立ち読み:新潮 2023年6月号

パンケーキ2.0/本谷有希子

 地下鉄の改札を出て構内図を確認し、出口1から地上に出ようとすると、アスファルトに反射した午後の陽光が目に突き刺さった。慌ててバッグの底をまさぐり、フリマアプリで落としたGucciのサングラスで顔半分を覆う。Googleマップを開いたまま階段を上り切って現在地を確認すると、予想通り、どちらが進行方向なのか見当も付かなかった。
 目の前のガードレールがやけに白くてきれいなのは、ステッカーや落書きがひとつもないからだ。乃木坂にあるお洒落なカフェでパンケーキを食べてみたいと誘ってきたのはソラだけど、原宿や渋谷にはない落ち着いた大人の街の空気に、早くも私は強烈な疎外感を覚え始めている。私は今日初めて日本に来た異国人。という設定で、車通りの少ない4車線道路、反対側の歩道にかかっている陸橋、と現在地の手掛かりになりそうなものに視線を移してみたが、ますます方向感覚が失われていくだけだった。待ち合わせの時間が迫っていることに焦った私はスマホと景色を何度も見比べたのち、勢いに任せて地上出口を背に左へと歩き始めた。
 10メートルほど歩き、現在地を示す青丸が目的地から遠ざかっていることに気づく。ふ、と笑みを漏らした私は何事もなかったかのように踵を返し、元来た道を戻り始めた。Googleマップは常に私を欺き続ける。Googleマップは常に私がどこにも辿り着かないように陰謀を企て続ける。アプリを再インストールすれば問題が解消する可能性があることは知っているけれど、それこそが実は真の狙いで、再インストールによって更に悪質な機能がアップデートされるかもしれない可能性がある以上、私はこのバグった地図で目的地を目指すしかない。
 Googleを攪乱するため、あえて違う道を選ぶように見せかけて、でもやっぱり選ばなーい、選ぶ選ぶ選ぶ選ばなーい、と頭の中でフェイントをかけながら急いでいると、歩行者用信号が赤になった。
 舌打ちして立ち止まり、マップを確認するついでに自分のフォロワー数をチェックする。朝、出掛けに家で見た時から数字は全く変わっていない。腕を覆っているアームカバーのモヘア地がちくちくと肌に突き刺さるのが不快で、衝動的に腕を掻きむしりたくなる。この世は不快な場所だ。この世は不愉快な場所だ。指で入念に叩き込んだ目元のコンシーラーが汗で流れないようにと、なるべく日陰を選んで進むうち、白い日傘をさした和装の中年女性とすれ違い、ああ、そういえば近くに大きな霊園があるんだったな、と思い出す。高い建物がない広々とした空にカラスが2羽飛んでいる。あの辺がどうせ墓地だろう。そう思いながらふと辺りを見ると、住宅街に迷い込んでいた。
 慌てて経路を再検索した私は、つい今しがたまでこの近くを指し示していた目的地の赤丸が、ここから8分離れた場所に移動するというイリュージョンを目の当たりにし、慄かずにいられなかった。どうして私はあらゆることが全て自分を貶めるための策略、という妄想から逃れることができないのだろう。スマホが震え、何かとても邪悪なものを受信した想像を膨らませながら画面を確認すると、ソラからのメッセージだった。
〈いま駅着いた。遅れる~〉
 私は自分とは別人格を持つ親指を即座に動かして、〈じゃあこっちにしよ。かわいい店発見。〉と現在地から一番近いと出ているケーキ屋の場所を共有した。
〈洋菓子舗Tanaka〉は老舗の隠れた名店だった。磨かれた大きな窓ガラスの向こうには、ケーキ、シュークリーム、マカロンなどが品よく並んでいる。小さな看板を通り過ぎ、奥に伸びる、思わせぶりな石畳を踏んでドアベルのついたレトロな作りの扉を押すと、コーヒーと甘いクリームが混ざり合った匂いが鼻先に漂って、思わず大きく顔が歪んだ。生まれつき甘いものが嫌いな私にとって、洋菓子店は本来、動物園にある野鳥ゾーンと同じくらい、この世に不必要な場所だ。入り口で、不快さを露わにして立ち止まっている私を不審に思ったのか、奥に立っていたウェイトレスが怪訝そうにこちらに目を向ける。黒いワンピースの縁に小さなフリルのついた、クラシカルな給仕服に身を包んだ小柄なウェイトレス。一見少女のようでありながら私の母親ほどの世代のそのウェイトレスを見た瞬間、私は彼女が邪悪な存在であることを感じ取る。真っ白なエプロンやフリルに身を包んだ彼女が、筋張った手や血管の浮き出た首筋を露悪的に見せつけているのは、私のような若い女の潜在意識に老化という残酷な現象を植え付けようとしているのだろう。ウェイトレスがまだこちらを窺っているので、私は左側に設置されたショーケースの中を眺めるふりをした。紫芋のタルト。和栗のモンブラン。パンプキンパイ。女は栗が好きだろう、芋さえ食っとけばいいんだろう。そう言われているような気がして恥ずかしくなり、すぐにケースから目を背ける。絨毯敷の喫茶スペースの方へと足を進めようとすると、
「お客様、大変申し訳ございません。ただいま満席となっております」
 とあの邪悪なウェイトレスが、邪悪な声帯を震わせて声をかけてきた。

(続きは本誌でお楽しみください。)