担任をしているクラスの男子生徒が昼休みに、職員室にいる僕を訪ねてきた。
「先生、質問いいですか」と言いながら、ニヤニヤしている。花岡という、そこそこ勉強のできる男子生徒だ。いつも髪型を気にしていて、ワックスを掬い取った指先で毛先をいじっている姿を度々目にしていた。
狭苦しい、入り組んだ社会科の職員室。僕は自分のデスクのところまで彼を呼び、背後の壁に立てかけられていたパイプ椅子を展開して、そこに座らせた。
「どうした?」と尋ねた。
「あの……」
花岡は笑った顔のまま黙ってしまった。
一見すると、教師を冷やかしに来たようにも思える。でも、これはそういう状況じゃない。本心では何か訴えたいことのある生徒の行動だと、僕にはわかった。
「ゆっくりでいいから」
待つことにした。花岡はソワソワしながら、ここでも髪の毛をいじりつつ、前歯を見せるのをやめない。室内にいる他の職員たちが、弁当を食べながらチラチラと、デスクの上の障害物の隙間からこちらの様子を窺っていた。
「勉強のこと? それとも、生活のこと?」
僕は他の生徒と分け隔てなく花岡に対応しようと心掛けた。自分を頼ってきた生徒に対して、ここでいつもとは異なったキャラクターを出して優しくしたくはない。花岡が想定している普段通りの担任教師でいよう。花岡が何を言ってきても、彼の期待している通りの答えを返してやろう。
「家のことでも別にいいんだよ。話したければ話して」と僕は言った。
花岡は、うーんと唸りながら黒目を上に向けた。
僕は黙っていた。花岡のことを慮ってのことじゃなく、喋る気力が湧かなかった。居心地が悪くないのかと言えば、確かに悪い。けれどもその居心地の悪さですら、生徒と喋る苦労に比べたら大したことではない。いま一番楽な方向へ落ち着こうとする。沈黙の気まずさと、生徒との対話を無意識下で天秤にかけ、その結果に僕は従う。ただ黙っている。
デスクを十台並べるのがやっとの職員室では、他の先生たちの注意がこちらに向けられているのがわかり、しんどくなってきた。だから仕方なく口を開いた。
「花岡は毎晩、ちゃんと眠れてるかい?」
「いいや」と彼は答えた。
「そうか。病院に行った方がいいんじゃない。睡眠薬とか、処方してもらえるよ?」
「先生も、処方してもらってるの?」
「うん」
「いいなあ。いくつか譲ってくれない?」
「薬は他人に譲渡しちゃいけないんだよ」
「え? そうなの?」
「そうだよ」
再び、沈黙が始まった。
花岡は相変わらずニヤニヤしていたが、時々、突然、無表情にもなった。そしてすぐに、僕の顔を見てまたニヤニヤしだした。
僕はスクリーンセーバーを表示している目の前のPCの液晶モニターを見た。暗転している背景に「五味進次郎のPC」という文字が、初期設定の通りに四角い枠の中で現れたり消えたりを繰り返している。僕の顔もぼんやりと反射して映っていた。
何故か僕は、花岡へ次のように提案してしまった。
「なあ、今夜、先生んち泊まる?」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。
「え? なんで?」と花岡は不安げな顔をする。
「質問しに来たんだろ? わざわざ。それなのに質問の内容、思い出せないんじゃ、思い出すまで一緒にいるしかないだろ。いつ思い出すのかもわかんない状況だったら、もうウチに泊まっちゃうかって」
生徒を狭くて汚い自室に入れたくはない。それなのに花岡を誘っている。大して印象の良くないこの子供を、自分のプライベートな空間に誘っている。
「いやだよ。誰が先生んちなんかに泊まりたがるんだよ」と、花岡は苦笑した。その笑顔はニヤニヤしていた先ほどよりも幾分、自然に見えた。
「なら、質問思い出したら、また来なよ。悪いけど、もう次の授業の支度しなきゃ」
僕はそう言って花岡を送り出した。
翌日の朝のホームルームでは、花岡の様子に注意した。彼は昨日のニヤニヤしていた表情が嘘みたいに無表情だった。しかし近くの友達と話すタイミングで、まるで顔面を別のものに挿げ替えたみたいにニヤっと微笑む。それがあまりに不自然で不気味なので、僕は咄嗟に視線を彼から逸らしてしまった。
数日経ったある日の昼休み、また花岡が職員室にやってきた。
「質問思い出したかい?」と僕が尋ねると、「まだなんだよ、先生」と言いながら、彼はまたあの人工的な表情を見せた。
そのまま先日のように、パイプ椅子に腰掛けた花岡は、僕と対面しながら昼休みが終わるまでずっと沈黙の時間を味わった。
「腹減ってないの?」と尋ねると、
「減らない」と花岡は答えた。
「午後の授業、それで持つの?」と尋ねると、
「いつも平気だよ。先生の方こそ大丈夫?」
「先生も食欲、ない。これでいいんだよ。むしろ食べると、怠くなって何もしたくなくなる」
「わかる」
花岡のその一言で、僕は気がついた。大したことではないけれど、僕は自分が教師になってからこれまで、生徒から何かに同意された経験がただの一度もなかった。教え子から同意されることが教師としての必要条件だとも思わないけれど、よくもこれまで自分はこの仕事をやってこられたものだと感心する。
(続きは本誌でお楽しみください。)