司会・構成 渡辺祐真
文芸誌と文学賞のシステム
町屋 本日はよろしくお願いします。小川さんとは小説家仲間が集まっているSNSのグループで、昔からたまに意見交換をしています。
小川 そうですね。この前はそこで僕が「メタフィクションは覚醒剤みたいなもので、一度始めるとやめられなくなるから、あんまり乱用しないほうがいい」という問題提起をしました。そしたら町屋さんに「いま書いてるのがメタフィクションで」と明かされた。僕は町屋さんの作品のファンだったから、「あ、町屋さんだけはいいんです」とかフォローして(笑)。たぶん、そのときに書いていたのが『ほんのこども』ですよね。
町屋 そうです。
小川 『ほんのこども』もメタフィクションだったし、次の作品『生きる演技』も、特殊な構造を持ったメタフィクションだと言っていいでしょう。これを読んで改めて、町屋さんだったらOKだと言って良かったと思いました。
町屋 ありがとうございます。でもメタフィクションが危険っていうのはその通りなんですよね。小説では、よく「他者を書け」って言われるんですけど、メタフィクションって一番手っ取り早く他者を描きやすいシステムだから。
小川 今日のテーマは「いま純文学とはなにか」です。昔からよく話題に上るテーマですが、改めて考えてみたいと思います。まず前提として、読者の考える純文学と書き手の考える純文学は結構違うという話からさせてください。書き手の側が考える純文学って、かなりの割合、システムの問題なんですよね。もっと具体的に言えば、純文学かどうかを決めるのは、どこの媒体に掲載された作品かという部分が大きい。
町屋 そうですね。いわゆる文芸誌に載っている作品だけどエンタメ性が高いものとか、その逆もありますが。
渡辺 一般的に純文学の文芸誌と言われるのは、「新潮」「文學界」「群像」「すばる」「文藝」の五つ。純文学で最も有名な賞である芥川賞は、この五つの文芸誌に掲載された作品から候補になるケースがほとんどです。芥川賞は純文学の賞なのだから、別にいろんな媒体に掲載された純文学と思しき作品を取ってきてもいいはずですけど、実際はこの五誌を中心として候補作が決定している。そういう文芸賞や雑誌を総合してシステムの問題と言われたわけですね。
小川 なんでそんなシステムになっているかというと、昔は雑誌文化が力を持っていたからです。芥川賞が始まったのはもう九十年くらい前ですけど、その頃の人々は雑誌で小説を読んでいました。だから雑誌に一番質の高い作品が集まってくる。そのシステムがずっと続いているし、純文学とはなにかという枠組みを与えている。
もちろん、町屋さんが言ったように、そのシステムとは別に、作品ごとに「これは確かに純文学っぽいな」とか、「これはエンタメだな」とかっていうものもある。でも作品に内在する基準は何なのかと問われると、言語化は難しい。
町屋 そうですね。時評とか月評の対象がもっと多方面に行き渡っていれば、文芸誌の外にある作品でも、草の根的に話題になって、候補に入るということもあるかもしれませんが、実際には難しい。そういう体力が資本主義に呑み込まれて不足してしまっているから、システムに回収されちゃうというのが現状かなとは思いますね。
小川 あとは読者の問題もある。作家って自分の作品を読んでくれるだろう読者の存在を内面化するんです。こういうひとに届けたいとか、こういうひとに読んでもらいたいという希望を、作家の側が自分の作品の判断基準にすることが結構多い。だから読者と著者と文芸誌のシステムという三つの側面から語れるんじゃないかな。そして今、その三つに一番詳しい作家は町屋さんだと思っています。
町屋 いやいや。
小川 僕の経験上、エンタメの作家はそうした問題を考えるのが好きなんです。でも純文学業界は、わざわざ言語化するのはタブーみたいなところがあるじゃないですか。
町屋 結構考えはするんですけど、それをしゃべるのはなんかダサい感がある。
小川 そうそう。「あいつは計算してやってるんだ、そのままの生きざまを書いてないぞ!」みたいな。
町屋 作家って、作品と同一に見られてしまいがちなので、作品が広く読まれる前はある程度謎にしておいたほうが、実際に作品がよく読まれるんですよ。作家の個人情報が知れわたっているとなんかそれに引っ張られて読まれるなっていう実感がありました。しかしここ数年でもうそういった状況は変わりつつありますけどね。
小川 感動した一文があったとして、純文学だとこういう意図で書いたという著者の意図が透けて見えると、ちょっと興醒めするみたいな文化がある。でもエンタメでは、ある一文が持つ狙いが見えたほうがいいんです。それがむしろ「すげえ!」と思われるというか。たぶん読み手の違いなんですよね。
町屋 なるほど。よくわかります。
小川 言ってみれば町屋さんは、そのプロセス自体を小説に書くということで、自由になった側面があるのかなと思っています。つまり、自分はどの一文を書いて、どれを書かないみたいな意図が、『ほんのこども』や『生きる演技』という作品になっている。だから町屋さん自身が作品を説明することは、そこまで損にならないのかなと。
町屋 ああ、確かにそう。今となってはそういう面が大きいです。
(続きは本誌でお楽しみください。)