
春のこわいもの
605円(税込)
発売日:2025/03/28
- 文庫
- 電子書籍あり
あの春、日常が悪夢に変貌した──。不穏にして甘美。世界が待ち望んだ短編集。
世界が一変してしまったあの春、私たちは見てはいけないものを覗きこんでしまった──。持てる者と持たざる者をめぐる残酷なほんとう。死を前にして振り返る誰にも言えない秘密。匿名の悪意が引き起こした取りかえしのつかない悲劇。正当化されてゆく暴力的な衝動。心の奥底にしまい込んだある罪の記憶。ふとしたできごとが、日常を悪夢のように変貌させていく。不穏にして甘美な六つの物語。
青かける青
あなたの鼻がもう少し高ければ
花瓶
淋しくなったら電話をかけて
ブルー・インク
娘について
書誌情報
読み仮名 | ハルノコワイモノ |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
装幀 | Alex Hanna「Sweet dreams 1」Oil on canvas/カバー装画、名久井直子/カバー装幀 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 224ページ |
ISBN | 978-4-10-138865-6 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | か-64-5 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 605円 |
電子書籍 価格 | 605円 |
電子書籍 配信開始日 | 2025/03/28 |
書評
読者を首肯させる力
世界中が切望していた二年半ぶりの新作、ついに刊行! こんなにも世界が変ってしまう前に、私たちが必死で夢みていたものは――。
春のこわいものは早期にあったコロナなのかもしれないな。ほんの少しの記述でもコロナ史的価値はある、そんな時期に書かれた六つの短篇のうち、男性の一人称は「ブルー・インク」一篇だけ、あとは二人称も加えてすべて女性が主人公。なのにすべての主人公の意識や行為のありようがなぜかすんなりと納得出来てしまうのだ。わしゃ女か。いやいやこれはやはり川上未映子の間口の広さと筆力なのであろう。包容力と言ってもよろしい。不可解な結末は前衛だし、リーダビリティはエンタメに目配せしている。
最初の「青かける青」は掌篇である。こればかりは入院しているお嬢さんではなく、つい先達てまで入院していた我が身を思い返して、家族はおれに長く入院していてほしいんだろうなとか、このままここで死んでいくのもありかなあとか、切実な思考の共振があった。偶然とはいえ、いやはや参った。
知性も容姿もごく一般的で、だからこそおれなんかとは遠い世界にいるトヨという「あなたの鼻がもう少し高ければ」の主人公がなんでこんなによく理解できるのか。心ではなく顔だという衝撃的なテーマも首肯出来る描写力。整形という現代の魔力の前で正反対の場に立つマリリンとの接近。二人は水商売斡旋業のモエシャンなる女に逢いに行く。そこでは「なんでブスのまま来てんの」と口を極めて罵倒され、下手に顔をいじくりまわしたマリリンに到っては声もかけて貰えない。ラストはカフェの女店員を介して自虐の極に突き放してしまうのである。
「花瓶」では病床の老女が「好きなことを言わせてほしい」と言って家政婦の性交の場面を想像することや自身の死や夫とではない相手との性交のことなど、ちょっと言い難いことばかりを語る。特にある特定の知人の性交の場面を繰り返し想像することなどは老いという共通点からの地続きであろうか、自身との類似にどきりとする。
「あなたは」という二人称で描かれる女の彷徨と罵倒とSNSと食欲が描かれる「淋しくなったら電話をかけて」は、小生が思うにこの作品集の中では最高の出来である。暗い結末とか明るい結末とかいったヤワな感想を突き抜けた、爽快感あふれるラストで、思わず笑い出してしまった。何よりもバランス感覚がよく、やっぱり小説はこうでなければと思わせてくれる。
自分の書いた文章があとに残ることを病的に怯える女性がいて、その友人になる男性が本書中唯一の男の語り手「僕」である。「ブルー・インク」におけるこの「僕」がデッサン室でデザイン科の女の子への性犯罪を妄想する長丁場は圧巻だ。この年頃の男性が実際に何もすることができないことはわかっているものの、欲望の切迫性がなまなましいので迫力がある。急激に熱が冷めて嫌悪感でいっぱいになるのも性行為のあとに似ていて納得できるが、女性もそうなのだろうか。
お稽古ごとを一通りやったもののなんの才能もなく、それでも女優に憧れて自分もなりたいと思う娘がどんなに多いことか。「娘について」はそんな金持ち娘に批判的でありながらも友人であり続ける女性の語りで、本書中いちばんの力作と言えよう。何かになりたいと思いながらなんの努力もしない男というのもいるが、これはいずれ結婚する可能性のある女性ほどには許容されない。役者志望の男、小説家志望の男などもそうであり、まあおれの場合努力はしたものの、傍目にはろくな男ではなかっただろうな。よくまあ光子さんが結婚してくれたものだと思うよ。
主人公とその母親と語り手三様の造形がみごとである。わしにはとても書けんわ。
(つつい・やすたか 作家)
波 2022年3月号より
単行本刊行時掲載
[漫画書評]あの春を思い出して
著者プロフィール
川上未映子
カワカミ・ミエコ
大阪府生れ。2008(平成20)年、『乳と卵』で芥川賞、2009年、詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で中原中也賞、2010年、『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞および紫式部文学賞、2013年、詩集『水瓶』で高見順賞、『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、2016年、『あこがれ』で渡辺淳一文学賞をそれぞれ受賞。2019(令和元)年、『夏物語』で毎日出版文化賞を受賞。『春のこわいもの』は海外でもベストセラーになる。『ヘヴン』の英訳は2022年、ブッカー国際賞最終候補に選出された。2023年、『すべて真夜中の恋人たち』が全米批評家協会賞最終ノミネート作品となる。2024年、『黄色い家』で読売文学賞を受賞。このほかにも村上春樹との共著『みみずくは黄昏に飛びたつ』など著書多数。