立ち読み:新潮 2024年7月号

『オッペンハイマー』論――オッペンハイマーとクリストファー・ノーランの倫理/平野啓一郎

 映画『オッペンハイマー』は、現時点でのクリストファー・ノーラン監督の最高傑作だとする声も多いが、私も同意見である。ただ、私の場合それは、出世作『メメント』に勝るとも劣らない、という意味だが。
 この映画の原作は、伝記『オッペンハイマー(原題 AMERICAN PROMETHEUS The Triumph and Tragedy of J.Robert Oppenheimer)』(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン著)で、勿論、他にもオッペンハイマーの『演説集』を初めとして、多くの参考資料があるようだが、いずれにせよ、史実に基づいた作品である。同時に、ノーランの過去作とも主題的に密接な連続性があり、実在のオッペンハイマーについての映画でありながら、ノーランについての映画ともなっている。インタヴューでは、実際、「逆説と倫理的なジレンマに満ちていて、私がずっと関心を抱き続けてきた類の素材」と語っている。
 こうした自己言及性自体が、まさにノーラン的だが、『オッペンハイマー』について論ずる前に、まずは過去作との関係の整理をしておきたい。

1 時間概念の整理

 ノーランと言えば、独自の時間研究がすぐに思いつくが、その理解のために、基本的なところから確認しておこう。
 地球は自転し、太陽の周りを公転しているので、私たちは朝昼晩というサイクルを通じて自転を経験し、季節の変化によって公転を経験する。この円環的な時間は、体内の時計細胞にも影響しており、更に、農業と共に豊かに文化的に発展した。
 他方、私たちは、過去・現在・未来と単線的に連なって、不可逆的に、連続的に直進する時間のイメージを共有している。
 これは、個人の意識にとっては、誕生を始点として、成長から老化へ、という現象を通じ、死という終点に向かう流れとして経験される。物理学的には、エントロピーの増大が、時間経過の一方向性を示しているとも言えるし、社会的には、西暦に代表される加算的な時間の計算方法が、その一方向性を規定している。宗教的には、天地創造という起点と最後の審判という終点を備えたユダヤ・キリスト教に特徴的な時間概念が、これを下支えした。
 近代以降、社会の機能的分化が可能となったのは、中心化された、この直進的で、均質に分割された、一なる大きな標準時間のお陰である。これによって、各所の分業の成果は同期され、生産から流通、販売、消費がシームレスに連続することとなり、更に官僚制度も、余暇の消費も、すべてが統合された全体として運動し続ける社会構造が実現した。
 歴史は、公的なものであれ、私的なものであれ、このような時間に基づいて把握され、記述されている。
 この時間の流れを「順行」と理解されたい。過去に戻ることは「逆行」である。
 時間の特徴は、順行のみが可能で、逆行が不可能な点で、一度起きてしまったことは、決して起きなかったことには出来ない。起きなかった状態への復元の努力は、様々なかたちで行われるが、起きた事実自体は否定できないのである。
 従って、私たちは、良いことは反復的・継続的に起きることを期待し、悪いことは二度と起きないことを願っている。そのために、記憶や記録を通じて、逆行できない過去を参照し、起きた出来事の原因を突き止め、その因果関係を確定しようと努力する。
 過去の検証は、必然的に、同期以前の複数の場所での、複数の小さな時間に注目する作業となる。
 また、私たちの記憶は、基本的に順行時間の断片として保存されているものの、その断片の集合が、線形的に整理されて、古いものはより遠くに、新しいものはより近くに、と並んでいるわけではない。小学生時代のことは、昨日のことのようによく覚えているのに、昨日のことはもう忘れてしまっている、という記憶の強度のランダム性は、誰もが経験することで、どっちが先だったかと、記憶の前後の間違いも頻繁に生じる。
 従って、ただ想起するにせよ、記録を確認するにせよ、それらを言語化して記述するにせよ、出来事の経緯の再現とは、複数の時間の断片を、単線の時間上に再整理してゆく作業である。
 因みに、この個々の小さな時間の流れは、均質的な標準時間とは異なり、主観的に長短様々に経験され、伸縮自在である。また、物理学では、相対性理論が「時間の遅れ」という現象を予言した。

(続きは本誌でお楽しみください。)