立ち読み:新潮 2021年5月号

[対談]「速い怒り」に抗って/朝井リョウ村田沙耶香

   ひんやりとした怒り

村田 正直に言うと、私は朝井さんが今回お書きになった『正欲』という作品を、最初は怖がりながら読んだんです。冒頭の文章から、ちょっと不穏さを感じてしまって。でも、物語が進むうち、どんどん作品世界に引き込まれていきました。この小説では章ごとに視点人物が変わっていきますが、どの視点も面白いですね。それぞれの人物の眼差しと思考で、世界をいろんな角度から見ている感覚になることができました。同時に、この小説全体が引きのカメラで撮られているというか、登場人物たちをどこか遠くからの視点で描いているような印象も受けて、そこに不思議な魅力を感じました。
 朝井さんが『正欲』で挑戦したのは、かなり難しいテーマだと思います。マイノリティを描くとき、その存在を小説にとって都合がいい道具にしてしまったり、自分にとって気持ちがいい代弁者にしてしまったり、ということが怖くなってしまう気持ちが自分自身にずっとあります。書くときは真摯に、誠実に、と思っていますが、それは何をテーマにしても当たり前のことなのに、と自分で自分を軽蔑する気持ちも抱いています。なので、朝井さんは真っ直ぐだなと思いました。私は小学校のころ書いた小説の幾つかが、マイノリティを主人公にした、とても差別的なものになってしまったことを今でも恥じていて、それを引き摺ってすごく慎重な気持ちになってしまっているのかもしれません。すごく尊敬している作家さんが、マジョリティが喜ぶマイノリティは絶対に書かないようにしている、とおっしゃっているのを聞いたことがあって、肝に銘じています。朝井さんはこの作品で、決して多数派にとって都合のよいマイノリティを描こうとはしていないし、逆に、そうした作品をつくる人々を化け物のように映し出している。繊細な気遣いによって、全体の構造が編まれていると私は感じました。
 そして、あるマイノリティである人物が、実は別のマイノリティの尊厳をめちゃくちゃに踏みにじっているという可能性も当然ありえますよね。はっきり書かれていないにしても、読みながらそうした見えない部分の想像まで働かせられるのが、この小説のすごく興味深いところかなと思います。

朝井 まずはお忙しいなか『正欲』を読んでくださって、本当にありがとうございます。村田さんとはプライベートでも何度かお話しさせてもらっていますが、今日は会話の内容が公開されることを前提に話さなくてはいけないので、難しさがありますね。
 いま、『正欲』は引きの視点で書かれていると評していただきましたが、私は村田さんの作品を読むたびに、自分は全然引けていないなと痛感するんです。私の小説って結局、相対的な認識から生まれているんですね。はじめに世界というものがあって、次にその中で生きる自分の存在が見えてくる。今回の『正欲』という作品では悲しみの感情が目立っていると思いますが、これも一に世界、二に自分という順序だからこそ、世界の側に自分が擦り合わされる形で主体的な感情が出てくるんだと思います。一方で村田さんの作品は、まず自分があり、次に世界があるという順番だという気がしていて。

村田 確かにそうかもしれません。

朝井 だから、あえて言ってしまえば、村田さんの作品は一見すると悲しげなシーンであっても、読者にストレートに悲しみを感じさせることがない。例えば、今度文庫化された『地球星人』では、ある出来事によって主人公の奈月の口や耳が壊されてしまいます。ここはとても辛い場面だけれども、村田さんはそれを純粋な悲しみという形では書かない。それはやっぱり世界に先行して自分が存在しているからで、世界に確固たるルールが存在し、それに沿えないのが悲しいという認識がそもそもない。だから、私はおこがましくも村田さんと話が合う部分もあると思いつつ、実は根本のところでは正反対なんだろうなとも感じています。
 それに、村田さんの作品って、笑えるポイントがあるんですよね。『地球星人』の後半、実家の家族が夫を連れ戻しに来て、捉えられた夫が「やめてくれ、助けてくれ!」と叫びます。奈月はこれを受け、「本当に助けてほしい?」と返す。近くに草刈り用の鎌があるから、助けようと思えば助けられるけど、と。対して夫は、「いや、本当には助けないでほしい」と答える。私は読みながら、こんな切迫したシーンで吹き出させられたことに本当に驚きました。この場面、読者に悲しみを訴えかけるように描くこともできると思うんです。私なら安易にそうするでしょう。でも村田さんの場合は、こういうシーンでつい笑ってしまうような一行が出てくる。その点からも、世界と自分の認識の順番が違うのかなと感じました。

村田 もしかすると朝井さんと私とでは、仮に同じ物事を見ていても、カメラの種類が違うのかもしれませんね。確かに『正欲』には悲しみの感情も描かれていますが、私が作品を読みながら感じたのは、ひんやりとした怒りなんです。世界に対する温度が低い眼差しというんでしょうか。その眼差しは作者ではなく、登場人物が持っているものだと考えていますが。一般に、「怒り」という感情が小説のなかに出てくるとき、人物の感情が走ったり、言葉が熱を持った感じで描かれたりすることが多いと感じています。しかし、朝井さんが『正欲』で描いているのは、「遅い怒り」だなと思いました。

朝井 おっしゃる通りです。

村田 「速い怒り」が描かれた小説って、たくさん出会ったことがありますし、読者もわかりやすく共感できますよね。でも、『正欲』では同じ怒りでも長い時間をかけた怒り、あるいは冷え切った怒りが描かれていて、私はそこに心惹かれました。

朝井 いま村田さんがおっしゃった「遅い怒り」という言葉は、『正欲』を書きながら私の頭にあったことを、すごく的確に言い表していただいた気がします。そもそも私は、「速い怒り」に対して不信感があるのかもしれません。おそらく怒りの方へ思い切り流れてしまったときの自分は、周りの声が全然聞こえなくなっていると思うんです。もちろん、「速い怒り」は瞬間的にはパワーを持ちうるのだとしても。

村田 それで言うと、私はおそらく怒るという感情が子供の頃に故障してしまっていて、「遅い怒り」しか持ち得ないのかもしれません。だから惹かれたのかもしれないです。私自身は、何かよっぽど嫌なことがあっても、それから一年くらい経ってからようやく、「あのときは酷いことを言われたな」と思ったりするので。

朝井 村田さんの話を聞いた周りの人たちが「それは怒った方がよかったんじゃない?」と思わず代わりに怒るケース、本当に多いですよね。村田さんは自分の身に起きたことを淡々とお話しになっているんだけど、我々の側が「それは相手からすごく失礼なことを言われている」と憤ってしまうという。肝心の村田さんはあまり怒っているように見えない。

村田 自分が怒ることに違和感があるんですよね。私は幼少期に、神様が心の中をすべて覗き見ていると思っていたんです。それで怒りだとか汚れだとか、誰かに対する負の感情は細かく分析し、解体しなくちゃいけないと努力していて。そうした形で自分の感情が違うものに変容するまで弄り続ける、という行為を子供時代にしすぎたせいで、いまでもスピードの速い怒りをうまく持つことができないのかもしれません。

(続きは本誌でお楽しみください。)