゆに云ふ重重帝網なる云々の、天部の禁中に張り巡らされし宝玉の網のやうで、また小さく嗤ふ。はは、はは。卿はこの三月、新勅撰和歌集千三百首あまりを帝に奏しけり。
 但しそれら声々も忽ちに失せぬれば、またしんと静まる。つやつやと黒く濡れそぼつ石積みやある。しかれども眼は開けるとも閉づるともつかず、定家卿、我か人かにて訝りき。これはが墓か。いや、みまかりしはこの我か。いや、それも希代なことと覚え、とりかへし何事ぞ出で来ると見入り、揺りゆくほどに、それ天武天皇大内山陵盗事かと覚え浮かびぬ。過日、自ら日記に書きすさびたるを、忘れまじ。曰く群盗、墓室に押し入り、品々の金銀類を奪ひしあとには御骨、御白髪が散りし云々。天武の崩御は朱鳥一年なれば、御陵では五百四十九年を経てなほ御髪がかたちを留むるかと神妙を覚えけり。
 さても老いて夢見騒がし。ふるとしの暮れ、切り継ぎのまにまに返す返す万葉集を眺むるほどに、みよしののみみがのみねにと天武が詠み、時なくぞ雪は降りける、間なくぞ雨は降りけると詠みける、少々耳立つ音を口づから詠じては、ただあぢきなしを知りぬ。みよしののみみがのみねに。時なくぞ。間なくぞ。あるいはまた、よきひとの、よしとよくみて、よしといひしなど、ありし世の声の響きはそも如何かと惑ひぬ。永らく飽きるほどに歌を詠み習ひける我にしても、昔人の声に暗きこと凄まじ、と。げに新古今の真名序にいふ、煙鬱ひらき難し。
 いや、待て。いま一度わが夢に沈め。誰をか憚る。これは夢ぞ。神上がりし天武になれ。いたづらになりてもがりの声々に弔はれ、山陵に葬られたふる人にしばしなり代はれ。その人が五臓や骨に籠もらせ、留めし声を聴け。たとへば皇后の哭泣こくきふの声。隼人らが魂振りの吠声。八日八夜の歌舞飲食の声。皇子や臣下が奏せし帝皇日継のしのびごとの声。それに曰く、天地初めてひらけしとき。八百万千万ちよろづ神の神集ひ、集ひ座して云々。喉を震はし、曲をあやつり誄を奏せし朝臣のなかには我のとほおやの某もありけるらし。太き声。細き声。そこに飛鳥は檜隈ひのくまの山陵を吹きこす風や草の声。鳥の声。それらが墓室の棺の石に伝はり、低く響き合ふ声。あるいはまた、若かりし日に国見したる山河に立ち込めし声々と重なり、額田王や五百いほへのいらつめを焦がるる声と響き合へば、かの人の五臓に如何なる音が生まれいづるや。さあ、聴け。聴け。
 定家卿、ゆるほどに息をつめ、枕をそばだてて四方よもの気色を聴かんとす。老い屈まりし身に新たなる力を得ればよし、得ざらんは老いの寝覚めの性とあざる。さあ、聴け。聴け。

(続きは本誌でお楽しみください。)