And I, God bless the mark, his Moorship’s ancient. ――Othello, Shakespeare
振り返るなら、潮目が変わるきっかけは、朝廷側が黙契を超え、蝦夷の地へ放り込むようにして築いた桃生の城にあった。それまでの均衡線を超えて、統治を広げ、植民する意思を露にした。
時に西暦七七四年である。
もっとも、この時はまだガリア側の反応も全面反攻へは及ばなかった。かつては干戈を交えた間柄ながら、ここ数十年、朝廷とガリアの間には融和的な交流が継続している。
モノウ築城時の朝廷側の指導者は称徳である。この大変に個性の強い天皇は、父から位を継いだのち、母親の看病を理由に淳仁へ譲位。傀儡であったジュンニンの失脚後、ショウトクとして重祚、天皇位に二度ついたという経歴を持つ。
気に入らぬ相手に改名を強いるという不思議な指向でも歴史に名を残している。「マドヒ(惑い者)」、「クナタブレ(愚か者)」、「ノロシ(鈍い者)」、といった名を与え、もっとも知られているものに、「キタナマロ(きたない奴)」がある。
キタナマロは、ショウトクの愛人であった僧道鏡を皇位につけるべしという神託を邪魔した相手に与えた名である。ショウトクはいわば、自ら皇統を破壊しようとしたわけだから抜きんでた破天荒さだといえる。則天武后をなぞっているとはいえる。
次代の光仁は、この気性の激しい天皇の目に留まらぬように、酒に溺れ惰弱を装うことで生き延びざるをえなかった。
ショウトクは城を築くことを命じたが、それまで中断していたガリアからの上京朝貢も再開した。これまでうやむやのままにしてきたガリアを朝貢国として再確認し、国家の輪郭をはっきりさせようとしたということか。攻め入るにも守るにも、まず相手を名指しする必要がある。ただし、ショウトクの時代は必然的に国内のゴタゴタに明け暮れたため、まだ本格的な外征に割くような余力はなかった。
続くコウニンは、この上京朝貢を停止。対ガリア政策を侵略戦争へと転換する。
これに応答したガリア側は橋を焼き道を塞いで往来を絶ち、モノウを攻撃。世に言うガリアと朝廷の三十八年戦争の幕が上がる。
とはいえ、記録はあまり残らなかった。
ガリアの側はものごとを書き記すという習慣に薄く、現地からは遠く離れた朝廷側の一方的な記録だけが今に伝わる。最後の戦いからの帰朝後、将軍であったタムラマロが『ガリア戦記』と名づけた地誌であり戦闘経過の報告書である文章を提出したといわれるが伝わらない。
時期的には国史である『日本後紀』に記されているはずの事跡も、のちの戦乱により焼失しており、孫引きに頼るしかない。
ガリアは大きく三つの地域に分かれた。海道蝦夷があり、山道蝦夷がある。さらにその向こうには朝廷側にとって未踏査の北方があった。ざっくりと、海洋側、内陸部、津軽海峡側ということにしておく。海峡の向こうには北海道と呼ばれる土地が広がっていた。
朝廷側の都は、列島に沿ってはるか南西に隔たる奈良におかれ、平城の名で呼ばれた。三十八年戦争の間に長岡、平安と遷都する。
三十八年戦争は、朝廷が戦争のやり方を思い出していく過程でもあった。
かつては海を渡って半島にまで兵を送った朝廷も、この頃は大戦から離れ、都を中心とした地方豪族たちの間での政争に明け暮れており、自分たちと同質ではない者との戦い方をすっかり忘れてしまっている。
ガリアで騒乱が起こるたびに将軍が任命されて意気揚々と赴くのだが、やがて装備と兵糧の不足を訴えてくる。
「帰ってもよいか。帰りたい」
という「戦況報告」によって、
「真面目にやる気はあるのか」
と天皇を激怒させるという事態が繰り返された。戦争がようやく体裁を整えはじめるには、コウニンの次代、桓武の即位を待たねばならない。
この、異民族を母に持つ天皇は、おもいつきに留まらず地道に兵糧を集め、何年という時間を要する装備の拡充に本気で取り組むという根気のよさを備えていた。その生涯を、ガリア外征と遷都によって記憶される結果とはなった。
朝廷側の征夷大将軍田村麻呂とガリアの族長阿弖流為、略してアテルイの死闘は、この天皇の晩年に繰り広げられることになる。
(続きは本誌でお楽しみください。)