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〈神〉が創った世界に残るのは〈悪魔〉だけなのか
大澤真幸

 恐ろしいほどにタイムリーな小説である。われわれは、今、秋葉原で起きた連続殺傷事件――一種の「無差別テロ」――に戦慄している。このような事件がなぜ起きたのか、なぜ起こりえたのかに当惑し、恐怖を覚えている。この度の平野啓一郎の長編小説『決壊』は、この秋葉原の事件を彷彿とさせるような――あるいは秋葉原の事件を予見するような――連続殺人事件を描いている。
『決壊』の主人公の沢野崇は、国会図書館に勤める、有能で知的な調査員である。独身だが、女性にはよくもてて、何人も恋人がいる。二〇〇二年十月、京都の三条大橋で、バラバラ遺体の一部が、犯行声明付きで発見された。やがて、その遺体が、沢野の弟で会社員の良介のものであることが明らかになる。良介が、殺害される直前に崇と会っていたこと、良介の妻佳枝が、良介が密かに作っていたブログにたびたびアクセスし、コメントを付していた人物を義兄の崇ではないかと考えていたこと等が原因となって、警察は、崇を犯人だとほぼ断定する。
 事件は、日本各地で次々と起きる――それどころか海外にまで飛び火した――、連続殺人へと発展する。崇への疑いは、十一月に実行犯の中学生北崎友哉が逮捕されたことで、晴れることになるのだが、事件の拡大は止まらない。クリスマスイブには、お台場のフジテレビと渋谷で連続的に爆破テロまでが起きる…
 この小説と「現実」との意図した、あるいは意図せざる、数々の共鳴には驚かざるをえない。たとえば、良介殺害の実行犯(の一人)友哉は、「孤独な殺人者の夢想」なるブログを開設しているが、それは、秋葉原事件の加藤智大容疑者によるネットの掲示板への大量書き込みを連想させる。無論、友哉が中学生であるのは、酒鬼薔薇聖斗(を始めとする少年殺人犯)を意識してのことであろう。無差別的なテロや殺人の正当性を哲学的に語る、〈悪魔〉と名乗る人物が登場するが、彼の主張は、加藤智大容疑者の「世界そのものへの怨恨」や、オウムの「ポア」の思想に通じている。秋葉原事件に関して、われわれは、ターゲットとなった「秋葉原」という場所の象徴的な中心性を考慮に入れざるをえないが、『決壊』のテロの標的となっているお台場や渋谷は、秋葉原と表裏関係にあるような、東京の――あるいは日本の――中心ではないだろうか。
『決壊』が「現実」とのこうした共鳴を通じて格闘しているのは、意味と真理の間の乖離をどう埋めるのかという問い、言い換えれば「悪」の存在をどのように解釈し、それにどう対処すればよいのかという問いである。問いの中核を理解するには、これを宗教的な言葉に置き換えるとよい。もし神が全能であるとすれば、なぜ、神は、悪がはびこる不完全な世界を創ったのだろうか? 神が創った有意味な世界という像と極端な悪の存在という真理とは、どのように両立できるというのか? これは、神学上の古典的な問いだが、特定の信仰など前提にしなくても、現代的に言い換えることができる。もし普遍的な説得力を有する「善」が存在するとすれば、「人を殺してはならない」という規範に代表されるような普遍的な「善」が存在するとすれば、要するに神の命令に匹敵する普遍的な「善」が存在するとすれば、連続無差別殺人や無差別テロのような極端な悪が、どうして可能なのか? ひどく異常ではないように見える(ほんのわずかしか変わっていないように見える)普通の人が、どうしてこれほどに極端な悪を犯すことができるのだろうか?
 どうにも解釈しがたいほどのひどい悪を目の当たりにしたときの、最も直截な神学的解答は、神の全能性を、ひいては神の存在そのものを疑ってしまうことである。同様に、われわれは、普遍的で基底的な善への信頼を放棄すべきなのか? このときには、もはや、善だけではなく、倫理的に罰したり、救済したりする対象としての悪すら存在せず、ただ、「悪」と名づけられたシステムの意図せざる機能障害だけが残ることになる。『決壊』で、〈悪魔〉は、こうした結論を暗示しているが、われわれは、これに抗することができるのか?

(おおさわ・まさち 社会学者/京都大学大学院人間・環境学研究科教授)

(「波」2008年7月号より)





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