河童が覗いたヨーロッパ
781円(税込)
発売日:1983/07/27
- 文庫
あらゆることを興味の対象にして、一年間で歩いた国は22カ国。泊った部屋は115室。旺盛な好奇心で覗いた“手描き”のヨーロッパ。
書誌情報
読み仮名 | カッパガノゾイタヨーロッパ |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 320ページ |
ISBN | 978-4-10-131101-2 |
C-CODE | 0195 |
整理番号 | せ-4-1 |
ジャンル | 歴史・地理・旅行記、海外旅行 |
定価 | 781円 |
書評
井戸の底の親友
かの有名な鳥がねじを巻く小説に出現する井戸を切望し、自宅付近を探し歩いたことがある。無形の何かに自らがんじがらめになり、暗い井戸の底から抜け出せない時期が、長いこと私にもあった。
それまでは人生で大事なことのすべては漫画から教わってきたが、バイトもロクにしていないこの絶望期はコスパのいい「活字」が親友だった。飲料の成分表を読むふりをして取り繕う人見知り風情の振舞いも当然したし、雑誌「ぴあ」のはみ出し文を隈なく読むくらいには活字と昵懇だった。
そんななか、此処ではない何処かを描いた文字群は、籠城中の私を軽やかに外界へと誘ってくれた。井戸の底に居ながらにしてどこへでも旅することができたのだ。
妹尾河童さんは本来舞台美術家である。昭和音楽大学のオペラ情報センターで名前を検索すると251件もヒットするし、また、長年テレビ局美術部にも在籍されていたようだ。しかしやはり妹尾河童といえば、ピェンロー伝導者としての功績が大きいのではないだろうか。具のほとんどが白菜で、取皿に自分量で盛った塩と一味唐辛子のみで味付けする激ウマ鍋料理。具材をアレコレ増やしてはみるが結局原点に戻らざるを得ないお手軽にして繊細なあの白菜鍋、その初出がおそらくこの『河童が覗いたヨーロッパ』だ。
バズった図解入りの方ではなく、「河童さんから伝授された」小室等さんが巻末の解説に作り方を書いているのだ。記された39年前すでに毎年作っているようなので、ピェンローが日本に伝来してから半世紀近く経つことになる。誠に恐れ入る。
そんな河童さんの特殊能力は俯瞰絵だ。絵が描ける人を私は無条件で尊敬する。絵は全世界共通語。その稀有な能力でもって国外で見聞きした事物を余すことなく写し取っている。舞台美術家らしく泊まった部屋や格子窓の模様、建物の外壁などを仔細に描いている。スペインのサグラダファミリアでいつできるかを河童さんが現地の方に尋ねている。「完成したら、日本の新聞にものるだろう」とのことだが、50年以上経った今もその報は届いていない。
当時とは物価も時勢も違うが、旅を「得点法」で満喫する方法を教えてくれる、今もなお色褪せない本だ。河童さん自身のユニークな人間力が堪らないので著作はすべてお気に入りだ。
28年前、搭乗していたアエロフロート機の着陸時、慣性の法則により空席の背もたれがバタバタと前に倒れたのには慄いた。聞く所によると軍事利用もしやすい構造なのだそうだ。悪天候で思いがけず投宿となった、モスクワあたりの乗り継ぎ空港では、肩から自動小銃を下げた兵士がそこら中に立っていて、その一人に吹雪の中を十数名の日本人と共に連行されてしまった。もう祖国の地は踏めぬのだなと観念したが、だだっ広く角ばってはいるがとても清潔なホテルに案内された。巨大な便器に落ちそうになり、ショッキングピンクのスープにビクついたが、魚介ダシと分かると途端に親近感を覚えたものだ。その3、4年後、当時の恋人がピクシー(ストイコビッチ選手)のファンで、引退試合を一緒に見に行くほどには10年近く彼のプレイを見ていた。
我々は皆、どの国に生まれようとも食事やスポーツを楽しみ排泄をするただの一市民だ。戦争は常に普通の生活が犠牲になる。そんなことを改めて考えさせる『魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章―』には、旧ソ連やロシアのことだけでなく、解体してしまったユーゴスラビアのことも書かれている。
独特の擬音や言い回しが絶妙に心地よい宮沢賢治さん。児童文学全集、アニメ映画、漫画、そして原作、と辿ったこの物語は20歳で白井晃氏演出の舞台に出演した際、さねよしいさ子氏の数々の楽曲と共に私の中で永遠となった。ジョバンニは言う。「みんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
信心のない私だが、独り歩き遍路旅を結願したことがある。自己満足だが爽快だった。神仏ではなく、失態も努力も皆自分がつぶさに見ているのだ。辛い時でもジョバンニのように胸を張ろう。争いごとはツマラナイカラヤメロと言える人になろう。
銀河鉄道には乗らずに済み、井戸からも這い上がれた今、たくさんの得点を手にマルタ島をのんびり旅してみたい。
(しゅはま・はるみ 女優)
波 2022年8月号より
著者プロフィール
妹尾河童
セノオ・カッパ
1930(昭和5)年、神戸生れ。独学で舞台美術を修め、1954年、「トスカ」でデビュー。以来、演劇、オペラ、バレエ、ミュージカルなどの舞台美術を初め、テレビ美術など映像デザインの分野においても活躍中の、現代日本を代表する舞台美術家。“凝り性”のエッセイストとしても知られ、『覗いた』シリーズ他、『河童のスケッチブック』(文藝春秋)等。小説『少年H』では1997(平成9)年度「毎日出版文化賞・特別賞」を受賞。他に著書多数。