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体を熱くする、あの匂い――切ない懐かしさに身を焦がす、「香り」を巡る恋愛小説集。

ワンダフル・ワールド

村山由佳/著

497円(税込)

本の仕様

発売日:2018/11/01

読み仮名 ワンダフルワールド
装幀 チカツタケオ/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 文庫
判型 新潮文庫
ISBN 978-4-10-100341-2
C-CODE 0193
整理番号 む-20-1
ジャンル 文学賞受賞作家、文学賞受賞作家
定価 497円

アロマオイルを纏(まと)った肌をぶつけ合い、のぼり立つ匂い。調香師との情事は、私に長い愛人生活を終わらせる予感を抱かせた。あの光景を目にするまでは――(「アンビバレンス」)。年上の人妻経営者に持ちかけられた三か月間の恋人契約。俺に抱かれ、女の喜びを感じると話していた彼女は、なぜ突然いなくなったのだろう(「バタフライ」)。記憶と熱を一瞬で呼び覚ます特別な香り。五編の恋愛小説集。

著者プロフィール

村山由佳 ムラヤマ・ユカ

1964(昭和39)年、東京都生れ。立教大学卒。1993(平成5)年『天使の卵―エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞した。他の著書に、『アダルト・エデュケーション』『放蕩記』『天翔る』『天使の柩』『ありふれた愛じゃない』『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』『嘘 Love Lies』『ミルク・アンド・ハニー』『燃える波』など。

目次

アンビバレンス
オー・ヴェルト
バタフライ
サンサーラ
TSUNAMI
 解説 千早茜

インタビュー/対談/エッセイ

「香り」が語る物語を聞く

村山由佳蜂谷宗苾

香道への誘い/「嗅覚」が呼び覚ます本能/失恋の効用

香道への誘い

蜂谷 今日は、「安藤※です」って登場しようと思っていましたが、最後はフラれてしまう役なので、やめておきました(笑)。※(『ワンダフル・ワールド』収録「アンビバレンス」に登場するイケメン調香師)
村山 読んでくださり、ありがとうございます。ちょっと残念な役回りなんですよ、彼は(笑)。
蜂谷 でも、「アンビバレンス」のように、最初の印象が良くても、上手くいかない恋愛ってよくありますよね。むしろ、悪い方から始まる出会いの方が、長く続くというか……。
村山 達観されていますね(笑)。蜂谷さんは、室町時代から続く志野流香道の第二十一代目継承者で、いまは若宗匠と呼ばれていらっしゃいます。香道というと、ちょっと特殊で敷居が高いというイメージがありますが、最近は、若い女性を中心に教室も大人気だそうで……。
蜂谷 香道には大きく二流派あり、志野流は武家の香道と呼ばれています。いろいろな作法がありますが、基本的には、香木をたいて、その香りを愉しみながら自分の感性で香りを理解して、和歌で表現するという遊びです。和歌は自作してもいいのですが、先人に敬意を表して古典から引用することが多いですね。しかも、その場にいる全員に「わかる、わかる」と言わせなくちゃいけないから大変です。同席している家元にも、その思いが伝わり、頷かせるような表現をしないといけません。
村山 感性が勝負の世界なのですね。ところで嗅覚というのは、鍛えることができるのですか?
蜂谷 僕はできると思います。二十代の頃、一年間山中の禅寺にこもって修行したときのことです。老師と一対一の厳しい修行でしたが、三ヵ月経つと、五感が蘇ってきたように感じました。俗世の悪い物質が抜けたような。そこからは、自分自身が自然の一部だということに気づいて、修行が一層集中できるようになりました。第六感のようなものも働き始めて、目で見なくても天気の移り変わりが分かったり、季節の変わり目が察知できたり。現代社会で必要な視覚や聴覚と違い、嗅覚は使わなければ衰えていきます。意識するだけでも、だいぶ変わってきますよ。
村山 お稽古では、どのようなことをやっていらっしゃるのですか?
蜂谷 いくつかの香をたいて、香りを聞き当てる遊び、「組香」などをします。たとえば香りの組み合わせによって「源氏物語」の登場人物やエピソードなどを取り入れて、その筋に沿って想像しながら答えを書いていく。教室では物語の内容を教えてくれるわけではないので、「源氏」などの古典は、参加者全員が知っていて当たり前なんです。それを繰り返すことによって、精神の修練とともに教養を高めていきます。
村山 精神の修練?
蜂谷 香りを通して、自分のステージを上げていくことです。教養、感性、自然との一体感、それぞれを高められるように努力します。書、古典、和歌、漢詩、作法、すべての知識が必要になるのが、香道が総合芸術といわれる所以です。日本には志野流の教室が全国で約二〇〇ありますが、最近ではヨーロッパでも熱心な生徒さんがいらっしゃいますよ。
村山 これは言葉で物語を紡ぐことに共通すると思うのですが、同じく「森」といっても、文化の違う人が思い浮かべる「森」が、私たちの想像するものと違う場合がありますよね。そういったことは問題にならないのですか。
蜂谷 確かにそうですが、実際に香りを嗅ぐことによって共有できるものがあるみたいです。「子供のころを思い出した」と涙ぐむフランス人の生徒さんもいらっしゃいました。香木というと東洋のものと思われがちですが、香りそのものは地球のようにひとつの大きな存在だと思っています。だから僕は、香道で世界をつなげられたらいいな、と思っています。

「嗅覚」が呼び覚ます本能

蜂谷 これは脳科学の分野で立証されていることなのですが、人間が生まれてから経験したすべての香りの記憶は、脳の海馬と呼ばれる部分に蓄積されているのだそうです。嗅覚は、生まれて最初に必要になる感覚ですよね、お母さんのおっぱいを探さなくちゃいけないから。なので、五感の中で嗅覚からの信号だけが、言葉をつかさどる大脳を経由しない。つまり、感情に直接働きかけるのです。
村山 へえ、おもしろい!
蜂谷 動物は、発情期になると生殖器から強い匂いを発しますよね。あと、天敵の存在を察知するときも、嗅覚で判断します。目で認識した後では逃げられませんから。食べ物を確認するときも、同じです。でも、現代の人間社会では、賞味期限という視覚情報で食べられるかどうかを判断してしまう。
村山 嗅覚はどんどん廃れていってしまうばかりですね。
蜂谷 生活環境から匂い自体が少なくなっているので、今の子供たちが置かれている状況を考えると、ちょっと可哀想になりますね。匂いがないのは、記憶がないのと同じことですから。
村山 記憶を脳に刻みつけることができない、ということですね。
蜂谷 いわゆる「いい香り」じゃなくても、幸せな思い出と結びついている匂いはたくさんあります。この『ワンダフル・ワールド』も、アロマや香水の香りだけでなく、プールの塩素の匂いやペットの排泄物の匂い、性交時の男女そのものの匂いなど、どんどん本能的な香りに進んでいきますよね。
村山 香りをテーマにした短編集を編もうと思ったとき、最初は、アロマオイルや香水のように、作られた香りの意図を読み解く物語から入っていったのですが、書いていくうちに、どんどん自分の脳が原始的な匂いに引き寄せられていきました。そこに作為はないと思っていたのですが、必然だったのかもしれません。香りを嗅いだことによって、情景が「パン」と頭の中で弾けるような経験を何度か体験したことがあるのですが、その理由がお話をうかがってよくわかりました。実際の恋愛の場面でも、顔も性格もとても好きなのに、近くに寄ると、どうしても恋愛できない人っていますよね。
蜂谷 いわゆる、フェロモンというものですよね。本能的には、交尾の相手を嗅覚で選んでいるという。
村山 かといって、匂いで本能的に選んだ人が、よく働いてくれるいいパートナーとは限らない。だから、ものすごく相性はよかったけど、結末はイマイチということが……。
蜂谷 いろんな匂いを嗅いでみることが大切なんですよ、きっと。

失恋の効用

村山 お家を継ぐと決めたのはいつごろですか。
蜂谷 物心ついたころからずっと悩んでいましたが、二十歳すぎくらいですかね。家の歴史や、しなきゃいけない勉強や、お弟子さんのことや、これからのこと……十八、十九のころは、プレッシャーに押しつぶされてどん底でした。父親とケンカしたり、家出したり。当時、すごく好きだった年上の恋人がいて、その人との辛い別れがあったり、たまたま脳腫瘍という大病をしたりが重なって、自分から禅寺にこもりました。そんなこんなで、彼女のことも吹っ切れていくのですが。
村山 それじゃあ、修行の成果は、失恋の痛みと引き換えだったんですね。五感を鍛えることによって、人として変化したことはありましたか。
蜂谷 自分が自然の一部だと認識することで、全然寂しくなくなりました(笑)。失恋したことよりも、「生きる」というもっと本質的なことを考えるようになりました。
村山 なにか大きなものを失ったときに、同じだけの新しいものが流れ込んでくることってありますよね。失わなければ得られないことのほうが、世の中には多いように思います。
蜂谷 僕は香りの家に生まれたせいか、思い出のすべてが香りと結びついているんです。『ワンダフル・ワールド』のテーマと同じです。香水だったりシャンプーの香りだったり、その人の香りがずっと記憶に残っていて、同じ香りの人とすれ違うと、思わず振り返ってしまいます。場所も時間も離れているのに。
村山 それが香りの魔法ですよ。香りと音楽って、一瞬で記憶を呼び覚ます力があると思います。そういえば、両方とも「聞く」っていうんですね。
蜂谷 はい。教室ではいつも、「香木の声を聞いてください」と教えています。同じ香木でも、たかれる季節や火の加減によって香りが変わるし、本当に一期一会のものなのです。
村山 人との出会いと同じ。
蜂谷 そうですね。素敵な女性に出会ったときと同じように、チャンスを逃さず懸命に会話をするわけです。
村山 志野流は武家の流派と聞いていたので、とてもストイックな印象がありましたが、若宗匠はずいぶんと情熱的なんですね。でも、「源氏物語」などに喩えて香りの情景を語られるとき、激しい恋愛をしたことがない方のお話よりも、たくさん経験をされた人のほうがずっと説得力があるように思います。
蜂谷 「若紫」のエピソードなんて、現在なら完全に犯罪ですが、男なら、誰しもどこかに秘めてる思いがあるというか(笑)。いろんな恋愛をしていると、物語に感情移入ができるのでしょうね。好き好んで失恋してきたわけではないですが、結果、その失恋が人に対する優しさへとつながっていると思います。
村山 そういうところは、物書きと一緒ですね。恋愛にどっぷりと嵌って、血を吐くような辛い思いをしている最中は、「何もこんな苦しい思いをしなくても……」と思うのですが、時間が経って落ち着いて考えられるようになると、かけがえのない財産になっていることが多いです。「あの経験が、この一行になった」みたいな。おそらく、誰とも感性を共有しなくてもいい仕事ならば、そういう経験など必要ないのでしょうが、いろんな人生を生きてきた人たちと感情を共有しようと思うなら、自分もある程度ふくらみのある人生を送る必要があると思います。というか、そう思わないと辛すぎてやってられない(笑)。
蜂谷 あんな失恋はもう二度としたくないと思っていると、また素敵な人と出会っちゃうから困ったものなのですが。
村山 恋は降ってくるものだから、しょうがないですよ。お茶やお花とくらべて感性で表現する部分が多いから、香道の家元にこそ、恋愛は必要なのかもしれないですね。古典文学の知識だけでなく、古の人々が書き残した感情を、自分は知っていると思えるかどうか。
蜂谷 光源氏のようにいろいろなタイプの女性と燃えるような恋を……それはそれで、とても大変な課題ですね(笑)。
村山 そうですよ、ぜひこの道を究めてください。それを言い訳に恋愛している作家は、いっぱいいます(笑)。香道のように作法やしきたりの厳しい世界では、そこに裏打ちされている人間味こそが実はすごく大切なのですね。

(はちや・そうひつ 志野流香道二十一世家元継承者)
(むらやま・ゆか 作家)
波 2016年4月号より
単行本刊行時掲載

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