立ち読み:新潮 2021年11月号

第53回新潮新人賞受賞作
彫刻の感想/久栖博季

 子熊が、川べりにとんと尻をついた。近くの藪の中に大きな母熊がいて、真っ黒な毛皮を背負い武器になる爪を舐めながら、我が子を見守る。子熊に手を出すものがあれば容赦なく、それが何者であれ立ち向かうのだ。ところでそんなふうに守られているこの子熊は、川を遡上してきた鮭をとるのもへたくそだったし、人間のにおいを嗅ぎ分けて避けるのも苦手だった。それである日、石の色が透けて見える浅い流れの中に一人の人間がいて、器用に鮭を獲っているのに出くわしてしまった。秋の冷たい水の中で胴長を着た密漁者が「しまった」と漏らしかけた声を両手で抑えて静かに後ずさっていく。足先だけ水につけてみた子熊は追いかけもしない。この時ばかりは密漁者が幸運だった。母熊は夕暮れの空を旋回する大きな鳥に気を取られていたのだ。尾羽を長くたなびかせて夕焼けの色を引いて飛ぶ鳥だった。
 子熊は密漁者が川べりにほうり投げていた鮭を見つけ、まだ生きている魚に遠慮がちに前足をかけると、黄色い牙をぎっと立てた。そうして、子熊はとんと尻をついたのだ。その座り方もなんだかへたくそで、くわえた鮭の大きさと重さのせいで今にも前のめりに転がってしまいそうだった。
 と、牛くんはこんな子熊を一頭、オンコの木で彫った。楕円を描く木目の中心は子熊の尻のほうにあって、そこからなみなみとうねる子熊のまだやわらかい体毛の流れを彫刻で表現しようとする。けれど不自然な彫り痕がでこぼこと残っていて、彫刻刀の動きの未熟さが見えてしまう。ぴょいと飛び出した丸い耳の輪郭はいびつで、深く抉って作られた耳の穴に音を聞き分ける力はなさそうだった。だから人間が近づいても気がつかないのではないか。牛くんの彫刻はへたくそだった。でもだからこそ、ときどきこの辺りに出没する不器用な子熊に似てもいたのだ。へたくそ、というところだけが似ている。子熊はまだ鮭にかぶりついている。うまく食べきれない。裂けた腹から橙色の魚卵がこぼれた。生き物のにおいがぴちっと弾けて立つ。母熊がようやく旋回する鳥から目を離すと、鮭の散らばった川べりに我が子が座っているのに気がついた。全部我が子が獲ったもの、とそう思った母熊は満足して鮭の一匹にかぶりついた。
 木彫り職人の見習いは、まずこんな子熊を彫るところから修業をはじめるものだ。北国は厚いマントに包まれている、はじめて見た時、そんなふうに思った彫刻があって、その内側をのぞきたいめくりたいと思っているうち、牛くんは九州の長崎から北海道へやって来てしまっていた。彼はもう四十歳に近いけれど、まだ子熊を彫りつづけている。学生時代は国際政治学を専攻していた。それから陸上自衛隊に入って演習場に穴ばかり掘っていた数年を経て退職し、北海道にやって来ると今の修業生活に入った。牛くんの彫ったへたくそな子熊の横顔は兵隊みたいにきりっと引き締まっている。硬い木材に真一文字に深く彫られた口、形式的に行儀よく揃えられた前足、牛くんはこういう表現をしたいのではなくて、本当はもっとやわらかいものを作りたかった。けれどまだまだ自在に扱えない刃物では硬く冷たい線しか生み出せない。それでも牛くんが毎日作っているてのひらサイズの子熊は温泉街の土産物屋に一個千円で売られている。
「牛くんはたぶん木彫に向いてないよ、まず木の性質を知らなすぎる。オンコの木のこの部分はね、経年で割れてくるからふつうこんな使い方をしないし」
 木彫りの子熊を買い求めた誰かの旅の思い出が、数年後にぱっくり割れる。それはお土産としてちょっとさびしいことだ。牛くんは子熊の顔を見た。子熊は口元を引き締めて黙っている。
 牛くんは木彫に向いていない、と言ったのはこの温泉街のメインストリートで薬局を営む加代子さんだ。牛くんは加代子さんの家に住込みで働かせてもらっていた。個人で営む薬局にしては大きな建物で、当初加代子さんは住居を兼ねればよいだろうと思っていたが、自分と家族と牛くんが暮らしても広すぎた。それで建物の半分を薬局の店舗兼住居として残しつつ、もう半分を人に貸すことに決めて簡単な改装をした。すぐにしげ爺さんがやってきて住み着いた。ここをアトリエにするつもりらしい。しげ爺さんは鮭を銜えた木彫りの熊を制作する職人だった。灰色の片目は義眼で、戦争でやられたのだと言っていた。若い頃は役者をしていたのだとか、高校で美術を教えていたのだとか、尋ねるたびにこの黄色い肌をした老人の来歴は変わっていくので、誰もしげ爺さんの過去の本当のところは知らなかった。アイヌのひとではないだろう、では本州の和人だろうか、いや満州から引き揚げて来たのではないか、いやいやロシアに住んでいたときいたことがある、とやはり誰にもわからないのだった。
 薬局から通りへ出て建物のもう半分をうかがうと、くるくるっと丸まった木くずが床に散らばっていて、ドアの開閉のたび吹き込む風に舞い上がる。木の匂いが立ち、まるでアトリエという空間が大樹であるかのような錯覚に、覗き込む加代子さんは眩暈を起こす。自分は今、木の中にいるのではないだろうか。そしてその木は過去から未来へと真っ直ぐに時間を貫いている。根元から枝先へと時間の流れる大樹の洞に加代子さんはしゃがみ込む。しっとりした木肌は温い。過去も未来も現在も一緒くたになって幹の中を流れている。どこか懐かしく安心できる場所だ。記憶も予定も無効になるような感覚は子供時代の休日に似ている。加代子さんはそんなふうにアトリエを見ていた。飛んできた木くずを指先でつまみ上げて嗅ぐ。眩暈のおさまったのを確かめつつゆっくり立ち上がると、清潔な、四角い薬局のほうからキンカンの匂いがした。牛くんが加代子さんのほうをじっと見ている。
「あーはいはい、わかったから。いってらっしゃい」
 結局、加代子さんはいつも牛くんに根負けしてあげる。すると牛くんはさっそく薬局の店番をほうり出してしげ爺さんのアトリエの奥に道具を取りに行く。きっと牛くんもあの大樹の洞が好きなのだろう。つまみ上げた木くずを通りに落とすと、おもてうらと返りながら表面に乗る光を跳ね返す。加代子さんは空を見上げた。旋回する大きな鳥に見とれていると、すぐ目の前を、背中に夕焼けの色を映した甲虫が横切っていった。
 アトリエの奥ではしげ爺さんが木彫りの熊に鋭い眼光を与えようとして、木の性質と光の反射と、それから彫刻刀を入れる角度や彫りの深浅、ひとつひとつの表現のために顔を真っ赤にして、額に汗をにじませていた。
 牛くんがいるおかげで、アトリエはいつしか民芸品店のようになった。商品台がいくつか置かれ、そこに小さな木彫りの動物たちが並んでいる。それを手にとって温泉宿泊客は喜ぶが、しげ爺さんは奥に引っ込んだまま、客の前に現れることはなかったし、牛くんも店員らしい愛嬌をふりまくこともしない。薬局の店番をしていない時はたいてい商品台の近くで子熊を彫っている。よく売れるのはアイヌの伝統的な文様を彫りつけたペーパーナイフや栞といった小物だった。旅行客に訊かれれば「これはアイヌの天空の神だよ」としたり顔で説明するけれど、牛くんは九州から流れてきた人だったのでアイヌではなかった。毎日大樹の洞になずんでいるうちに、いつしか九州の言葉が抜け落ちてしまった。黙々と木を彫る横顔には、ずっと昔から北海道で暮らしてきた人のおごそかさと、黄色く日に焼けた人懐こさがある。夕暮れの陰影は人を彫刻のように見せた。
 沈む夕陽を見送るのに、牛くんは彫刻刀と子熊を置いた。こわばった右手を、左手でほぐすように撫でてから両方のてのひらを合わせる。それから今日誕生したへたくそな子熊を商品台の上にとんと置き直すと、長い影の上に座っているように見えた。沈みかけた太陽めがけて嘴から突っ込んだからすが赤く燃えていくようだった。それで牛くんは、からすと不死鳥は似ているのだと思った。

(続きは本誌でお楽しみください。)