立ち読み:新潮 2021年5月号

道化むさぼる揚羽の夢の/金子 薫

   1 羽化する男たち

 蛹の形の拘束具に閉じ込められ、天野正一は夢を見るばかりと成り果てた。辛うじて首から上は外に出ているが、躰の方はすっぽりと金属の蛹に収まっており、糞尿を垂れ流す程度の自由しか許されていない。
 天野だけではない。機械工として地下工場に召集された者たちは、おそらく誰も彼も同じ状況にある。首を捻り辺りを見渡せば、人の顔が露出している銀の蛹が、一定の間隔を空けて数限りなく、鎖によって天井から吊り下げられている。
 天井のスプリンクラーは、本来は防火用なのだろうが、日に数度、機械工たちの喉を潤すべく散水を行っていた。命まで奪うつもりはないらしい。顔についた水滴を舐め、ひたすら夢想のなかに逃避して、どうにか天野は生きている。だが、限界は近いという予感もある。
 最初のうちは、一体これは何なのか、と考えるだけの気力があった。考えたところで現状は変わらないにせよ、少なくとも悲惨な自己を直視し、あるかなきか分からぬ意味を探ろうと努めていた。今はそうでない。収まっている天野の躰は、汚物を接合材に、蛹と癒着してしまっている。彼は蛹と一つになり、飛翔の夢を見ているのだった。
 天野は天野でなくなったのかも知れない。身を捩ると蛹が揺れ動き、鎖が軋りを上げる。初めの頃は無駄な足掻きに過ぎなかったこの運動も、今の天野にとっては羽化の時期を予想するための行為になっている。
 呻きに満ちた広間の宙空で、今日も彼は躰を揺さぶり、羽化の瞬間を今か今かと待ち侘びている。まだ躰はどろりと溶け始めておらず、蛹のなかには四肢が残っている。動かそうと思えば動かせる。思ったほど変容が進んでいないのなら、さっさと眠ってしまうに越したことはない。
 微睡みのなかで天野はしばしば蝶になっていた。夢のなかでは色取り取りの翅をはためかせ、晴天の下、花畑を舞っていることが多かった。醒めてみれば、高く舞い上がるどころか地下の広間で拘束され、天井から吊るされ、自らの糞尿にまみれている。
 ああ早く蝶になりたいものだ。それだけを願い、固く眼を瞑った。すると直後、スプリンクラーが散水を開始した。顔に降りかかってくる水を舌で受け、天野は歓喜ゆえ言葉にならない叫びを上げた。周囲の機械工も同様だった。廃水を使っているかも知れないというのに、皆口々に慈雨である如く喜び讃えたのである。
 瞼を閉じたまま、水滴を味わい、天野は考える。この雨は羽化の予兆であるに違いない。自分たちは越冬蛹で、降り注ぐ生暖かい水は春雨なのだ。冬が過ぎ去り春が来た。無数の蛹が破れ、蝶が一斉に飛び立つ日は近い。

 拘束が始まって数日、いよいよ蛹は床に下ろされた。機械工を蛹に押し込んだ男たち、地下工場の監督官が、今度はその手で皆を解放する。蛹の正面は左右に開くようになっており、彼らは手分けして順々に解錠していった。
 拘束を解かれた機械工らは、天野も含め、意識が混濁しており、凄まじい飢えも相俟って歩行すら困難な状態にあった。しかし監督官は容赦しない。数百人といる機械工に対して、彼らの数はおそらくその十分の一にも満たないが、鉄の棒による殴打が統制を可能にしていた。
 鶯色の制服を着た監督官たちは、機械工を叩いて起立させると、地表近くの蛹の広間から、さらなる地下へ追い立てていく。口汚い言葉が追い討ちをかける。
「歩け、間抜けども! 仕事場に案内してやる」
「列を乱すな! おい、おまえ、ぶん殴られたいのか?」
「よたよた歩いてると、蛹に逆戻りだぞ!」
 蛹から抜け出したばかりの、無数の裸体が、罵言と殴打に脅かされ、広間からの出口を目指し、我先にと前進する。天野も床に転がる蛹や鎖を跨いで一心不乱に歩く。棒の一撃を避けるべく、皆が皆、より内側に入ろうと骨を折っていた。
 拘束による衰弱で声もなく倒れてしまう者もいる。だが、機械工たちには同僚を気遣う余裕がない。身を凭せかけ合い、互いに汚物を擦りつけ、立たない足腰を無理にでも立たせ、暴力から逃れることのみ考える。
 コンクリートの床を裸足で歩き、両開きの扉から出ると、下りの短い鉄骨階段が現れた。階段を下りた所には、錆びついた鉄の引き戸があり、その先に十数人ずつ通されていく。天野も他の機械工たちと一緒に入る。
 通された広間は縦に長く、天井を支えている柱が一直線、等間隔に立っていた。左右の壁際には監督官がずらりと並び、青いホースを構えていた。奥に開いている扉に向かって歩き出すなり、一行めがけて放水が始められた。
 こびりついた糞まで流れはしないが、躰は幾らか綺麗になった。痛いほど激しく打ちつける冷水を浴びながら、天野たちは駆け抜ける如く部屋を通過する。寒さにかちかち歯を鳴らし、身を震わせながら、即席のシャワー室を後にした。
 またもや鉄骨階段を下り始める。機械工たちは地下へ地下へ引き摺り込まれていく。前進を渋れば制裁が待っている。振り上げられた鉄の棒を恐れ、鼠のように巣穴に潜り続ける。但し自ら掘った穴ではない。
 いつの間にか巨大なすり鉢状の空間に出ていた。大きく螺旋を描き、すり鉢の内部を壁に沿って下降しているのだった。
 進行が停滞した時に、階段の手摺りから身を乗り出して、天野は下を覗き見る。螺旋の幅が次第に狭まっていくのが分かる。やはり円筒でなく、すり鉢のなかにいる。暗くてまだ見えないが、底に到るまで行進は続くように思われた。
 列を崩したり整えたりしながら、天野たちは底を目指して歩く。呻きはすれど互いに言葉を交わすことはない。蛹から出られた幸福を味わう暇もなく、螺旋状の下降運動に巻き込まれてしまい、誰もが疲弊し切っていた。

 一巡する度に幅を狭め、巨大な円を幾度も描き、機械工は底面まで辿り着いた。多くの者が身を縮め、小刻みに震えている。天野も指で鼻水を拭ってばかりいる。ただでさえ地下深く潜ったというのに、裸で、びしょ濡れで、素足で立っているのだから、無理もない。
 すり鉢の底は楕円形をしており、ステンレス製の作業机が、おそらくは機械工の人数分以上用意されている。汎用フライス盤、汎用旋盤、ボール盤、研削盤など、見慣れた機械が点在していることからも、ここが仕事場であると分かる。
 見上げれば、すり鉢の内壁に巡らせるように、ぐるりと鉄骨階段が設えられている。自力で下ってきたとは信じ難い位に大きな螺旋を描いている。半ば意識を失いつつ、数時間あるいは半日ほども歩いてきたのだった。
 監督官も徐々に集まってきていた。猟犬の如く機械工を怯えさせ、時には鉄棒で叩きながら一緒に下りてきた連中のみならず、蛹の引き下ろしを行った者や、放水によって糞便を洗い流した者も、後ろからついてきていたらしい。皆が同じ鶯色の制服に身を包んでいるが、見覚えのある顔も幾つかあった。
 やがて自然と、監督官は楕円の中心に、機械工は周縁に、まとまって立つようになった。一方は銀のボタンの光る制服を着込んでおり、他方は未だに糞のこびりついている裸体を晒している。
 裸に汚物を散らして臆面もなく立っているからか、天野には、不正は自分たちの側にあるように感じられた。すべて正当な処遇なのかも知れない。この思いは他の機械工を観察するうちに強まっていった。
 服も着ず、排泄の汚れまで放ったらかしにしているなんて、殴られても仕方ないではないか。監督官は皆、ぴったりとした制服を纏い、規律を重んじ、暴力も辞さない覚悟で秩序の維持に当たっているのに、我々はこの有り様ときている。
 許しを哀願する如く瞳を潤ませ、機械工の合間から中央の監督官を見た。どうも段ボール箱を次々開けているようだった。数多くの裸体が犇めき合っているため、はっきりとは見えないが、派手な色合いの服を箱から取り出している。
 仕事着が配られるのかと思うと感無量だった。さらに太い棒を取り出し、改めて殴打を始めるのではないか、と恐れていたため、喜びは一入である。背伸びをしたり、軽く跳ねたりして、天野は贈り物を待ち続ける。
 いつしか誰もが仕事着に気づき始めていた。中心近くに立つ機械工たちから同心円状に、楕円の縁に向かって騒めきが伝播していく。天野の隣に立っている、少し年長の、おそらくは三十代半ば程度の男性も、今や満面の笑みを浮かべ、爪先立ちで跳躍を繰り返していた。天野も負けじと跳ね、濡れた髪を振り乱す。
 拡声器を通した監督官の声が、すり鉢の内部に反響する。
「諸君、これより作業服の支給を始める。蛹の期間に耐え、その上、よくここまで歩き通したものだ。当工場の機械工として、全員を正式に採用する。蛹から出て、この作業場へと下り、ついにおまえたちは蝶になる権利を得た。見るがいい」
 横並びになった数人の監督官が作業服を高々と掲げた。背伸びをして眼を凝らすと、黄色の地に赤と黒で模様を描いた繋ぎであった。青と白も見える。辺りでは歓呼の声が上がり、天野も昂揚を抑えられずにいた。
「おまえたちの翅だ。穴の空くほど見つめ給え。この服を着た瞬間、おまえたちは一人前の機械工に生まれ変わる。これは早い者勝ちではない。蛹のなかで絶命した者や、ここまで辿り着けなかった者もいる。翅は余っている。さあ、ゆっくりと、押し合わずに取りに来なさい」
 姿は見えないが、別の監督官も拡声器を通して叫んだ。
「翅は沢山ある! 決して駆け寄らず、落ち着いて取りに来い! さもなければ、ここでぶちのめしてやるぞ」
 機械工の群れが逸る気持ちを抑え、楕円の中心に向かって歩き出した。思わず駆け出しそうになりつつも、天野も辛抱強く歩を進める。どの裸体も眼を輝かせ、芋虫の己を捨てるべく、翅の方へと引き寄せられていく。
 前の二人とはまた別の、姿の見えぬ監督官の声が響き渡る。
「受け取り次第、部屋に行き、シャワーを浴びてから着用しなさい。おまえらには家を用意してある。胸の刺繍は棟および部屋を示す番号になっている。糞のついた躰で着てはならん。団地への移動については、近くの監督官に指示を仰ぎ給え」
 先頭の方では何人か、早くも作業服を手に取っていた。雄叫びを上げ、握り拳を突き上げる姿が見える。天野も周りの肉体ともども進む。中心に近づくにつれて足取りは軽くなり気持ちも舞い上がる。
「まだまだ翅はある。押すな駆けるな、指示が聞こえなくなるから喋るな! 箱に手を突っ込むなんて以ての外だ!」
「嬉しいのは分かるが、その場で直ちに着るなら、鉄槌を下さなくてはならん! 糞をつけるんじゃない。部屋だ、真っ直ぐ部屋に行くのだ」
「箱の前では一列になれ! 一人ずつ手渡しで与える。早歩きもしなくていい。時間はある。仕事は明日からだ。今日は、服を受け取ったら団地に行って、番号通りの部屋を探して休んでくれ」
 天野は微笑を浮かべていた。どの監督官が怒鳴っているのか、拡声器が誰から誰に渡っているのか、もはや遮られずに見渡せるようになっていた。
「作業服を貰ったら、すぐに下がって道を開けなさい」

(続きは本誌でお楽しみください。)