立ち読み:新潮 2021年9月号

大使とその妻/水村美苗

消えてしまった夫婦

 窓を閉めていても、裏の小川の瀬音に混ざり、風の音や、こおろぎの音が切れ目なく聞こえてくる。ほかの虫の音も耳をつんざくように聞こえてくる。秋。まさに、日入り果てて、風の音、虫の音など……である。ここ数年、春にここにやってくると、鳥のさえずり声が減り、それこそ「沈黙の春」が近づいてきたのを感じたが、昆虫は気温の変化に強いのだろうか。夏も過ぎ、九月も過ぎ、十月に入ってさらに冷えこんできた夜、大地から湧き上がる虫の合唱をこうして一人で聞いていると、この避暑地が年々確実に暑くなってきているのも忘れ、さらには疫病が地球を覆いつくしつつあるのも忘れ、昔と同じ時間が流れているようであった。あの三年間、いや、四年間が、うっくつしていた自分の心が描いた夢だったような気さえしてくる。
 だが、小川の向こう側には、夢ではなかった証しとして、あの山荘が残っていた。
 七月の末近くにここに着いてから、月が出ている夜は夫婦が消えてからになった裏の山荘の庭におりおり入り、テラスに腰をかけ、雲間に出入りする月をぼんやりと眺めた。夏は夜、月のころはさらなり……授業で暗記した『枕草子』の出だしが、五感が研ぎ澄まされたこういうとき、ふいに胸に浮かぶ。雲の裏に隠れていた月がその輪郭を見せ始めると、生まれたばかりの細い月でも驚くほど明るくあたりを照らした。すると、満月の光に煌々と照らし出されて静止していたものすさまじい白い姿が反射的によみがえった。
 祭りは終わってしまったのだった。
「おまえはロクなものにはなるまい」
 父の声が聞こえてくるようであった。
 私が馬鹿らしいほど感じやすいと苛立っていた父は、私を見ると口癖のように言った。実際、私はロクなものにならなかった。だが、私の兄や姉のようにこの社会で成功し、成功している人たちの常として、やたらに大きな屋敷に住み、やたら大きな車を乗り回し、こうして疫病が地球全体を襲うまでは、仕事でも休みでも飛行機であちこちに飛び、生きとし生ける物にとって地球をさらに住みにくくするのに勢いよく貢献していた人たちよりは、やや罪が少ないかもしれない。もちろん、やや、というだけに過ぎないが……。
 父の声はもう私を脅かすことはなく、あれだけ生命力に溢れていた彼さえ死んでしまったのだと思うと、最後には土に還るしかない人間という存在そのものが哀れだった。
 そうお父さん、僕はロクなものになりませんでした。世界の表舞台に幾度か立ったとはいえ、今やみんなから忘れられつつある島国の片隅で月の光を浴びながら、こうして虚ろに坐っています。髪に白髪が交じり始めた男には似合わないほど感傷的になるのを自分に許しています。キリアンの顔に白いシーツが引き上げられたときの悲しさがふいに戻ってきたりもします。
 夫婦と再び逢える可能性がないわけでもないのに、二人ともすでにこの世から消えてしまったような気がした。
 携帯電話の番号はもちろんメールアドレスも知っていたのに、連絡もないまま発ってしまい、去年の暮れ近く、私の東京のマンション――このカタカナ語にはいつも違和感を覚える――の郵便受けに突然航空便が届いた。大きめの封筒に合衆国の切手が何枚か貼ってある。ついに発ってしまったのか……。虚ろにエレベーターに乗って自分のところに戻りそのまま虚ろに封を開ければ、懐かしい香の匂いが微かに宙に舞い、彼女がそこに一瞬舞い戻ってきたような錯覚があった。なかにはふつうのコピー用紙に横書きにプリントされた二枚の手紙と、私の名がカタカナで縦に墨で書かれた和紙の封筒が入っていた。私は和紙の封筒をテーブルの上に静かに置くと、その場でプリントされた手紙から読み始めた。夫からの手紙で、もちろん日本語で書かれていた。
「母があれからすぐに逝きましたので、やはり日本をしばらく離れることにしました。ご報告するのに、メールでは何か簡便すぎるような気がして、手紙を書いている次第です。三日前にハワイに着き、今はビッグ・アイランドのヒロというところに泊まって、車を借りて、あちこち見ています。マウナケア山頂での天体観測は一般人に開かれていませんが、夜になるとこの島全体がプラネタリウムのようで、まさに天空から星が降ってくるようです。ハワイの先住民にとってこの山が神聖な場所だというのが納得できます。ヒロにホテルをとったのは、このあたりは日系人が多いというのに私が興味を覚えたからですが、貴子がもしあまり疲れなければ、二、三日場所を変えてこの島の夜景を探検したいと思っています。最初の予定としては、ヨーロッパから始めるつもりだったのですが(貴子はもちろんポルトガルに興味があります)、せっかく日本から出発するのならビッグ・アイランドで星を観たいと私が言い出したのです。ハワイを出たあとは北極回りでヨーロッパに行き、そのあと、北米には行ったことのない貴子のためにニューヨークに十日ほど滞在してから、最終的に南米に発とうと思っています。落ち着いたところで、佐々木が荷物を送ってくることになっています。
 くり返し申し上げますが、日本に戻って一番よかったのは、あなたに巡り逢えたことでした。運が良かったとしか言いようもありません。日本はそんなに暮らしにくい国ではない――というより、地球に二百近くある国々のなかではかなり暮らしやすいほうの国だというのは、当然ながら、貴子自身、百も承知していますので、いつかは戻っていく気になるのではないかと思います。それまで山荘は管理会社に頼み、屋根の落葉を落としてもらったりして建物が朽ちないようにするつもりです。台風の被害があったら佐々木に連絡が行くことにもなっています。でも庭の草刈りは年に一度という契約ですので、じきにあなたのお好きだった『蓬生よもぎゅうの宿』のように荒れてしまうでしょう。どうぞたまに訪ねてやってください。鍵をお預けしてあるのですから、なかにも遠慮なく入って下さい。あなたが訪ねて下さると思うと、それだけでも、あんな風に手をかけた甲斐があると思うことができます。どうぞくれぐれもお元気で。そう遠くないうちにお目にかかれる日がくるのを祈っています。貴子の心の整理が少しついたところで、そのときメールします。住所もお送りします。ぜひ南半球から見える月を見にきてください。」
 そのあとにペンで「篠田周一」と署名してあった。
 長いため息が自然に出ていた。今しばらくは私からの連絡も欲しくないのだろう。眼を上げれば窓の向こうに西新宿の超高層ビルディングが林立しているのが見える。クライスラービルとエンパイアーステートビルの合いの子のようなのも見える。私はもう一度ため息をつくと、わずかに茶色がかった和紙の封筒のほうを手にとり、初めてソファに腰かけた。
 和紙というのは、もろそうな感触を指先に伝えるが、実際はどう扱っても破れない強靱さをもっている。その不思議な感触を味わいながら封筒を鼻先にもっていった。これも伽羅の匂いなのだろう。かすかに指先が震えているのが自分でわかる。のりづけされていない封を開ければ、封筒とセットになっているらしい、やはり茶色がかった和紙の便箋が二枚綺麗に畳まれていた。最初の一枚に、筆で大きく、「あさきゆめみじ」とあり、左下に、貴子とある。なんと、それだけであった。下の一枚は白紙である。古風な日本人は、いまだ、便箋一枚だけの便りには白紙をもう一枚下に添えるが、あれは、巻物に手紙を書いていたころの名残りだろうか。彼女が笑いながら言う、「日本ごっこ」の一つであろう。
 どうせ長い手紙ではないだろうと思っていたが、見事に短かった。彼女らしいと思った。
 夫婦からいつかこのような連絡があるだろうと怖れつつも、ひょっとすると次の夏もまた追分で逢えるかもしれないという微かな望みは、そのときまで、捨てていなかった。私はソファに坐ったまま両手を首の後ろで組み、超高層ビルディングの上に広がる灰色の空を長いあいだ見ていた。飛行機が羽田空港をめがけて一機、二機と、一直線に低く飛んでくる。せせこましい東京で息がつけるよう、さして広くなくとも遠くまで視界がきく部屋を探したのであった。
 英語にすべきか日本語にすべきか。しばらく迷ったあげく日本語で書き始めたメールの返事は長くなる一方だった。今は二人をそうっとしておくべきであった。彼らは私が何を言いたいか承知しているはずだと思い返し、不要な言葉を削っていくうちに、今度は極端に短くなってしまった。
「お手紙を受けとりました。私こそ、くり返しになりますが、お二人に逢えたことで、日本に居つづけて意味があったという気が初めてほんとうにしました。淋しくなりますが、しかたありません。次にご連絡があるのを待っています。どうぞ二人ともお元気でいて下さい。」
「Send」を押したがもちろん返事はなかった。

(続きは本誌でお楽しみください。)