立ち読み:新潮 2011年4月号

【特別対談】逆人徳者の宴/西村賢太町田 康

書くことで自分から自由になる

西村 気を鎮めるために、ガムを噛みながら来てしまいまして、大先輩の前ですみません。

町田 大先輩でもないと思いますよ。年齢的にもそんなにかわんないよ。僕の方がちょっと上かな。

西村 はい。五つか六つか、ですかね。

――実は日本酒を用意しているのですが、最初の緊張をほぐすために一杯いかがですか。

西村 あ、いや、それは……ちょっと……よろしいですか?

町田 どうぞどうぞ。僕も呑む方ですが、僕は呑むとめんどくさくなっちゃって、だるくなるから。

西村 では失礼して。

町田 昔は呑みながらの対談って結構ありましたよね。

西村 そうですよね。書き手って、昼間っから文学の話なんかできないから書いてたっていうのがあるでしょうから。ところが今の方たちってやたら弁が立つので、素面でもそういう話を延々と続けられるんですね。そんなに厚顔なら小説なんか書かないで、もっと違う、いい方向に進めばいいんじゃないかと僕は常々思っとるんですが。で、小説は僕のような下々の者が書くと。

町田 でもまあ、僕もずっと下々できてますんで。たちの悪い下々かもしれませんけど。

西村 町田さんは読者の圧倒的な支持を得ている下々ですから。僕は支持を得られない下々です。

町田 得ていると思いますけどね。というのも、僕は芥川賞を受賞なさる前からずっと好きで読んでいたんです。なんで好きなんかなとずっと考えてたんですけど、一つは悲惨な話なんだけど、作者が文章を書くことを楽しんでる、その楽しい感じ、乗って書いてる感じが文章から伝わってきて、読んでいても嬉しい。それは、ある自由みたいなもので、逃れられない自分というものから、文章を書くことによって自由になる楽しみ、喜びなのかなという気もしたんですよね。たとえば主人公の喋る言葉とか、あれって普段の自分の喋りとは違う言葉じゃないですか。

西村 確かに、そうですね。

町田 そういう言葉を使うことに喜びを感じて書いている気がして、それが一番の魅力かなとも思います。

西村 確かに自由になっている、それも抑圧されたものからの自由というよりは、楽しみながらの自由という面があると思います。町田さんのお作を拝読していると、言葉があっちこっち飛びながらも、必ず一つの方向にむかって、割と理路整然としているというか、あそこまでとっちらかしておきながら、収斂してどどっと流し込んでいくところがすごいと思うんです。初期の頃は、ぎこちなさをねじ伏せる力業があったと思うんですが、後のものになると、手慣れているといったら失礼ですけど、楽しみながら書かれているのかなという気がしました。

町田 僕、若いとき音楽やってたんで、よく音楽と小説書く時となんか違うんですかって、そればっかり訊かれるんですけども、訊かれても答えられない。なんであんな小説書くんですかって言われるでしょ? 自分でもわかんないですよね。

西村 ええ、でも理由ってどうしても考えちゃいますね。

町田 で、最近わかったんですけど、音楽やってるときも、小説書いてるときも、頭の中の状態は同じだなって思ったんです。そんな感覚を西村さんの小説には感じるんですね。自由度という意味合いにおいて。よく知らない難しい言葉も出てくるんですけど、それは昔の小説をよく読んでいらっしゃるというところからくるわけですよね。そういう言葉って使う時に楽しいんじゃないですか。

西村 楽しいです。

町田 自分が現実に体験した苦しいことも、ああいう言葉にしちゃうと、自分をぶっとばせる。真似したくなる。慊(あきたりな)い、とか真似したくなります。

新潮 2011年4月号より