新編 銀河鉄道の夜
473円(税込)
発売日:1989/06/19
- 文庫
- 電子書籍あり
星の空を、ひっそりと見あげたことありますか。そして涙が出ませんでしたか。
貧しく孤独な少年ジョバンニが、親友カムパネルラと銀河鉄道に乗って美しく哀しい夜空の旅をする、永遠の未完成の傑作である表題作や、「よだかの星」「オツベルと象」「セロ弾きのゴーシュ」など、イーハトーヴォの絢爛にして切なく多彩な世界に、「北守将軍と三人兄弟の医者」「饑餓陣営」「ビジテリアン大祭」を加えた14編を収録。賢治童話の豊饒な醍醐味をあますところなく披露する。
よだかの星
カイロ団長
黄いろのトマト
ひのきとひなげし
シグナルとシグナレス
マリヴロンと少女
オツベルと象
猫の事務所
北守将軍と三人兄弟の医者
銀河鉄道の夜
セロ弾きのゴーシュ
饑餓陣営
ビジテリアン大祭
宮沢賢治の宇宙像 斎藤文一
収録作品について 天沢退二郎
年譜
書誌情報
読み仮名 | シンペンギンガテツドウノヨル |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 432ページ |
ISBN | 978-4-10-109205-8 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | み-2-5 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 473円 |
電子書籍 価格 | 440円 |
電子書籍 配信開始日 | 2011/07/01 |
書評
読めないときに手に取る本
長い文章を読めないときがある。気持ちに余裕がなくなって心身ともに疲れてしまった時期だったりする。そんな日は、レコードをかける。スピーカーから流れる音楽もまた、本と同じように誰かの人生なのだなと思う。心に風が抜けてゆく。それから詩を読む。童話を読む。脳みそにへばりついた雑音を引き剥がしてくれる。私の中に、言葉という音が文体のリズムとともに流れ始めるとき、やっと無音を味わう。
子どもの頃から何度も読んだ宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」。様々な出版社から出ているけれど、新潮文庫の加山又造さんの装画がとりわけ好きだ。本は何も最初から読むだけのものではない。私の手元にある、『新編 銀河鉄道の夜』だと、一七五頁の四行目(現在の版だと二〇六頁の八行目だそう)。
〈ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、……〉
いいなと思ったところを声に出して読んでいく。子どもが息つぎの間もなく喋っているように夜空に点滅する文体。ジョバンニと旅をしているような、賢治と孤独や寂しさを肯定しあえるような気持ちになる。そうして好きなところを何度も読んで今日はおしまい。本を閉じる。そんな日があってもいい。
昔から詩や童話の世界が好きで、日本の詩人の本はよく読んできた。大人になって海外の詩も読むようになった。わけのわからない表現もいっぱいあるけれど、詩もまた音楽や賢治の童話のように、ひもといていくものではなく、携えているくらいでいいなと思う。ドイツの詩人リルケの詩集は、長年本棚に刺さっていたけれど最近になってようやく取り出すようになった。時代も国も違う詩人の見つけた言葉は、百年後の私の生きる世界にも新しい光を当ててくれる。「果実」は、小さな生命の満ちる力と、淡々と実る静寂の両面を詠んだ作品だ。今まではピンと来なかったが、この数年、地元で農業をするようになってより深く理解できた。人間もまた果実の一つであり幹の一つだと感じる。
〈けれども いま 円熟する楕円の果実のなかで/その豊かになった平静を誇るとき/それは自らを放棄して また たち帰ってゆくのだ/果皮の内側で 自分の中心へ向って〉
本棚にはたくさんの本を並べておく必要がある。今は読まなくても、引き合うときがくるかもしれないからだ。未来のために私はせっせと本を積む。私達は日々変化していく。音楽が変化していく私達に寄り添ってくれるものだとすれば、本は変化を促し肯定してくれるものかもしれない。また、井戸のようにもう一度清水を汲み上げてくれるものだとも思う。
世界的な音楽家、武満徹氏と小澤征爾氏の対談集『音楽』は、音楽史的にも貴重な資料であり、音楽だけでなく物事全ての本質が語られている。戦後、物のなかった時代にリヤカーを引いてお父さんと二人のお兄さんが征爾さんのためにピアノを買いにいった話や、世界中の音楽が均一化されることを嘆く話も興味深かった。途中、武満さんが「音楽はやっぱり受け身になってやるもんじゃないよ」と仰っているところがある。小説は本を買って読むという動作があるから良いのだし、音楽は実際に演奏しないまでも演奏会場まで電車で行くとか、竹針(レコードの針)を動かすとか、「なにごとかを自分でしないと記憶に残んないんじゃないかと思うんだ」(小澤さん)と。この対談は五十年近く前に行われている。テレビや有線放送から音楽が垂れ流される時代の始まりだったのだ。
五十年後、二人が仰るように、動作は戻ってきた。再びのレコードブームだ。ネット配信もサブスクも流行ってはいるが、やっぱり人々がレコードへと、ライブハウスへと戻ってきた。どんな時代も実感こそが人間の砦ではないだろうか。本屋さんへ足を運び、選び、持ち帰り、電車の中や教室の片隅で文庫本のページをめくったからこそ読書の感動は消えないのだと思う。その全てが読書体験として私を今の私へと誘ってくれたのだ。
(たかはし・くみこ 作家/詩人/作詞家)
波 2023年4月号より
井戸の底の親友
かの有名な鳥がねじを巻く小説に出現する井戸を切望し、自宅付近を探し歩いたことがある。無形の何かに自らがんじがらめになり、暗い井戸の底から抜け出せない時期が、長いこと私にもあった。
それまでは人生で大事なことのすべては漫画から教わってきたが、バイトもロクにしていないこの絶望期はコスパのいい「活字」が親友だった。飲料の成分表を読むふりをして取り繕う人見知り風情の振舞いも当然したし、雑誌「ぴあ」のはみ出し文を隈なく読むくらいには活字と昵懇だった。
そんななか、此処ではない何処かを描いた文字群は、籠城中の私を軽やかに外界へと誘ってくれた。井戸の底に居ながらにしてどこへでも旅することができたのだ。
妹尾河童さんは本来舞台美術家である。昭和音楽大学のオペラ情報センターで名前を検索すると251件もヒットするし、また、長年テレビ局美術部にも在籍されていたようだ。しかしやはり妹尾河童といえば、ピェンロー伝導者としての功績が大きいのではないだろうか。具のほとんどが白菜で、取皿に自分量で盛った塩と一味唐辛子のみで味付けする激ウマ鍋料理。具材をアレコレ増やしてはみるが結局原点に戻らざるを得ないお手軽にして繊細なあの白菜鍋、その初出がおそらくこの『河童が覗いたヨーロッパ』だ。
バズった図解入りの方ではなく、「河童さんから伝授された」小室等さんが巻末の解説に作り方を書いているのだ。記された39年前すでに毎年作っているようなので、ピェンローが日本に伝来してから半世紀近く経つことになる。誠に恐れ入る。
そんな河童さんの特殊能力は俯瞰絵だ。絵が描ける人を私は無条件で尊敬する。絵は全世界共通語。その稀有な能力でもって国外で見聞きした事物を余すことなく写し取っている。舞台美術家らしく泊まった部屋や格子窓の模様、建物の外壁などを仔細に描いている。スペインのサグラダファミリアでいつできるかを河童さんが現地の方に尋ねている。「完成したら、日本の新聞にものるだろう」とのことだが、50年以上経った今もその報は届いていない。
当時とは物価も時勢も違うが、旅を「得点法」で満喫する方法を教えてくれる、今もなお色褪せない本だ。河童さん自身のユニークな人間力が堪らないので著作はすべてお気に入りだ。
28年前、搭乗していたアエロフロート機の着陸時、慣性の法則により空席の背もたれがバタバタと前に倒れたのには慄いた。聞く所によると軍事利用もしやすい構造なのだそうだ。悪天候で思いがけず投宿となった、モスクワあたりの乗り継ぎ空港では、肩から自動小銃を下げた兵士がそこら中に立っていて、その一人に吹雪の中を十数名の日本人と共に連行されてしまった。もう祖国の地は踏めぬのだなと観念したが、だだっ広く角ばってはいるがとても清潔なホテルに案内された。巨大な便器に落ちそうになり、ショッキングピンクのスープにビクついたが、魚介ダシと分かると途端に親近感を覚えたものだ。その3、4年後、当時の恋人がピクシー(ストイコビッチ選手)のファンで、引退試合を一緒に見に行くほどには10年近く彼のプレイを見ていた。
我々は皆、どの国に生まれようとも食事やスポーツを楽しみ排泄をするただの一市民だ。戦争は常に普通の生活が犠牲になる。そんなことを改めて考えさせる『魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章―』には、旧ソ連やロシアのことだけでなく、解体してしまったユーゴスラビアのことも書かれている。
独特の擬音や言い回しが絶妙に心地よい宮沢賢治さん。児童文学全集、アニメ映画、漫画、そして原作、と辿ったこの物語は20歳で白井晃氏演出の舞台に出演した際、さねよしいさ子氏の数々の楽曲と共に私の中で永遠となった。ジョバンニは言う。「みんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
信心のない私だが、独り歩き遍路旅を結願したことがある。自己満足だが爽快だった。神仏ではなく、失態も努力も皆自分がつぶさに見ているのだ。辛い時でもジョバンニのように胸を張ろう。争いごとはツマラナイカラヤメロと言える人になろう。
銀河鉄道には乗らずに済み、井戸からも這い上がれた今、たくさんの得点を手にマルタ島をのんびり旅してみたい。
(しゅはま・はるみ 女優)
波 2022年8月号より
賢治を胸に、今日も畑へ
家庭菜園を楽しむ人が増えています。私は、大学での授業のかたわら、NHK Eテレの「趣味の園芸 やさいの時間」という番組の講師を務め、全国のみなさんに野菜の育て方を紹介しています。
小さな頃は、テレビに出演するようになるなんて思いもしませんでした。私の人生がこうなったのは、ある作家との出会いがあったから。それが宮沢賢治です。
初めて読んだ賢治の作品は「雨ニモマケズ」でした。冒頭の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ……」はあまりに有名です。ただし、私が気になったのは後半の「サムサノナツハオロオロアルキ」という一節でした。「寒さの夏」とは、冷たい風「やませ」による東北地方太平洋側の冷害を指しています。やませが吹くと夏でも気温が上がらず、農作物、とくに熱帯原産の稲は極端に生育が悪くなり、昔から農家を苦しめてきました。
童話作家・詩人として知られる賢治ですが、出身校は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)です。卒業後には花巻農学校で教鞭を執り、その後は自ら設立した羅須地人協会での活動を通し、農家の生活改善に尽力しました。農家に寄り添い、自らも土を耕した賢治は、冷夏がやってくるたびに、心配と絶望で、ほんとうにおろおろ歩いていたと思います。秋田県の農家に生まれた私には、冷害に苦しむ賢治と岩手県の農家の気持ちが痛いほどわかりました。そして、この詩を読んだ瞬間、私も賢治のように「農家や農業のために役立つことがしたい」という思いがふつふつと湧いてきました。
当然、大学は農学部を志望しました。受験校として選んだのは岩手大学。そう、賢治の出身校です。晴れて合格した私は、名実ともに賢治の後輩となりました。岩手大学の同窓会名簿には、私の名前が、賢治といっしょに載っているんですよ。
大学在学中にも、賢治にまつわる忘れられない思い出があります。有機化学の試験のとき、答案が埋められなかったので、用紙の裏に「永訣の朝をどう読むか」という設問を書いて論じたことがありました。「永訣の朝」は、賢治が妹トシとの別れをうたった詩で、「あめゆじゆとてちてけんじや」という一節がよく知られています。「あめゆじゅ」とは岩手の方言で雨雪、みぞれのことで、賢治は妹から最後の食事に「みぞれを取ってきてくれ」と頼まれるんですね。詩が進むにつれ、死が迫った妹に対する賢治の思いが高まっていくのがわかります。昔から好きな詩だったので力を入れて論述したら、なんと成績表に「優」がつきました。その教授は賢治研究でも知られる方だったのですが、賢治の出身大学ならではのエピソードだったと思います。
宮沢賢治の童話の中で、もっとも有名なのは『銀河鉄道の夜』でしょう。少年ジョバンニがカンパネルラとともに星空を旅する話で、私も繰り返し読みました。作中では「本当の幸せってなんだろう」という問いが繰り返されます。そして、カンパネルラが自らを犠牲にして友を救ったように、賢治にとっての幸せは「人のために生きる」ことだったのでしょう。教育に携わる人間として、私もこの思いを忘れないようにしています。
『注文の多い料理店』もよく知られる童話です。東京から猟にきた二人の紳士が山奥のレストランに入ったところ、逆に山猫に食べられそうになるというあらすじで、ストーリーが秀逸ですね。秋田にはマタギと呼ばれる猟師がいます。昔からの猟師は、生きるために動物の命をいただきました。しかし紳士たちは、楽しみのために狩猟をします。賢治は読者に「命」の大切さを考え、生命に対する畏敬の念を抱いてほしかったのでしょう。
冒頭には、連れていた猟犬が死んでしまったことについて、紳士が「二千八百円の損害だ」と言い放つシーンがあります。命が、簡単にお金に換算できるのかという賢治の声が聞こえてくるようです。
大学では農園実習の指導もしていますが、自分で育てるようになると、学生達の野菜へのまなざしが変わってきます。お金で買うことのできる「食材」としての野菜を、自分で育てた「命」として捉えるようになる。土を耕しているうちに、いつの間にか賢治の考えに近づいていくようなんですよね。
賢治の作品は、読み返すたびに新たな発見があります。この次の銀河鉄道の旅で、イーハトーブの村でどんな出会いがあるか、私は今から楽しみです。
(ふじた・さとし 恵泉女学園大学副学長)
波 2022年5月号より
著者プロフィール
宮沢賢治
ミヤザワ・ケンジ
(1896-1933)明治29年、岩手県花巻生れ。盛岡高等農林学校卒。富商の長男。日蓮宗徒。1921(大正10)年から5年間、花巻農学校教諭。中学時代からの山野跋渉が、彼の文学の礎となった。教え子との交流を通じ岩手県農民の現実を知り、羅須地人協会を設立、農業技術指導、レコードコンサートの開催など、農民の生活向上をめざし粉骨砕身するが、理想かなわぬまま過労で肺結核が悪化、最後の5年は病床で、作品の創作や改稿を行った。生前刊行されたのは、詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』(1924)のみ。