立ち読み:新潮 2022年8月号

天路の旅人 第一部/沢木耕太郎

序章 雪の中から

 いまから四半世紀前の初冬のことだった。
 ある寒い日の午後、私は東北新幹線に乗り、東京から盛岡に向かっていた。
 仙台を過ぎ、盛岡に近づくにつれ、重く垂れ込めていた空から雪がちらつきはじめた。
 それにぼんやり眼を向けているうちに、不意に胃の辺りが収縮するような感じを覚えた。
 痛みとは違う。仕事で初めての人を訪ねるとき、その直前に決まって味わうことになる、一種の緊張感からくるものだ。
 私は、その日の夕方、盛岡で初めて会う人を訪ねることになっていた。
 確かに、いつでも、初めての人と会うときは緊張する。その人がどのような人なのか、どのように話が流れていってくれるのか。何年、何十年と、人と会うことから始まる仕事を続けながら、いつまでも慣れることのない緊張をする。

 その日、私が会うことになっていたのは、西川かずという名の、あと二、三年で八十歳になろうかという老人だった。
 西川一三は、第二次大戦末期、敵国である中国の、その大陸の奥深くまで潜入したスパイである。当時の日本風に言えば諜報員だが、西川は自らのことを「密偵」と呼んでいる。
 二十五歳のとき、日本ではラマ教といわれていたチベット仏教の蒙古人巡礼僧になりすまし、日本の勢力圏だった内蒙古を出発するや、当時の中華民国政府が支配するねい省を突破し、広大な青海省に足を踏み入れ、中国大陸の奥深くまで潜入した。
 しかも、第二次大戦が終結した一九四五年(昭和二十年)以後も、蒙古人のラマ僧になりすましたまま旅を続け、チベットからインド亜大陸にまで足を延ばすことになる。そして、一九五〇年(昭和二十五年)にインドで逮捕され日本に送還されるまで、実に足掛け八年に及ぶ長い年月を、蒙古人「ロブサン・サンボー」として生きつづけてきたのだ。
 その壮大な旅の一部始終は、帰国後自らが執筆した『秘境西域八年の潜行』という書物に記されている。
 この著作は、その旅の長さにふさわしく、分厚い文庫本で全三冊、総ページ数で二千ページに達しようかという長大なものである。

 私が西川一三という人物に興味を覚えたのは、密偵や巡礼としての旅そのものというより、日本に帰ってきてからの日々をも含めたその人生だったかもしれない。
 戦争が終わって五年後に日本に帰ってきた西川は、数年をかけて『秘境西域八年の潜行』を書き上げると、あとはただひたすら盛岡で化粧品店の主としての人生をまっとうしてきたという。
 そこには、強い信念を抱いて生きてきたに違いない、ひとりの旅の達人、いや人生の達人がいるように思えた。
 会ってみたいと思うようになって、何年かが過ぎていたが、岩手の一関に仕事で行ったとき、地元の新聞の「戦後史を考える」というような連載記事の中に、たまたま西川のことが出ていた。そこには、西川の「ひめかみ」という店の名前が載っていて、記憶に残った。
 それからしばらくした初冬のある日、東京の仕事場で、どういうつもりもないまま、その店名から電話番号を調べると、すぐにわかって逆に驚かされた。そして、思った。これはいい機会なのかもしれない。電話を掛け、もし許されるなら会わせてもらおうか……。
 思い切って電話をすると、すぐに、くぐもった声の男性が応対に出てくれた。
 それが西川一三だった。
 私は、突然電話を掛ける非礼を詫びたあとで名前を名乗り、自分の仕事について説明をし、できればお会いできないだろうかと訊ねた。しかし、そこでは、注意深く「取材」という言葉を使わなかった。実際、それが何かの具体的な仕事につながるかどうかわからなかったからだ。わかっていることは会いたいということだけだった。会って、話をしてみたい。それを具体的にどうしたいのかまではわかっていなかった。
 盛岡に伺うので暇な時間にお会いいただけないか。私が頼むと、西川はいとも簡単に引き受けてくれた。
「いいですよ」
 だが、それに付け加えてこう言った。
「私には休みというのがないんです。元日だけは休みますけど、一年三百六十四日は働く。だから、誰かのために特別に休んだり、時間を取るというわけにはいかないんです。毎日、午前九時から午後五時までは仕事をします。それでよければ、いつでもかまいません」
 私は、一年のうち一日しか休まないと淡々とした口調で言う西川に一瞬言葉を失いかけたが、すぐに気持を立て直して訊ねた。
「では、午後五時以降ならお会いいただけますか」
 西川は、その時間帯なら問題ないと言う。そこで、私は今週の土曜の夜はいかがだろうかと訊ねた。それに対しても、西川はまったく問題がないと答えた。
 私が、午後五時以降に店を訪ねるつもりで、盛岡駅からの道順を訊ねると、西川は言った。
「それだったら、盛岡駅に着いたところで電話をしてください。こちらから駅まで出向きますから」
 それは申し訳ないからと固辞したのだが、その方が面倒が少ないからと言われて、従うことにした。

 盛岡に近づく新幹線の中で、私はしだいに暗くなっていく窓の外を眺めながら、実際に会う前から西川に威圧感のようなものを覚えていることに気がついていた。
 若いとき、戦中から戦後にかけての混沌とした一時期、たったひとりでアジア大陸の中国からインドまでの広大な地域を旅してきた人物。そして、その旅については長大な一編を著しただけで、あとはひっそりと東北の一都市で商店主として人生を終えようとしている。
 そこには、鋼のように硬質な、あるいは胡桃の殻のように堅牢な人生が存在しているかのように思える。立ち向かっていっても、簡単にはじき返されてしまうのではないだろうか……。
 午後五時過ぎ、盛岡駅に着いた私は、改札口を出るとすぐ西川に電話をした。
 当時はまだ携帯電話を持っていなかったはずだから、構内の公衆電話から掛けたと思われる。
 ベルが鳴るとすぐに出てくれた西川は、私がいる改札口を確認すると、これから向かうので少し待っていてくれと言った。
 互いに初対面なのでまごつくかもしれないと心配していたが、電話を切ったあとで、改札口付近で待ち合わせをしているような人がまったくいないことに安心した。これなら間違えることはないだろう。
 十五分くらい待っただろうか、ジャンパー姿の長身の男性がこちらに歩いてくるのが見えた。それが西川だということはすぐにわかった。化粧品店の店主というより、町工場の親父というような雰囲気だったが、単に長身だというだけではない独特の存在感があった。私は駆け足で近づき頭を下げた。
「沢木です」

(続きは本誌でお楽しみください。)