九十歳のラブレター
605円(税込)
発売日:2023/12/25
- 文庫
- 電子書籍あり
ぼくとあなた。つい昨日まであんなに仲良くしていたのに、もうあなたはどこにもいない。
ぼくたちが出会ったのは単なる偶然ではない。奇跡だ。小学校の同級生だったあなたと結婚して六十余年。アメリカでの新婚生活、京都での家造り、世界中への旅。自由気ままに勤務先を転々とするぼくに「好きなようにしたら。あたしついてくから」とニコニコ笑っていたあなた。つい昨日まであんなに仲良くしていたのに、もうあなたはどこにもいない――。老碩学が静かに綴る最後のラブレター。
1 血のメーデー
2 青南小学校
3 戦争
4 めぐりあい
5 ストーカー時代
6 ポッカリ月が出ましたら
7 それぞれの歩み
8 家庭の事情
9 いきなりハーバード
10 「ミス」から「マム」へ
11 マイホーム創世記
12 ペット遍歴
13 つかの間の共働き
14 たいせつな「しごと」
15 ラーメンライス
16 いい女
17 「ファミリー」をもとめて
18 進化する「マイホーム」
19 手すさびあれこれ
20 チェックメイト
21 我が家の植物誌
22 ニトロとともに
23 妻は夫を
24 ニンチごっこ
25 米寿の自動車事故
26 別れのあとさき
27 ぼくたちのお墓
28 東京物語
終章 旅路の果て
書誌情報
読み仮名 | キュウジュッサイノラブレター |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | 広瀬達郎(新潮社写真部)/カバー写真、新潮社装幀室/デザイン |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 224ページ |
ISBN | 978-4-10-104851-2 |
C-CODE | 0195 |
整理番号 | か-101-1 |
ジャンル | ノンフィクション |
定価 | 605円 |
電子書籍 価格 | 605円 |
電子書籍 配信開始日 | 2023/12/25 |
書評
代表的知識人が描く極私的ラブストーリー
この本は、「ぼく」と「あなた」をめぐるラブストーリーである。1937年4月1日から2019年9月16日までの約80年にわたる日々が綴られている。
同じ小学校に入学した「ぼく」と「あなた」は、お互いの存在をぼんやりと認識しながらも、直接は会話を交わすこともなく卒業してしまう。戦争が激化する中、やがて「ぼく」は陸軍幼年学校へ進み、「あなた」は勤労動員で旋盤工として働いていた。
そんな二人が再会したのは戦後、「ぼく」が大学生になった時だった。下北沢駅のホームで偶然、渋谷行きの電車を待っている「あなた」を見かける。
二人は毎週のようにデートを重ねるようになった。「あなた」は太宰治の熱烈な信奉者で、「ぼく」は坂口安吾が好きだった。文学談義を交わしたり、時にはグループで山中湖に合宿をしたり、二人の仲は深まっていく。
こんな風にあらすじを紹介すると、まるで朝の連続テレビ小説の冒頭のようだが、この本はフィクションでもなければ、第三者によるルポルタージュでもない。
「ぼく」こと、書き手は1930年生まれの社会学者、加藤秀俊さん。「あなた」は長年連れ添ってきた妻の隆江さん。
加藤秀俊さんは、戦後日本の代表的な知識人の一人だ。1957年に発表した「中間文化論」で論壇の話題をさらい、『整理学』や『人間関係』など何冊ものベストセラーを出版してきた。あの有名なリースマン『孤独な群衆』の翻訳も手がけている。社会学者の竹内洋さんの言葉を借りれば「町人型公共知識人」であり「日本型カルチュラル・スタディーズの開拓者」。象牙の塔に籠城することなく、常に世界中の「世間」と共に活躍を続けてきた。近年も『メディアの展開』や『社会学』など挑戦的な書物を世に問うている。
僕が加藤先生と知り合って十年ほどになる。博学さと思想の自由さにいつも驚かされるのだが、『社会学』を最後に新しい本を出版する予定はないと聞いていた。
だから新刊と聞いて喜んだのだが、まさかこのような本だとは思わなかった。極めて私的で、叙情的な、そして悲しい一冊である。何せ、加藤先生が、すでにこの世界にいない「あなた」に向けて綴ったラブレターなのだから。
それにもかかわらず、この本は多くの人に開かれたものになっている。一つは登場人物が非常に魅力的であるから。「ぼく」も「あなた」も聡明で、冒険心があり、そしてチャーミングだ。二人の人生を応援しながら読みたくなってしまう。「あなた」が単身、商船でアメリカへ渡るシーンなんて冒険小説のようだ。
加えて、激動の時代のレコードとしても読み応えがある。戦争の拡大と敗戦、戦後復興、高度成長。二人は、教科書に太文字で記載されるような出来事を幾度も経験してきた。
たとえば1952年5月1日に起きた血のメーデー事件がある。皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突し、死者と多数の負傷者が発生した。
その事件には「ぼく」も参加していた。全学連の役員を押しつけられ、デモ隊の先頭に立っていたのである。武力衝突が起こり、威嚇射撃をする警官。騒然とした現場から「ぼく」は逃げた。警官に追われながら走っていると、ここにいないはずの人を見かけた。それが「あなた」である。
「あなた」は山の手のお嬢様だった。東京都の教員採用試験に合格して、中学校の英語の教師をしているはずだ。そんな「あなた」がなぜここにいるのか。
実は、日教組の組合員として、デモに動員されていたというのだ。二人は、一万人の群衆の中から全くの偶然に出会ったのである。「ぼく」は「あなた」の手をにぎりしめ、有楽町、そして銀座方面へと向かって走り出した。
朝ドラもびっくりのドラマチックなシーンだが、血のメーデー事件の証言としても重要だ。しばしば歴史叙述はイデオロギーに搦め捕られてしまうが、社会学者らしいフラットな目線は、時代の空気をよく伝えてくれる。
その意味で、この本は優しく知的なラブストーリーでありながら、ログブック(航海日誌)でもある。「ぼく」と「あなた」の航跡は、社会の航跡でもあった。そして「ぼく」が社会について発表してきた著作は、いつも「あなた」と共にあった。本書もまた「あなた」と共にある。
(ふるいち・のりとし 社会学者)
波 2021年7月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
加藤秀俊
カトウ・ヒデトシ
(1930-2023)東京生れ。社会学博士。一橋大学卒業後、米ハーバード大学などで学ぶ。米アイオワ州立大学、京都大学等で教鞭を執り、学習院大学教授、放送大学教授、日本育英会会長などを歴任。20代で発表した「中間文化論」が話題を呼び、社会論を中心に論壇でも活躍。梅棹忠夫、小松左京らと大阪万博のブレーンとなり、「日本未来学会」結成にも尽力した。『加藤秀俊著作集(全12巻)』『整理学』『取材学』『社会学』『暮しの思想』『独学のすすめ』など著書多数。訳書にリースマン『孤独な群衆』、ウォルフェンスタイン&ライツ『映画の心理学』(加藤隆江との共訳)などがある。