立ち読み:新潮 2021年6月号

オーバーヒート/千葉雅也

 晴人はるとの視線はまっすぐ伸びて壁のタイルにぶつかる。
 僕らは並んで換気扇の下でタバコを吸っている。ごうごうという通常の音にシュンシュンとこすれるような異音が混じっている。この苛立たしい音が前触れもなく鳴り始めて数日続くときがあるが、気づくとまた消えているので、ヤニのせいだろうし掃除すべきなのだがしていないままだった。旋盤みたいな音。高速で回転する金属に油を垂らし、そっと刃を当てると、灰色のかつお節を撒き散らしながらその素材はだんだん意味を持つものに近づいていくだろう。
 晴人の横顔を見る。すると、二人のあいだの短い辺と、晴人から壁への、それより長い辺とで直角の定規になる。僕はその直角に対して斜辺をなす視線で、晴人の視線が伸びていく先へと意識を集中する――ヤニで黄ばんだタイルに蛍光灯が映り込んで、その水溜まりみたいな楕円のところだけが元の清潔な白さを取り戻したかに見える。
 飲みに行ったあと、僕の部屋でセックスをした。それはいつも通りのことだった。挿入はしない。ただじゃれ合うように交替で体の表面を刺激し合い、我慢の果てに精液がほとばしるに至って、そのあと二人でタバコを吸っているこの少し気まずい時間が好きだ。
 晴人は僕より肌が白いと思う。いくらか高めに張り出した頬骨の上に目の窪みがバルコニーのように載っていて、その瞳はガラスで閉ざされた室内の暗がりを示している。
 頭の中には脳があるわけだ。ピンク色で柔らかくて湿って重たい荷物がある。オイル漬けの牡蠣にも似たぬらぬらと光るそれの重さを体の一番上で支え続けなければならない。だがまた、そこには空っぽの屋根裏のような空間がありそうだ。とも思いながら、僕はタバコを灰皿に押しつけた。薄暗い部屋がある。目、鼻、口から光が差し込んでいて、そのまっすぐ伸びる淡い帯の中を悠然と埃の群れが海流になびくプランクトンのように立ち昇っている。
 泊まってけば、と僕は訊こうとした。
 タバコを消してすぐ口を開きそうになり、その勢いに乗ってもいいはずなのに一瞬息を止め、そしてまた息を吸って吐いた。断られるなら言わない方がマシだ。
 晴人もタバコを消し、僕は換気扇を止めた。
「じゃあ、そろそろ電車やばいから」
 と言って晴人はソファの方へ行き、黒いナイロンのバックパックを担ぎ上げた。仕事帰りだから重そうだった。その重さは赤ちゃんくらいありそうだと思った。

「増えたなあ。酸素足りんとちゃうの?」
 男はそう言って笑い、水槽を見下ろしている。皆にゴジラと呼ばれ、いつもスロットマシンにかじりついている男。L字のカウンターの短い方の端にスロットマシンがあり、その液晶の光にぼうっと照らされる隅っこが定位置で、たぶんここの誰も名前も仕事も知らないその男が黒いTシャツから生っ白く太い腕を突き上げて水槽にエサをまぶそうとする。
 入口の脇に水槽があって、薄く開いたドアの隙間からアスファルトが濡れているのがわかる。夜も雨が続いていた。今日はずっと雨で、もう梅雨入りすると思う。
 晴人が予想通り帰ってしまってデートが終わり、それからシャワーで陰毛から腹にこびりついた精液を洗い流し、別の服に着替え、傘を差して自転車でバーにやってきた。
 小さな熱帯魚の赤や紫や青の尾ひれがゆらゆらと漂う光景は、鬼火が夜の山を漂うようでも、水にこぼれた血の煙幕が消えずに渦巻いているようでも、あるいは何かの記念日に戦闘機が空に字を書こうとしているようでもあった。そして絡まっては離れてを繰り返す曲線のあいだをゴジラが入れた鼻クソみたいなツブツブがのらりくらり揺れ落ちていけば、きらびやかな色彩が狭く生臭い空間いっぱいに炸裂する。激戦地にパラシュートで兵隊が投下されたのだ。
 水槽のそばまで来ればわかるが、空気を送り込むポンプの粘っこい振動がずっとBGMの下に響いている。
 なるほど数が増えた。倍くらいになりました? と僕はそのガラスの長方形に向けて言った。地球上どこにも存在しない大自然を映し出しているその冷たいスクリーンは僕の声を打ち返し、後ろにいる島崎さんが怠そうな声で反応した。
「入れすぎなんですけどね。でも週末までなんで」
「買いに来るの?」
「常連さんで、欲しいっておっしゃる方がいて、持ってきたんですよ」
 この店舗も含めて天満や十三じゅうそうなど大阪キタ周辺に系列のバーがあるのだが、会社のオーナーは数年前からグッピーの繁殖にハマり、バーテンダーたちは嫌々ながら手伝いをさせられていた。酒を売ろうが魚を売ろうが会社の利益になるなら何でも同じことではある。
 島崎さんはずっとこの店を任されている会社立ち上げ時からの古株バーテンダーで、その落ち着いた接客ぶりには一種の凄みすらあると僕は感心していた。島崎さんは僕には無駄な干渉をしない。一緒に盛り上がるべき客とは盛り上がるのだが、盛り上げ役を買うときでも彼一人はどこか、ここではない冷え冷えとした地面に立っているみたいなのだ。もちろん店の人だから、むやみに客と一緒になって騒ぐのでは商売にならないが、彼の呼吸にはそれだけじゃないものがあった。それで僕はなんとなく怖い感じも抱いていたが、だからこそ安心してこの店に通うことができるのだった。
 島崎さんは見た目も落ち着いていて、もう中年で僕よりちょっと下くらいかと思っていたら、まだぎりぎり二十代だと知って驚いた。みんなはシマと呼ぶが、僕はどうも緊張感が抜けない感じで、ずっと島崎さんと呼んでいる。年上みたいに思っている。
 島崎さんには、見えてるよな。
 カウンターに戻った僕はそう思いながらiPhoneをひっくり返し、画面を下にして置いた。もう見なくていい。
 僕はずっとツイッターを見ながら、ツイッターしか見ずに飲んでいた。人々はゴジラの側に座ることが多く、集まると島崎さんとUNOの勝負が始まる。負けた方がテキーラのショットを一気飲みさせられる。テキーラのイガイガする苦みをごまかすためにオレンジジュースをすぐあとに飲む。という輪に僕は入ることなく、反対の端から二番目だったり、一番端だったりにいつもいる。こちらはキッチンのそばで、ここなら静かにしていられた。
 僕はこの場であまりしゃべらない。ヘタにしゃべらないようにしている。あまり構わないでほしいという「壁」を、感じさせたくないが感じさせているのかもしれない。島崎さんにはそれがわかっていると思う。そう感じさせないようにと気にしていることまで。
 その壁は、文字でできている。外からは見えない文字、音が聞こえない言葉の壁だ。
 僕の体の周りでは夥しく言葉がシロアリみたいにうごめいて、かすかに光を発している。言葉に包囲されている。勝手に湧いてくるその苛立たしい群れを少しでも追い払いたくてツイッターをやっている。
 島崎さんには、見えてるよな。
 という文字列も暗がりに一瞬浮かび上がり、そしてパラパラと、ビスケットを食べこぼすみたいに崩れ落ちた。
 そんな様子が見えてるのかもしれない。金色の液体を手早く注ぎ、もうひとつのレバーで泡を追加して生ビールが完成して、細長いグラスをゴジラの方へ持っていく島崎さんの背を目で追っている。
 ゴジラが言った酸素という単語が、ドブ川を流れてきたコンビニの袋のように頭のどこかに引っかかって揺れている。僕はまた水槽の方を見やる。ここからは距離があり、その長方形は視野の中央に収まってぽっかりと光っていた。ビールみたいに気泡が立っている。空気は右端に出たチューブから送り込まれている。ポンプで空気を送り続けなければ、息が詰まって生きていられないからだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)