立ち読み:新潮 2024年1月号

息吹/平野啓一郎

 齋藤息吹が、その日、池袋のマクドナルドでアイスコーヒーを飲んでいたのは、たまたまだった。
 梅雨入り前の日曜日の午後だった。
 一人息子の悠馬を塾の模試会場に迎えに行ったが、いつもならば、同じように子供を待つ父母らで溢れ返っている建物周辺に、まるで人気がなかった。出入口の係員に訊いてみると、解説授業の終了は三時十五分の予定だという。間違えて、一時間も早く来てしまったのだった。
 息吹は、自分の間の抜けていることに呆れながら、どこで時間を潰そうかと考えた。
 東京はこの日、夥しい光が降り注ぐ晴天で、空は青く、雲は白く、午後二時頃には、気温が三十六度に達していた。気候変動が進んで、少々のことでは驚かなくなっていたが、さすがにこの時期の猛暑日は異例だった。おまけに湿度が高く、白いポロシャツにカーキ色の短パンという気楽な格好の息吹も、駅から歩いてくる間に、胸や背中に不快な汗をかいていた。
 周囲を適当に歩いていて、「かき氷」という青いのぼりの赤い文字が目に入った。
 老舗らしい和菓子屋に、カフェ・スペースが併設されている。そう言えば、今年はまだ一度もかき氷を食べていなかった。自動ドアから、クーラーの効いた店内に入り、奥まで進んだが、順番待ちの客が七組もいると告げられ、諦めた。
 その後、店を探したもののどこも混んでいて、結局、マクドナルドで、アイスコーヒーを飲む羽目になった。一人でマクドナルドに入ったのは、何年ぶりだろうか? 十年、……いや、十五年ぶりくらいかもしれない。学生時代は、彼も随分とマックの世話になったが、今では悠馬にねだられて店に入っても、ナゲットを一つ二つ摘まむ程度だった。
 ハンバーガー自体は好物で、近年立て続けに日本に進出したアメリカの新しいチェーン店は、大方、試している。そういう店で、溢れんばかりのチーズやベーコン、滑り落ちそうなほど大きなアボカドの入ったハンバーガーを征服するようにかぶりつくようになって以来、要するに、マックはもう卒業してしまったのだった。
 店内には、休日の午後でも、パソコンを開いて仕事をしたり、教科書や参考書を並べて勉強したりしている客が少なからずいて、コーヒーだけというのも、案外、珍しくなかった。時間が時間だからかもしれない。
 窓が大きく、クーラーで冷えた店内には、午後の眠気を誘うような光が横溢している。
 携帯を弄りながら、息吹は時折、店内をぼんやりと観察し、自分はもうこの世界には属しておらず、今日は本当に、たまたまここにいるのだと感じた。
 ヒップホップ系の大きなTシャツを着た隣の若者二人が、各々片手にビッグマックを持って、椅子の背もたれに体を預け、足を組んで話し込んでいる。彼の席にまで漂ってくる、その匂いを嗅ぎながら、息吹は少し胸焼けを感じた。ビッグマックを自分で注文して食べることは、もうないだろうなと思った。彼だけでなく、彼が普段、つきあっている人たち――同年以上で、それなりの生活をしている彼ら――なら、恐らく「もう食べれないよね。」と、片目を瞑るように顔を歪めて、苦笑交じりに同意するはずだった。
 それでも、この時、息吹を見舞った郷愁には、記憶システムに障害でも発生したかのような、戸惑うほどの目まぐるしさがあった。大学時代に一人暮らしの学生マンションで、床に広げてビッグマック・セットを食べていた光景から、後輩のバイト先の店をからかい半分に訪ねた時の光景、最寄りの店で、真夏に、上半身を紫色のキスマークだらけにした女が、タンクトップの白人男と列の前に並んでいた光景。……どれも、この十五年間、ただの一度も思い出されることがなく、それもそのはずで、今では何の役にも立たない記憶ばかりだった。
 息吹は、そのどの一つに留まることも出来ず、ただ、それらが乱脈に展いてゆく大学時代の思い出に、しばらく心地良く浸った。
 自分が歳を取ったことを感じた。こんながらくためいた記憶を次に思い出すのは、いつだろうか? それらは、今までしまい込まれていただけに、度々、思い出してみる記憶よりも、却って元のまま新鮮だった。死ぬまで自分の中に残り続けるのだろうか? あと四十年ほど? 老後に施設に入ってから、毎日ゆっくり回想するために、大事に保管しておくべきなのかもしれない。自分という人間がこの世に存在した、という事実の実体は、つまりはこんな経験の寄せ集めなのだった。
 それにしても、昔のマドレーヌと紅茶の組み合わせには、ここまで強烈な記憶喚起能力はなかっただろうと、『失われた時を求めて』を読んだことがなく、ただ、「プルースト効果」という言葉だけを知っている息吹は考えた。どこか、ドラッグの作用のようで、マックのハンバーガーには、脳の記憶領域をハッキングするような、何か特別な化学物質でも含まれているのかもしれない。――息吹はそんなことを、真剣に信じる人間ではなかったが、きっとそのせいで、時々、無性に食べたくなるのだと、友達と冗談交じりに喋るのは楽しそうだった。

(続きは本誌でお楽しみください。)