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第6回 「チャリで届けてます」

 三月一日、東京には雪が降った。
 第四部『巡礼者たち』の初校(一度目のゲラってこと)を直したものを、持ってゆかねばならかったので、とても困った。
 意外に思われるかどうか、通常、編集者との待ち合わせ場所まで行くのに、自転車を使っている。雨の場合だけ仕方なくバスを使う。
 この日、ゲラが仕上がったのは締切りの時間ぎりぎりだった。それでなくとも、このゲラには苦労していた。本来の締切りは、二月二十八日の土曜日だったが、終わらず、当日はゲラの前半部分だけを渡し、翌日が日曜日のため、進行に少しタイムラグも生じるだろうと、二日後の月曜日の午前中に後半部分を渡すという離れ業で、延びないはずの締切りを、無理に延ばしてもらっていた。
 さらにはこの日、午前十一時だった約束にも間に合わず、担当のMr.ブルーに緊急電話で、あと二時間待ってもらえないかと頼んでいた。だが彼も、午後二時には大事な打ち合わせがあるという。ほとんど泣かんばかりの彼に、一時間半だけ延ばしてもらった。
 というわけで、どうにか約束の十五分前には仕上がったものの、届ける場所まで、歩けば三十分以上かかる。これ以上五分でも遅れると、Mr.ブルーは次の打ち合わせに遅刻し、相手の方にも迷惑が及ぶ。
 バスもタクシーも時間が読み切れない。仕方なく、ブルゾンの上にレインコートをはおり、自転車にまたがった。傘をさしてでは間に合わない。ともかくダッシュが必要なのだ。レインコートで自転車に乗るなんて、たぶん中学生以来だと思う。「さみぃぃ」とふるえながら、いざ出発。雪は、氷雨と変わって、強い風に乗り、正面から吹きつけてきた。
 顔にびしびしと水滴が当たるなか、懸命にペダルをこぐ。風のせいで、なかなか前へ進めず、手もかじかみ、目も開けていられない。誰も自分がこんな想いをして原稿を届けてるなんて思わないんだろうなと、つまらないことを考えているうち、「いやいや、こうやって苦労してこそ、読者には届くんだ」と、悲壮感に酔う部分が生まれてきた。
 そうでも思わないと、あまりにつらかったせいもあるのだけれど、「いま届けてますよぉ」と、まだ見ぬ読者へ向かってつぶやきながら、えんじ色のレインコート姿で自転車をふらふら走らせていた男は、はた目には、きっとかなり怪しい存在だったろう。
 だが、不幸中の幸いか、こんな雪まじりの雨のなかを歩いている人間はいなかった。
 なんとか時間に間に合い、Mr.ブルーに渡せたときは、ほっと全身の力が抜けた。
 ゲラを会社へ戻しに去った彼を見送ったあと、やれやれと、また氷雨のなかへ飛び出す。今度は風が背後から当たるため、少しは楽だろうと思っていた。なのに、まさにどういう風の吹き回し。風向きが変わっていて、正面からびしびし水滴が吹きつけてきた。

 十日後、『巡礼者たち』の〈あとがき〉を持ってゆくおりは、打って変わってよい天気だった。気温も高く、自転車で走ってゆく道の脇には、早咲きの桜が花を開いていた。
 今年は桜の開花時期が例年より早いというから、次にゲラかあとがきを持って行くときには、桜は満開かもしれない。
 それもひとつの楽しみにして、最後まで届けていきたい。ただ願わくば、締切りの日には、もう雨が降りませんように……。
 と思った、二〇〇四年三月十八日、いまからMr.ブルーに会うが、東京は雨だった。

 スペイン政府が、イラクに派兵した軍を撤退させる可能性。それを可能にしたのは、暴力ではなく、あくまで選挙だということ。