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第3回 ゲラの赤い惨劇

 物語の最後の場面を、ひとまず編集者に渡し、ゲラにするため印刷所へ回してもらった。
 ひとまずとは、まだこれから、世界情勢、自分自身の成長や心の変化、読者の反応などにより、変更することが考えられるためだ。
 先日、友人にゲラって何、と聞かれた。そうか、これは業界用語か。校正刷り、つまり製本される一歩前の形でチェック用に試し刷りをしたもので、これに誤字や表現の変更がないか、あれば赤ペンで直しを入れ、その部分をまた組み直し、本になるのだと説明した。
 だが、説明している途中で、自分でおかしくて、笑ってしまった。自分の場合、製本される一歩前にはならない。ゲラに赤で、「こう直してください」と書き込むのだが、全体がもう真っ赤になってしまい、元の原稿の黒字と重なり、原稿という次元を超え、特別なデザイン模様のようになるからだ。
 95年版の担当で、いまはデスクで全体を仕切ってくれているMr.ホワイトは、かつてぼくのゲラを見て、かっかと笑い、「きれいですね、まるでウイリアム・モリスのデザインしたタペストリーみたいだ」と表現した。そのときは若かったから、ほめられたのかと錯覚した。
 自分自身、何年も苦労して書き上げたものなのに、ゲラの状態で見ると、これでは違う、まだまだだと、赤ペンを走らせ、その赤をさらに直すことまで繰り返すため、修正液やテープも使って、原稿はがびがびになる。
「最初からこう書いておけよ」
 と、ゲラ直しをするたびに、自分に突っ込みを入れ、不甲斐なさを恥じている。
 けれど、これではまだ終わらない。
 通常「初校」と呼ばれるこの作業で確認は終わる。もともと自分の場合は確認でなく、もう一段か二段、作品のレベルを上げられないかと悩み苦しむ作業だが、つづいて出てくるのは「再校」と呼ばれ、これこそ確認のためだけのゲラだ。印刷間違いがないか、著者としてどうしても直したい部分が一つか二つあれば、それは直しますよといった程度のものなのだ、本来は……。
 ああ、なのに、それなのに。自分にとっては、この「再校」も確認で終わらない。もう一段でも、いや半段でも、いまより上のレベルへ作品を上げられないかと、あがき、もがいてしまう。結果、再校ゲラも無残なまでに赤く染まってゆく……。
 大変なのは、印刷の技術者の方だ。ぼくの入れた赤を読み取って、印刷し直さなきゃいけない。さらに大変なのは、校正者の方々で、組み直された新しい校正刷りと、ぼくが赤を入れた旧校正刷りを並べ、直した部分が間違いなく打ち込まれているか、チェックしなくてはならない。これは気の遠くなる作業だ。作品がよりよい形で読者に届くと信じて、こうした方々は、ときに休日返上で作業してくれている。感謝してもしきれない。
 自著の巻末で校正や印刷の方々へ御礼の言葉を書くが、社交辞令ではない。本当に、そうした方々の苦労があって、本はできている。読者の方にも、そのことが伝わればと思う。本は決して一人では作れない。
 自分も正直しんどいので、小説家としての目標は、いつの日か、まったく赤を入れずにすむ原稿を書きたい、ということだ。昨年暮れ、友人たちにそれを話したら、性格的にゼッタイ無理、と笑われた。

 2004年2月12日。四日前に、H・アール・カオスというダンスユニットの公演を観た。素晴らしかった。ダンスは好きで、機会があればピナ・バウシュやベジャールや山海塾やパパ・タラフマラ……とよく観る。肉体言語が、書く言葉にも影響を与えてくれる。