






 |

|
 |
第1回 本は彫刻かもしれない
緊張するなあ。
こういうのは書いたことがないから。
軽さには憧れるけど、軽やかに飛んだり跳ねたりできる自信はない。這いつくばってなら、どうにか進めるかもしれないと思って、やってきたところがある。
三十年も前の中学時代、クラスの女の子たちにスケートに誘われた。一度も滑ったことはなかったのに、野球部のキャプテンだった親友が、一緒に行こうと言うので、ふらふらついていった。みんなもどうせ滑れないだろうとタカをくくっていた。けど、みんなどこかで何かで経験していたんだな、これが。
結局初心者は自分一人で、すぐに転ぶし、周囲の手すりからなかなか離れられないし、十メートルと滑っていられない。初心者だからと開き直っても、さすがに恥ずかしかった。
そのときの感じを、いま、このメールを書くことになって、思い出している。
しかし、あのとき一番傷ついたのは、かっこよく滑れなかったことじゃない。転んで、ようやく手すりを支えに立ったとき、誘ってくれた女の子の一人が、サッと滑ってきて、「大丈夫?」と声をかけてくれた。彼女の愛らしい表情に浮かんでいたのは、こちらへの心配だけではない。むろん軽蔑でもない。無理に誘っちゃって悪かったかなぁと、申し訳なく思っている彼女の優しさが、表情や、何か言いかけてやめたときの雰囲気から伝わってきた。相手にそんな風に思わせてしまったことが、中坊のぼくを傷つけた。
きみが悪いわけじゃないよ、うまく滑れないのも、初心者なのに誘いに乗ったのも、自分の責任なんだから……。そう答えたかったけれど、口下手で上がり症の自分には無理な話で、ヘヘヘとアホっぽい愛想笑いを浮かべて、うなずいただけだった……と思う。
長い前ふりになった。つまり、このメールも転んでいると思ったら、ただ突き放していてほしい。反省は、あとで自分でするので。
いま『幻世の祈り』の刷り上がった本が、手のなかにある。
ようやく第一部ができあがったかと、ここまで来るまでの時間の長さと、まだ先へとつづく時間の重さに、ため息がもれる。
通常、作家は原稿の最終チェックが終わると、製本までに一カ月前後の時間があるため、仕事を終えた解放感のなか、ワクワクして本の完成を待てる。不安がないわけではないけれど、どうあがいても自分の手は届かないし、本が発売されればまた様々な責任が生じるので、この一カ月前後の時間が、唯一束縛から逃れた、至福の時間でもある。
今回はしかし、第二部、第三部……そして第五部まで物語はつづく。少しも解放されてなく、至福の時間を味わう余裕はなかった。
締め切りが延びないかなあと愚痴りつつ、机に向かっていたところへ、「できやした」と、第一部の完成品が現れたわけで、あっけにとられ、ここから生じる責任への心構えもできていなかったため、妙にそわそわした。
それでも、自分という存在と、その心身の働きがなかったら、存在しなかったはずのものが、形をとって、目の前に存在している事実には、やはり心を揺さぶられる。
手に持った重み、めくったときの指先に伝わる感触、目に入ってくる字並び、拾い読みしたときの言葉のリズム、表紙、タイトルとその配置具合などを、何度も確かめる。これは、彫刻の魅力に似ているかもしれないと、直感的に思った。
舟越桂さんという素晴らしい彫刻家と知り合いになったこともあり、彫刻という芸術の表現についてはよく考える。だから、本当に彫刻だと軽々しく思ったわけじゃない。このメールもそうだが、ネット上で読まれる文章がどんどん普及している。その利点も認めながら、紙で刊行される書籍には、立体としての魅力があり、彫刻とも少し通ずるものがあるように感じたのだ。
以前から、自分は塑像タイプかな、と考えることがあった。塑像とは、粘土をくっつけては削ってを繰り返し、形を作ってゆくものだが、自分も言葉をくっつけては削ってゆく感覚で、作品を成立させてきたように思う。今回の作品では、掘り出す感覚もやや持ちはじめているけれど……ともかく何もなかったところに、適切な言葉を見いだし、刻むなり、置いてゆくなりするのは、彫刻的とも言える。
本を手にしたときの感覚においては、その内なる存在感の重みまでが、読んでいなくても伝わってくることがあるが、できればそうした高みを今後も目指したい。
ただし、この立体としての本は、作家だけで作れるものじゃない。編集、校正、デザイン、印刷、製本と、それぞれの仕事を担当する人々の手が必要だ。読者の手もとへ届くまでには、またさらに多くの人が力を尽くしてくれる。
そして、重要なのが、表紙の装丁だろう。読者がまず一番に目にするものだし、いわば顔といってもいい。今回も素晴らしい芸術家の作品で飾ってもらえた。
日置由美子さんの描いてくださった表紙の絵は、本当に素晴らしい。言葉が陳腐になって申し訳ないけれど、これが他人の本に描かれていたら、うらやましくてならないだろう。
だからいま、例の一カ月前後の至福の時間は持てなかったが、幸せな気分でいる。
2004年1月20日、アフガニスタンで、子ども4人を含む民間人が11人も誤って爆撃され死亡したと、新聞の片隅に載っていた。テレビで報道されることはないだろう。
|
|