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死ぬまでに行きたい海

岸本佐知子/著

935円(税込)

発売日:2025/01/29

  • 文庫

“超出不精”だという著者による、思いがけない景色とその記憶をめぐるエッセイ集。

思い出の場所やいつか行ってみたかったところ、そして記憶の中を旅してみて、思いがけず心を大きく動かされたところ。ぼったくられたバリ島。父が生まれ育った丹波篠山。思っていたのと違ったYRP野比。幼馴染との経堂での奇妙な再会……。出不精な著者が見つけた、懐かしさと新鮮さが入り交じる風景の数々は、なぜだか私たちを切なくさせる。翻訳の名手が贈る少し不思議なエッセイ集。

目次

赤坂見附
多摩川
四ツ谷
横浜
上海
海芝浦
麹町
YRP野比
鋸南
丹波篠山
初台
近隣
富士山
三崎
丹波篠山2
世田谷代田
バリ島
地表上のどこか一点
大室山
暗がり
カノッサ
経堂
あとがき
文庫版あとがき

書誌情報

読み仮名 シヌマデニイキタイウミ
シリーズ名 新潮文庫
装幀 岸本佐知子/カバー写真、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 文庫
判型 新潮文庫
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-105641-8
C-CODE 0195
整理番号 き-52-1
ジャンル エッセー・随筆、ノンフィクション
定価 935円

書評

ここではないどこかを巡る旅

佐久間文子

 XがまだTwitterで、利用者のやりとりも平和で牧歌的だったころ、岸本さんのプロフィールに「家から出ません」と書かれていたのを覚えている。
 私は岸本さんと年齢が近い。
 社交的、行動的なことが良しとされ、家にいること、ひとりでいるのが好きなことは、なんとなく恥ずかしくて表に出してはいけない風潮のなかに身を置いて生きてきたひとりである。
「家から出ません」とか「一歩も地面を踏まない日がある」とか気負わずに言えるのはなんてカッコいいんだろうと、心を打ちぬかれた。

 岸本さんは「ない」の人である。
 たいていの人は「何々を食べた」「どこそこに行った」「誰それに会った」とエッセイに書くが、岸本さんには「買わなかった」「ボートに乗らなかった」などなど「ない」「なかった」で終わる文章がまあまあ多い。
 本書の「YRP野比」の章でちらっと出てくる「行ったことがない」場所についての連載を雑誌でしていたこともある(昨年、白水社から出たエッセイ集『わからない』に収録され、岸本さんが脳内でつくりあげた幻ではないことが証明されている)。
『死ぬまでに行きたい海』は、いろんなところに「行ったことがない」「なかなか行こうとしない」岸本さんが、重い腰を上げていくつかの場所に実際に「行ってみた」エッセイ集である。
 赤坂見附、多摩川、四ツ谷、横浜、海芝浦。上海とかバリ島とか遠方の土地も出てくるが、基本は東京もしくは関東近郊の、半日あればだいたい行って帰ってこられる土地が選ばれている。
 初めての場所もあり、慣れ親しんだ場所を久しぶりに再訪することもある。初めての場所であっても、行くまでに時間がかかったさまざまな理由があり、行かなかった間にふくれあがった記憶の集積がある。
 四年間の大学生活(四ツ谷)の思い出は三日分ぐらいしかないのに、すぐ近くの中学・高校生時代を過ごした街の裏通り(麹町)で母校のチャイムの音(キーンコーン、キンコンキンコン、コーンコーンコーン)が聞こえてくると、自分たちのころ(カン、カカカーン、カンカンコンキンコンカン)とは違うと即座に聞き分けられたりして、アンバランスなことこのうえない。
 行かずに書いた場所の話も岸本さんの本領発揮で面白いが、実際にどこかに行って書いた話もまた、とんでもなく面白いのだった。
 読んだ本のせりふが記憶にまぎれこんできたり、誤連結されたり、本当に行ったかどうか怪しい場所の記憶があったりするので、描かれているのが自分にとってなじみ深い土地であっても、ここではないどこかの、平行世界のよく似た土地であるかのような印象を受けるのだ。

 父の故郷である「丹波篠山」を訪れたときの文章にこんな一節がある。

 言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。

 些細だけれども忘れがたい記憶。つねに自分のかたわらにあるものではなく、ある場所に立つことによって思いがけず不意に戻ってくる大切な記憶のかけらが、この本にはいくつも集められている。
 翻訳家で、エッセイの名手でもある岸本さんは、たぶんこれまでにも、小説を書いてみませんかと何度も言われ、何度も断ってきたのではないかと思う。
 今回、『死ぬまでに行きたい海』を再読して、これはもう小説だという確信を深めた。
 エッセイでもあり、同時に小説でもある。エッセイとして始まったものが途中で小説になり、いつのまにかエッセイで終わっている、昆虫のメタモルフォーゼを見るような、奇妙な感覚を味わった。
 いつのまにか異世界へと運ばれ、短い旅をしたあとで、気がつけばもとの場所に戻るようでもある。
 スケッチ代わりに、岸本さん自身がスマートフォンで撮ったという写真がまたすばらしい。
 ふつうなら写真は文章に描かれている場所の情景が現実のものである証明になるはずなのに、この本では逆に異世界への入口のような役割を果たしている。

(さくま・あやこ 文芸ジャーナリスト)

波 2025年2月号より

著者プロフィール

岸本佐知子

キシモト・サチコ

翻訳家。訳書にルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』、ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』、ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』、スティーヴン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』など多数。編訳書に『変愛小説集』『居心地の悪い部屋』など、著書に『なんらかの事情』『わからない』など。2007(平成19)年、『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞を受賞。

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