立ち読み:新潮 2017年6月号

特別対談 暗闇の中の手さぐり/古井由吉+又吉直樹

見えない読者/観客を相手に

古井 お元気ですか、忙しいでしょう。
又吉 二作目の小説を書いていたので、ちょっと忙しくしていました。
古井 五年前に対談(「新潮」二〇一二年一月号)で初めてお会いしたときにも「何時間眠っていますか」って話をしましたね(笑)。お変わりありませんか。
又吉 忙しいときもあれば、ちょっと時間の空くこともあったりで、波がありますね。
古井 あなたは舞台に立つでしょう? その日常の一方で一人になってものを書くという時間もあって、切り替えが難しいと思います。そのあたりはどうお考えになっていますか。
又吉 小説を一人で書いてるところから、多くの人の前にいきなり出るというのが一番難しいです。だから今は、人前に出る仕事が終わった後に書くことにしています。
古井 切り替えも大事だけど、つながりも大事でしょう? 一方では人前に出て、もう一方ではたった一人で。表裏があって、いい具合に働き出すといいですね。
又吉 そうですね。
古井 物を書く立場の人で、あなたみたいに両方忙しい人はいませんから。それで成り立つというのは、ひとつの前例になりますよ。
又吉 いま「つながり」とおっしゃいましたが、一方の仕事の日常が、書くことににじんできて、ちょっと影響を及ぼすんじゃないかと思う時があるんです。
古井 それは悪いことではないと僕は思います。そのほうが、独自なものを出せるのではないでしょうか。たった一人になって書いているときに、舞台の上に立つ自分を思い浮かべることはありますか。
又吉 書いていることによっては、思い出すときもありますね。
古井 一人で書いてるといったって、目に見えない読者を前にしてるわけでね。その意味では舞台に立つのと変わりないところもあるんです。もっとも、観客の見えないスタジオで熱演することもあるだろうから、その辺のむずかしさはよく心得ているのではありませんか。本当に一人だったら、表現なんかできません。意味がない(笑)。
又吉 自分が書いたものを自分で楽しむってことですよね。
古井 それは馴れ合いでしょう。面倒くさいとこは飛ばしちまいますよ。その、目に見えない読者があればこそ踏ん張るわけで。こういう表現で伝わるのかって頭をひねる。それがなかったら書けないでしょう。
又吉 はい。
古井 今回の小説はいつごろから書き始めましたか。
又吉 『火花』の前から書いていたのですが、少し置いていたんです。『火花』を書き終わった後に、僕もいろいろ動揺しまして(笑)。
古井 何年前になるかしら、『火花』を書いたのは。
又吉 書き終わったのは二年前です。
古井 ずいぶん前ですね、早いもんだ。
又吉 それで、今度の「劇場」を本格的に書き始めたのが、去年の夏前くらいです。
古井 現在は執筆途上のようですね。ところで、『火花』はまだ読まれているそうで。
又吉 そうですね、ちょこちょこと。
古井 いいことですよ。いわゆる普通の道というのから逸れた人間がどういう曲折を経るかということが、『火花』にはくっきりと出ているし、追い詰められたところから解放されたときにどうなるのかが、同時に出ています。
又吉 ありがとうございます。
古井 だから、小説としてだけでなく、片言隻句にあなたの面白い認識が出ているんです。僕もだいぶ楽しませてもらいました。でも、本当言うと、そんなにスラスラと読める小説ではないですねえ。
又吉 そう言っていただけるほうが嬉しいんですけどね。
古井 読み始めはもう何事かと思いました。そこからじわじわと表現を成り立たせるのは大変でしょう。だんだん主人公たちが追い詰められていくその過程、その折々の感想や観察が、読んでいてなるほどと思うところが多かった。それに、普通の道を歩んでいる人でも、そこから外れた自分がいるわけでしょう、同時にね。
又吉 はい、そうですね。
古井 自分と照らし合わせて読んでいる人が多いんじゃないかな。
又吉 周りからは普通に見えても……。
古井 そうです。会社勤めでもね、居ながらにしてドロップアウトしていることがあるでしょう? 『火花』では、いろいろな人間が出てきて、思いがけないふるまいをする。読んでいて、どうしてこう出るのかなと思いながらも、読んでいくうちになるほどと思わせるところが多かったですよ。

音律に触れられるかどうか

又吉 古井さんご自身は、若いころに自分が作家になる可能性があると思われていたんですか。
古井 まったく思っていませんでした。とはいえ、どうも組織で生きていける人間でもなさそうなので、モラトリアムを決め込んでいるうちに、大学の教師になっちゃったわけです。今から考えれば幸せな時代でね。自分にはこれしかできないんじゃないかと思いながらも、他の道に逸れたいって気持ちをずっと抱いてた。でも、実際その間際になるまで、作家になるとは思っていなかった。というのも、僕の家系にそういう自由業に就いた人間は一人もいないんですよ。
又吉 そうなんですね。
古井 だから、親や親族は驚いているでしょう。とんでもないことをしたって(笑)。
又吉 依頼があって書き続けているうちに、作家になったという感じですか。
古井 うん。どうしても一人稼業になりたかったんです。それで、まず大学を辞めました。三十過ぎで子供もあるくせに、向こう見ずですよ。するともう真剣にやらなきゃならない。
又吉 自分でそういう状況を作ったんですね。
古井 それが今まで続いています。本当に自分ではできそうもないことを毎度毎度やってる。
又吉 その「できそうもない」という感覚は、今でもおありなんですか。
古井 一作ごとに、書き始めてからずっと、これがはたして作品として立ち上がるのかどうか考えながら……三分の一あたりで絶望してね。これはとても書ききれるものじゃない。夜逃げしたい気持ちになりますね。だけど、妻子を連れてたら、夜逃げにならないからな(笑)。
又吉 逃げられないんですね。
古井 うん。それが八十近くになっても続いてる。この間、病気になったおかげで、久しぶりに長い休暇を取った感じです。昔に読んだ本を読み返しています。
又吉 僕は一作書いて、ああ、小説ってこういう感じで書くんだってわかったつもりでした。自分で思ってないような展開になっていくものを感じたりして……でも、二作目に取り組んでみると、一作目とは全然違う。わかってなかったんですね。
古井 前の作品で悟ったつもりだったのに、いざ次の作品に移ると、さしあたって何の役にも立たない(笑)。だから、暗闇の中の手さぐりですよね。

(続きは本誌でお楽しみください。)