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このプリンセス、他人とは思えない!

マリー・アントワネットの日記 Rose

吉川トリコ/著

594円(税込)

本の仕様

発売日:2018/08/01

読み仮名 マリーアントワネットノニッキローズ
シリーズ名 新潮文庫nex
装幀 斉木久美子/カバー装画、鈴木久美/カバーデザイン、川谷デザイン/フォーマットデザイン
雑誌から生まれた本 yom yomから生まれた本
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
ISBN 978-4-10-180130-8
C-CODE 0193
整理番号 よ-37-21
ジャンル キャラクター文芸、コミックス
定価 594円
電子書籍 価格 594円
電子書籍 配信開始日 2018/08/10

ハーイ、あたし、マリー・アントワネット。もうすぐ政略結婚する予定www 1770年1月1日、未来のフランス王妃は日記を綴り始めた。オーストリアを離れても嫁ぎ先へ連れてゆける唯一の友として。冷淡な夫、厳格な教育係、衆人環視の初夜……。サービス精神旺盛なアントワネットにもフランスはアウェイすぎた――。時代も国籍も身分も違う彼女に共感が止まらない、衝撃的な日記小説!

著者プロフィール

吉川トリコ ヨシカワ・トリコ

1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』などがある。

書評

宝塚フリークのはるな檸檬さん激推し!!

はるな檸檬

《ベルばらファン》《ヅカファン》《ミュージカルファン》も、みんな必読――21世紀最高の日記文学誕生

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インタビュー/対談/エッセイ

MeToo、母娘問題、妊活……。マリー・アントワネットがギャル語でぶっちゃける「女にかけられた呪い」とは。

吉川トリコ

 そんなさあ、王妃になったぐらいで人はそうそう変わったりしないって。むしろあたしがフランス王妃とかwww マ? マ? くっそウケるwww ってかんじなんすけど。昨日までちゃらんぽらんだったやつがなにかをきっかけに圧倒的成長を遂げていっぱしの大人みたいな口利くようになったりしたらむしろそっちのほうがうさんくさくない? ないわー、信用できんわーってかんじしない? というわけで王妃マリー・アントワネットもこれまでどおりでいくから! 調子アゲてこ、プチョヘンザ!(1774年5月17日(火)『マリー・アントワネットの日記 Bleu』より)

 ***

池田理代子の「ベルサイユのばら」、遠藤周作の『王妃マリー・アントワネット』、ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」など、革命に散ったフランス王妃・マリー・アントワネットの生涯を描く名作は枚挙にいとまがない。平成30年8月、ここにまったく新しいマリー・アントワネットが誕生した。作家・吉川トリコが生んだ、ギャル語とネットスラングを駆使し、生来のお調子者として大暴れするアントワネットである。冒頭の日記はまさにそのアントワネットが綴ったもの。処刑当日まで克明に綴られた彼女の日記は、読む者に大きな衝撃と深い共感を与える――。

 ***

――ギャル語のマリー・アントワネット、画期的ですよね。
吉川 もともとギャル語が大好きで。すごくクリエイティブですよね。新しい言葉を創造してゆく。流行語を多用して書かれた小説も以前からよく読んでたんです。中森明夫さんの『東京トンガリキッズ』とか田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』とか。岡崎京子さんの『くちびるから散弾銃』も、当時の風俗や流行語がいっぱい出てくる作品で。私はリアルタイムではなくて3~4年遅れて読んだので、固有名詞が全然分からなかったんですけど、妙に楽しくて大好きでした。

――いつか自分でも、流行語満載の小説を書きたいと思っていらしたんですか?
吉川 そうですね。一時期流行った、記号を組み合わせて作る「ギャル文字」がありましたよね。「|ナ」=「け」みたいな。デビュー当時、あれを駆使して小説を書きたいと話したら、編集者から「それはやめて下さい」とか言われて(笑)。

――それから10年以上経って、やっと念願のギャル語小説が実現したんですね。
吉川 マリー・アントワネットに興味を持って、彼女を書きたいと思ったとき、「あっ、これをギャル語で書けばいいんだ!」ってひらめいたんです。現代の女の子をギャル語で書くよりも絶対面白くなるって思った。

――ネットスラングやHIP HOP用語も多数出てきますが、こういった言葉についても詳しかったのですか?
吉川 ある程度は馴染んでましたけど、この作品を書くためにめちゃくちゃ勉強しました(笑)。ネットとか、たまにファッション誌に載ってる「現代用語辞典」とかを見つけるとせっせとメモして、リスト作って。連載が終わってもまだまだ用語のストックが残ってたので、後からどんどん書き足しました。一時期、Twitterで「#クソ語彙小説」っていうのが流行ってたんですよ。

――クソ語彙小説?
吉川 古今東西の名作を140字の「クソ語彙」で翻訳する。「桃太郎」だったら「やばめの桃流れてきてぱっかーんしたら中から子供でてきたウケるwww」みたいな。あれに一時期ハマっていろいろ集めてたんですよね。その影響も受けていると思います。

――母娘問題やMeToo、フェミニズムをテーマにしようという気持ちは書き始めた当初からありましたか?
吉川 意識的にそう思っていたわけではないんですけど、マリー・アントワネットの資料をいろいろ読んでいくうちに、現代の女性と同じ悩みを彼女も抱えていたんだなとわかったんです。それに、やっぱり関心があるんですよね、フェミニズムに。だから自然と作品にも反映されるんですけど、ここまでしっかり書いたのは初めて。ギャル語だとフェミニズムについてすごく書きやすかったんです。

――それはどうしてなんでしょう。
吉川 一般的な日本語で書くと、どうしても真面目になっちゃうからかな。……やっぱり私のなかに恐怖があるんだと思います。「フェミニストって怖い」って言われるじゃないですか。それに対する恐怖。「おお~こっわ~www」みたいに言われがちですよね。

――「フェミですかwww」と。
吉川 そういう冷笑的な態度に晒されるのが怖いから、ストレートに書くことを恐れていたのかもしれない。フェミニズムに対する批判として、「そんなにギャーギャー怒らないで、もっと冷静に、もっと賢く主張するべき」という言い方がありますよね。「トーン・ポリシング(語調統制)」と呼ばれる、こちらを潰すやり方です。「細かいことにいちいち目くじら立ててると、本当に主張したいことを聞いてもらえなくなるよ」と。私はそれって全然違うと思っていて。女性差別の問題に大きい小さいもなくて、小さく思えることでも、それについて今泣いている人がいるんだったら、怒っていくべきです。……って気づくとまた怒ってる(笑)。

――怒りたくなるようなことばかりです!
吉川 強火で行こ! どんどん怒っていきたいです。じゃないと何も変わらないから。

――本作でいちばん好きな登場人物は誰ですか?
吉川 うーん、やっぱりルイ16世かな。最初は一生懸命、彼を恰好良く書こうとしてたんですよね。でも「モアナと伝説の海」を観て変わった。モアナの相棒となるマウイを結構情けない感じで描いていましたよね。あれを観て、ディズニーはいま女性だけじゃなく男性をも解放しようとしているんだな、と思いました。「私ったら、ルイを恰好良く書こうとしてた……!」ってハッとした。

――たしかに本作を読むとルイ16世のイメージが一変します。
吉川 ベルナール・ヴァンサンの『ルイ16世』(祥伝社)という資料があって、ルイ16世への見方が変わる良書。実はとても賢くて国民のことを第一に考える民主的な王だった、というようなことが書かれています。錠前ヲタの小デブじゃないよ、と。「マリー・アントワネットに操られていた」というようなイメージもありますけど、晩年にうつ病を患うまでは、妻を政治に関わらせないという強い意志を持っていたそうです。
 農民と一緒に畑仕事をしたりもしていたらしくて。階級社会なので本当はありえないことですよね。王があんなことをしている、とその姿は笑いものだったみたい。でも私はそのエピソードにたまらなくキュンときてしまった(笑)。

――「ベルばら」(「ベルサイユのばら」)だとフェルセンにときめく人が圧倒的に多かったと思いますが、本作でルイ派に転向する人もいそうです。
吉川 完璧な王子様が好きな人にはフェルセンがぴったりだし、弱いところも見せる屈折した男性が好きな人はルイに行ったらいいですね。私は屈折した男性が好きなので……。
 タイプの違う、でもこんなにすてきな2人の男性に愛されたんだもん、アントワネット、そりゃあ人気が出るはずだよ! と思いますよね。私も、アントワネットを書けてよかった。

(よしかわ・とりこ 作家)

あの王妃は、ヨーロッパ最強のギャル!

吉川トリコ中島万紀子

母娘問題、女性蔑視への抵抗、〈推し〉への尽きせぬ愛。
フランス王妃の日記には、「ほんとそれな!」の連続だった――。
作家と早慶の仏語講師が、キュートで破天荒な魅力を語り尽くす!

王妃も母娘問題に悩んでいた


中島 『マリー・アントワネットの日記』を読ませていただいて、今日は徹夜で語り合いたいと思って来たんですけれども。まず伺いたいんですが、なぜマリー・アントワネットをギャル語・ネットスラング満載の文体で書こうと思われたんですか?
吉川 デビューした頃から、ギャル語で小説を書きたいとずっと思っていたんです。でもなかなか企画が通らなくて。普通のギャルがギャル語で喋ってる小説って、たしかにあんまり面白くなさそうですよね。
中島 ケータイ小説みたいな?
吉川 そうそう。ソフィア・コッポラの映画(「マリー・アントワネット」)が2006年公開で、アントワネットを等身大の女の子として描いていました。あれを観て、あっ、マリー・アントワネットをギャル語で書けばいいんだ!って。
中島 ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」、今日観てから来ました。かわいいんですよ。十年前に観てたらぞっこんだったと思うんですけど、この本読んじゃったあとですから、薄っぺらかったですね。
吉川 そんな……(笑)。ソフィア・コッポラがインタビューで「マリー・アントワネットは母親からの抑圧を受けていた」と語っていたことも、アントワネットに興味が湧いたきっかけでした。
中島 そう! 母娘関係というのはトリコさんの作品の大きなテーマのひとつだと思うんですけれども。
吉川 そうなんです。マリア・テレジア(アントワネットの母)って圧が鬼じゃないですか。
中島 圧が鬼(笑)。ヨーロッパ全土に鬼のような圧力をかけてますからね。
吉川 たしかに! そしてヨーロッパ全土にかけるのと同じだけの圧を娘にもかけてる。それでいうと、うちの母もすごく圧が強いんですよ。
中島 お母さーん、今日お見えですかー?
吉川 来てないです(笑)。
中島 でもこれまでの作品をお母さんは読んでる?
吉川 読んでます。小説で母娘問題を書き続けているのは、母に向かって訴えているようなところがあるんですね。分かってほしくて。でも、都合のいい部分だけを「これって私のことだよね♪」とか言って喜んでいて、こちらが伝えたいことについては何も届いていないんです。

名古屋の女性は生きづらい?

中島 偏見だったら申し訳ないんですけど、トリコさんがずっと暮らしている名古屋という土地も「女性はこうあるべき」というような圧が強い場所かなという気もするのですが。
吉川 私は26歳で作家デビューして「ちょっと変わった人」という枠に入ったので、そういうものから逃れられたんですが、妹や周りの友だちを見ていると「結婚しない女は人に非ず」「子を産まぬ女は人に非ず」みたいな圧力を受けてますよね。
中島 ぎゃーーー!!
吉川 名古屋の女の子が自由に生きている話を、と思って書いた作品(『ぶらりぶらこの恋』)を東京の友だちが読んでくれて「この子けっこう縛られてるね」と言われたことがあって、ハッとしました。自分も「名古屋的価値観」が無意識に内面化されてるんだ、と。
中島 ジェンダーに関することは「刷り込み」のように内面化されているものが本当に多い。ジェンダーギャップ指数114位(144ヶ国中)の国で生まれ育つとどうしてもそうなってしまうわけです。
吉川 ほんと、先進国とは思えない順位……。
中島 『マリー・アントワネットの日記』は、フェミニズム的な意味でも正しいんです。「でも、あのマリー・アントワネットでしょ?」って思われるかもしれませんが、彼女が痛快に斬ってくれるんですね。当たり前のようにはびこる女性蔑視や性の不平等を。それは私たちが今も変わらず抱えている問題でもある。読んでいて「あいつに渡したい!」って思う女友だちが何人も思い浮かびましたよ。

十人十色のアントワネット

中島 私はマリー・アントワネット自体にはこれまであまり興味がなかったんです。「ベルばら」(『ベルサイユのばら』)を読んでもあまり共感しなかった。
吉川 「ベルばら」のアントワネットは気高いですよね。だからちょっと遠い存在に感じるのかな。
中島 ソフィア・コッポラのアントワネットもたしかに等身大でかわいいんだけど、話は合わなそう(笑)。でもトリコさんのアントワネットはとても好きなんです。友だちだな、と思うんです、心の底から。どうしてかというと、「立場主義」とは無縁な人だから。「王妃」や「母」という立場でものを考えるのではなく、本質で考える。
吉川 私は90年代に高校生で、コギャル全盛期だったんですね。私はギャルじゃなかったんですけど、ギャル幻想があるんです。ギャルは無敵、ギャルこそが本質を突くっていう。
中島 ああ~。それは分かる。
吉川 この作品は私のギャル幻想の結晶なんでしょうね。
中島 あとは、この新潮社が誇るアントワネットといえば遠藤周作先生の『王妃マリー・アントワネット』(上下巻・新潮文庫)ですよ! どうですか、これは?
吉川 すごく面白いんです。展開も巧みで、翻訳ものの評伝より読みやすいと思います。でもちょっと、ミソジニー(女性嫌悪)があるんですよね……。
中島 「女特有の○○」みたいに書いてあるところがあって、ぐぬぬ……となる。ただ、さすがの遠藤先生、ぐいぐい読ませます。そしてアントワネットといえば、やっぱりフェルセン(スウェーデンの名門貴族の家に生まれた軍人。フランス遊学中にアントワネットと出会い、恋仲になる)。「ベルばら」ではフェルゼンですが、フランス語読みとしてはフェルセンですね。
吉川 私も「ベルばら」でしか知らなかったんですけど、他の文献も読んでいくと「えっ、嘘でしょ!?」というエピソードの連続なんです。少女漫画かよ!? っていうような史実がたくさんあって。
中島 21世紀に入ってマリー・アントワネット研究が急速に進みまして。アントワネットとフェルセンがやりとりした恋文の暗号が解読されて、本当に二人が恋仲だったことが分かったんですよね。私たちの妄想じゃなかった!

アントワネット人気は日本特有?

吉川 アントワネットは本国フランスでも人気なんですか?
中島 うーん、二年間フランスに住んでいたときには、フランス人からマリー・アントワネットの話題が出たことはなかったですね。日本では一昨年に六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで大規模な展覧会が開かれたり、アントワネットの世界観を模したビュフェに予約が殺到したりしましたよね。圧倒的に日本人女性からの人気が高いと思います。
吉川 やっぱり「ベルばら」の影響?
中島 そうですね。フランスに住む友だちは、アントワネット人気が高いのはアメリカと日本だけじゃない? と言ってました。
吉川 それはどうしてなんでしょうか。
中島 あの華美で豪奢なヴェルサイユ宮殿は現代フランス人の趣味じゃなさそう。「シンプル・シック」が好きな人たちですから。派手好き、エキゾチズム(異国情緒)好きのアメリカ人には合うんじゃないかな。あと、歴史上の人物を「好き」「嫌い」「萌え」みたいな価値観で語るのは、とても日本的な文化だと思います。
吉川 なるほど。キャラとして見るスタンスが根付いている国ですもんね。

我ら、ルイ16世推しです!

中島 フェルセンもいいんですが、なんといっても、我らの推し・ルイ16世についてお話しさせて下さい。皆さんの「ルイ16世観」は20世紀で止まっているかもしれませんね。ルイ16世=錠前ヲタの小デブと思っていませんか? 大間違いですよ!
吉川 肖像画では、国王は実際よりも恰幅よく描かれるものだったみたいですね。
中島 最近歳のせいかちょっとやそっとのことじゃ涙が出なくなっていたんですが……甘かった。アントワネットとルイ16世の最後の別れの場面、朝の東急目黒線で号泣ですよ。
吉川 嬉しい~。
中島 ああ、こういう人だったんだ、って。絶対王政ではなく民主制の時代に生まれるべき人でしたよね。新しいタイプのリーダーだった。それはアントワネットも同じなんです。ヴェルサイユ宮殿の窮屈なしきたりに疑問をもって、それを表明した彼女自身が「革命」だった。そんな二人が革命によってギロチンにかけられて死んだというのが本当に皮肉です。
吉川 ルイ16世はあの時代の王として、マッチョな精神を持て、雄々しくあれ、と「男らしさの呪い」に苦しめられた人だと思うんです。今の目で見ると、現代的で進歩的ですごくすてきな人。ベルナール・ヴァンサンの『ルイ16世』(祥伝社)はそんな人物像に迫っていて、おすすめです。
中島 いや、『マリー・アントワネットの日記』こそ爆推しですから! 私が気に入っているのは、結婚式の最中にアントワネットが大笑いしてしまって「トワネットちゃんオワタ\(^o^)/」というところ。また親切に、ネットスラングやギャル語に編集部から注釈がついてるんですよ。ものすごくなめくさった解説が……。「つらみがエグくて俺氏無理ぽよ」に「『ひどく辛くて私は無理だ』の意。」とか(笑)。100年後には資料的価値も出そう。「平成の日本人はこのような言葉を使ってウェブ上でやりとりをしていたのか」と。
吉川 たしかに(笑)。文体ははちゃめちゃなんですけど、史実に忠実に書きました。
中島 そう。歴史小説ファンにも自信をもって推薦します!

2018年7月26日
神楽坂la kaguにて

(よしかわ・とりこ 作家)
(なかじま・まきこ フランス語講師)
波 2018年9月号より

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本書より[1770年1月1日(月)]の日記

 最初の一行をなんて書こうか、せっかくだから超キメキメのパンチラインではじめたかったんだけど、どんなかんじがいいかと考えているうちに3日がっていました。なので日付は元日になってるけど、これを書いているのは1月4日です。
 あ――――っ! またやっちゃった。あたしってすぐこういうこと言いがちなんだよね。
「素直で正直なところ、それはあなたの美点ですが、同時にひどく心配なところでもあります」
 とかなんとか、お母さまからもよくお叱言こごとを食らうけど、正直というのとはまたちょっとちがうんじゃないかって気がする。うーん、なんつーの? こらえ性がないっていうの? 黙っておいたほうがいいんだろうなってわかっちゃいるんだよ? わかっちゃいるけどやめられないっつーか。ここはぶっちゃけたほうが面白いんじゃね? っていったん思ったらもうだめで、「オラオラ、いったれいったれ!」ってあたしの中のヤカラどもが勝手にだんじり始めちゃうもんだから、そしたらもう乗っかるしかないじゃん? 「お道化O D Kがすぎる」とそんなあたしにお母さまはあきれたようなお顔をされますが、ほんそれ。自分でも痛いほどよくわかっておりますのよ。ほんとにトワネットはだめな子です…………なんつってー。口ではしおらしいことを言っておきながら、しんのところではなんにもこれっぽっちだって反省してなかったりするのがあたしというやつなのです――って、ほらまた!
 でも、いいんです。
 なぜならこれは日記だから!
 だれにも見せないあたしのほんとの気持ちを置いておく場所だから!
 3日間も頭を悩ましたあげく最初の日記がこれなんてがっかりさせちゃった? まあ、それもあたしらしいんじゃないかと思ってるんだけど。あなたにも気に入ってもらえたらいいな。だってほら、なんだかんだ言ってみんなそういうの好きじゃん? ありのままのプリンセスってやつ?
 長い文章を書くのは得意じゃないので、続きはまた明日。

本書より[1770年1月4日(木)]の日記

 いえーい!
 三日坊主にならずにすんだyeah~!
 でもこれを書いてるのは1月5日ですyeah~!
 しかし困ったことに、4日目にして書くことが思いつかない……。聞いたところによると何もなかった日には、「何もなし」とわざわざ日記に記述する人もいるとか。うええええ、ぞっとしちゃう。いくら特別なことがなかったとはいえ、その日食べたものとか会った人とか、なんかしらあるでしょうよ。いったいどんなつまらない日々を送っているのかしら? おそろしく感受性が鈍いとか? 「何もなし」なんて味気ないことを書くぐらいなら、毎日そんなにきちきちっとつける必要もないんじゃないかって思っちゃうけどね。
 そうそう「何もなし」で思い出した。最近あたしはある男の子のことをよく考えています。あたしがまだうんと幼かったころ、シェーンブルン宮殿の鏡の間で、チェンバロの演奏をした天才児アマデウス・モーツァルトのことを。
 あまりに見事な演奏に大人たちは驚嘆し、幼いモーツァルトに惜しみない称賛の言葉をささげていました。モーツァルトはそんなことには慣れっこだったんだろうね。当然だとばかりのすまし顔で大人たちの声援にこたえ、まるで自分がこの城のあるじであるかのようにふるまってた。だけど、あんまり調子に乗って広間をくるくる飛びまわっていたから、磨き抜かれた床に足を取られてすっ転んじゃったの!
「あっ!」
 じたばたと手足を振りまわしながら背中から倒れていく彼と目が合った瞬間、あたしは直感した。彼もあたしと同類なんだって。そう、「お道化がすぎる」ってやつ!
 そうとわかったら放っちゃおけません。あたしはいのいちばんに駆け寄って彼の手を引っぱりあげました。痛みと驚きと恥ずかしさで彼が泣き出してしまわないように。
 断言してもいい。あの時、あの場所で、彼の気持ちがわかるのはあたしだけでした。
 さっきまで神童だなんだと彼をたたえていた大人たちがふと見せた安堵あんどの表情、「あ、やっぱり子どもなのね」とたちまち彼を軽視し、己の優位を思い出したかのようにこぼした笑いの中で、モーツァルトは羞恥しゅうちに消え入りそうになってあたしの顔もまともに見られないみたいでした。あたしは震える彼の手を握りしめた。大丈夫、大丈夫だよ。こんなのなんてこともない。どうせ大人たちは5分もすれば忘れてしまう。あたしたちにとっては死にたいぐらい重大な事件でも、大人たちにとっては肩に降りかかったちりをさっと振りはらうようなことでしかない。それこそ「何もなし」と日記に書いて終わってしまうようなこと。
「おや、これはなんともかわいらしい」
 手を握りあって小さく床に丸まっている皇女と神童に気づいただれかがそんな声をあげると、大人たちはいっせいに面白がってあたしたちをはやしました。黙って聞いてたらあたしたちはたがいの尻尾しっぽを追いかけまわす仔犬にたとえられ、木の葉の小舟の上で愛をささやきあう妖精ニンフにされ、最後にはつがいの青い鳥にされてしまいました。
 いったんそうなってしまうともうだめでした。わかるでしょ? たちまちあたしとモーツァルトの中のお祭り野郎が騒ぎ出しちゃったのよ!
「おお、君はなんてやさしい女の子なんだ! 大きくなったらぼくのお嫁さんにしてあげるよ」
 モーツァルトはぴょんと飛び跳ねるように立ち上がると、うやうやしく一礼してあたしの手の甲にキスしました。その時になって、ようやくまともにモーツァルトはあたしの顔を見た。こんなことになっちゃってごめんね、とばかりにウィンクして共犯者のほほえみを浮かべる彼に逆らえるはずもなく、
「ハイ、喜んでー!」
 意識高い系居酒屋のバイトリーダーかよってぐらい威勢のいい声で返事しちゃったわよ。
 こうなったらもうあたしたちの独壇場D D J。子どものころから大人の顔色をうかがい、大人が喜ぶようなパフォーマンスをすることに命を懸けてきたあたしたちは阿吽の呼吸A U Kで見事なステージをこなした。バカな大人たちは大喜びで、「天才音楽家モーツァルトが未来のフランス王太子妃マリー・アントワネットに求婚した」っていまでは語り草になっているみたい。
 それにしても、年端としはもいかない子どもが恋愛のまねごとしてるのを見て楽しむなんてあんまりいい趣味とは言えないよね。あたしたちのあいだには大人が望んでいたような淡く甘酸あまずっぱい恋情のやりとりなど小指の先ほどもなく、同志に対する強い連帯意識と「こやつ、できるな」という尊敬の念しか存在していなかった。異性として彼を意識した、なんてことはいっさいないし、そもそもあたしたちは当時まだ6歳やそこらで恋愛というものがどういうものなのかもよくわかってなかった。なのに、大人の手にかかるとかんたんに男と女に振り分けられてしまう。それしか選択肢がないみたいに。
 いまごろアマデウス・モーツァルトはどこでどうしてるんだろう。ヨーロッパ中を演奏してまわっていると風のうわさに聞いたことがあるけど、いまもあの調子で大人たちを相手にお道化をふりまいているんだろうか。想像するだけでわくわくしてくる。できることならあたしだってそんな旅をしてみたい。
 ――と、まあ、そんなことをつい考えてしまうのは輿入れが近づいているからなのかな? なんべんでも言うけどあれが初恋なんてことじゃないんだよ? あれを恋だと片づけてしまったとたん、なにかとてもつまらないものになってしまう気がする。それこそ「何もなし」で済ましてしまいたくなるような、ね。

本書より[1770年5月29日(火)]の日記

 また今日もクロッテンドルフ将軍夫人の訪れはありませんでした。最初にお会いしたのが今年の2月、その後2回ほど順調にいらしてましたが、ウィーンを離れてからというものとんとご無沙汰ぶさたしています。最初のうちは安定しないっていうし、環境が変わると周期が変わるとも聞いていたのでそんなに心配はしてないんだけど、いらしたらいらしたで面倒くさいし、いらっしゃらなければいらっしゃらないでちょっぴり気が重い。初対面のときからあまりいい印象はなかったけど、ほんとにやっかいなお方です。
 あ、そうか、あなたにはまだお話ししてなかったっけ。クロッテンドルフ将軍夫人というのはあたしとお母さまのあいだで取り決めた月のものを示す暗号です。なんでそんなまわりくどいことを、と思われるだろうけど、そのものずばりを口にするのがなんでかためらわれちゃうんだよね。生々しいかんじがするからなのか、けがらわしいかんじがするからか。とにかくあたしの中にある、あのこと、、、、への嫌悪感けんおかんをお母さまはずばり見破られ、このような暗号をお決めになったのでした。さすがの慧眼けいがんというかなんというか……母マジパネエというよりほかに言葉が見つかりません。
 そちらの将軍夫人だけど、はっきりした理由もないのにこの2ケ月ほどお顔が見れなくてどうしたものかと思ってるところなんです。――は? おめでた? ねーしwww あるわけねーしwww ウケるわ。あんまり笑わせないでよ。……はあ。
 隠し事はしないでなんでも正直に話すこと。これが最初に決めたあなたとあたしとのルールだったよね。このことについて話すとなるとずーんと胃のあたりが重たくなるかんじがするんだけど(だからおめでたじゃないってば! こってりしたフランス料理に疲れてるわけでもないからね!)、共有しておかないとこの先いろいろとこじれそうなのでここらで覚悟を決めてお話することにしましょうか。
 正式な結婚式から半月ちましたが、あたしと王太子殿下はいまだに正式な夫婦ではありません。これに関しては、残念ながらなにかの暗号ってわけじゃなくそのまんまの意味です。つまり、そのう……ああ、もうまどろっこしい! あたしの純潔はいまだに守られてるってことよ!
 ……っていうか待って? 自分で言っておいてなんだけど「純潔を守る」ってなに? 女は殿方のお手付き(ってこの言葉ももう!)になったら穢れるってこと? 夫婦生活に励んで子どもをたくさん産むことはよきこととされているのに?
 将軍夫人との初対面の時にも思ったけど、どうしてこの手のことにまつわる言いまわしは、どれもこれもよくよく改めてみると「ん?」と引っかかるようなものばかりなんだろうね。疑問も抱かず無意識のうちにぬるっと使ってしまってる、そのことになによりぞっとしてしまいます。疑問を持ったら不幸になるだけ、疑問を持ったら不幸になるだけ……としきりに自分に言い聞かせてきたけど、このごろほんとにそうか? と思うことがありすぎる。少なくとも今後二度とあたしは「純潔を守る」なんて言いまわしをすることはないでしょう。こうやって自分の頭で考えて疑問に対処できることはあたしにとって幸福……とまではいわないかもだけど、歓迎したいことではあります。
 そう、なにもあたしは将軍夫人そのものを嫌ってるってわけではないんだよ。将軍夫人をとりまくこのシステム、これがマジないわー、きもいわーって思っちゃうだけで。ねえだってきもくない?
 きもいといえば、うえええ! 超きもいこと思い出してサブイボ立っちゃった。ヴェルサイユのしきたりの中でも究極にきもいしきたりがあって、どこから話したらいいんだろう……そう、あれは結婚式があった16日のことでした。ちょっと――いや、かなり長くなるけど、心して聞いてちょうだいね。
 あの日は朝からよく晴れて、午前9時半にあたしたち一行はヴェルサイユ入りしました。はじめて目にしたヴェルサイユ宮殿の印象を一言であらわすなら、「でかっ!」てとこかな。思わずあたし、爆笑しちゃったもん。あまりに度をはずれたものを前にすると笑うしかなくなるじゃん? そんなかんじ。なにを思ってこんなもの作ったんすか? ルイ14世バカなの?www って。これまで目にしてきたオーストリアのお城とはくらべものにもならないほど壮大で絢爛けんらん豪華で、「どやどやどや」って圧が鬼。世界でいちばん圧が鬼な女帝マリア・テレジアのもとで暮らしていたあたしが言うんだからまちがいない。馬車を降りてからも、口を半開きにして宮殿を見上げているあたしに国王陛下は愉快そうに笑っておられました。
「ようこそヴェルサイユへ!」
 陛下のエスコートで宮殿の中に入っていくと、大理石にかこまれたホールをつめたい風がすり抜け、「さむっ!」ってあたしとっさに身震いしちゃった。5月の強い陽射ひざしにさらされて汗ばむくらいだったのに、宮殿の中はなんだか寒々しくてとても人が住むような場所には思えなかった。甘く感傷的な天使の天井画、目がちかちかするようなシャンデリア、金泥きんでいを塗りたくった壁にはバロック調のレリーフ。「わああああ!」と陛下を喜ばせるためだけにはしゃぎ声をあげてみたけど、ぶっちゃけあたしの趣味ではなかったね。「どや、豪華やろ」「どや、立派やろ」と終始ドヤ顔しているような押しつけがましさが感じられて、金ぴか親父おやじの相手をするキャバ嬢にでもなった気がしてきました。
 そこはまあ、根っからのお道化者のトワネットちゃんのことですから、
「すっごぉ~い、こんなのはじめてぇ~」
 一オクターブ高い声を出してうんとサービスしてあげたら、
「そうか、そうか」
 陛下はまんまとやに下がっておられました。ルイ15世ちょろすぎかよwww
 けれどもやっぱりあたしはロココの娘。いずれ自分の居室アパルトマンぐらいは自分好みに変えていけたらいいなとひそかに目論もくろんでるところです。
 王太子妃の居室に案内されると、すぐに国王陛下の指示で大きな宝石箱が届けられました。身をかがめればあたし一人ぐらいすっぽりおさまってしまいそうなほどの、それはそれは大きな宝石箱です。フランス王太子妃に代々受け継がれてきたというその中には、大粒の真珠のネックレスやブレスレット、ダイヤモンドのイヤリングや宝石をちりばめた扇、「MA」とイニシャルの入った七宝焼の留め具、繊細な彫金細工の小物入れ……等々、目もくらむような装飾品がおさめられていました。衆人環視の中で箱を開けたあたしは、今度はふりでもなんでもなく「きれい……」と感嘆のため息を漏らし、ちょっとだけ涙ぐんでしまいました。
 ほんとうに美しいものを見ると涙が出ちゃうのはなんでなんだろう。胸のときめきがわっとあふれだし、涙に姿を変えてしまうみたい。
 今日からこの宝石がすべてあたしのものになる。これに花嫁道具としてお母さまから持たされたダイヤモンドを加えたらとんでもない数になる。そう思ったら、「フ――――ッ」て叫んでいますぐヴェルサイユの広大な庭を全周しなきゃおさまらないくらいみなぎってきてマジやばいことになりそうでした。リボンやレースやお花ばかりに夢中でこれまで宝石にはそんなに興味がなかったけど、やっぱりあたしにも宝石ぐるいのお母さまの血が流れているみたいです。ぬらりと濡れたように光る真珠。ゆうに50カラットはありそうな怪しい輝きのブルーダイヤモンド。したたるようなルビーの誘惑。海より深いエメラルド。目の前にしたらもうだめ。ときめきが表面張力の限界。あらがいきれないなにか魔的な力があの美しい石々には宿っているのです。
「まだ幼いとはいってもやっぱり女だな。目の色が変わったぞ。王太子よ、この先が思いやられるなあ」
 キャバ嬢に高価なプレゼントをみついだおっさんのような冗談を国王陛下が放ち、宮廷人がそろってお追従ついしょう笑いする中で、王太子殿下だけはくすりとも笑わず、一刻も早く立ち去りたそうにもぞもぞしていました。それであたし、一瞬でその場のすべてがいやになっちゃった。生まれてはじめて自分のお道化を恥じ、キャバ嬢的なふるまいを嫌悪した。
 だけど、どうしてだろう。宝石箱のふたを閉める気にだけはなれなかったのです。「こんなものはいただけません」ときっぱり告げ、山のような宝石の数々を陛下に突っ返すなんて、そんなもったいないことできるわけがなかった。だってそれはまた別の話じゃん? ちがう、ちがうの。あたしはべつに贅沢好きの軽薄な女ってわけじゃありません。王太子殿下にだけは誤解されたくなかったし、言い訳できるものならしたかったけど、なにがどうちがうのかうまく説明できる気がしなくて(それでなくともあたしのフランス語は幼児なみだし)、あたしは唇をとがらせ、手の中にすっぽりおさまったクリスタルの香水瓶のつめたい感触を味わっていました。
「お式の時間が迫っております。おしたくをいたしますので、どうぞこちらへ」
 ノワイユ伯爵夫人に声をかけられ、あたしは国王陛下と王太子殿下にご挨拶あいさつして部屋を辞しました。なんでもいい、「それでは」とか「また後で」とか形式的なものでかまわないから立ち去りぎわになにか言葉をかけてもらいたかったのに、夫はあたしと目を合わせようともしませんでした。
 問題が起こったのはその後すぐ、おしたくの部屋に移動してからのことでした。パリの服飾デザイナーに作らせたという白いブロケードの花嫁衣装にそでを通し、背中を留めてもらうようお願いしたら、「ひっ」と背後でちいさな悲鳴があがるではないですか! なんとドレスが小さすぎて背中が閉まらないんですって! この1ケ月、輿入れの旅の行く先々で毎日のように開かれていた晩餐会ばんさんかいでごちそうを食べすぎて太ったんじゃないか。はっきり言葉にする者はいなかったけど、ざわつく女官たちの顔つきからそう思っていることがありありと伝わってきました。
「待って? 丈も! 丈も足りてないから! つんつるてんだから!」
 太ったのではなく成長期なだけだと必死の言い訳をしたけど、「大変だわどうしましょう」「レースでうまく隠せないかしら」「はやくお針子呼んできてっ」とてんやわんやの大騒ぎでだれも聞いちゃいねえ。かくして「食いしん坊の王太子妃」というイメージがまたたく間にできあがり、ぶざまな花嫁姿で結婚式にのぞむことになってしまったのです。うえーん! まさに「このはずかしめをどうしてくれるのっ!」てかんじでしょ? マジ泣けるっしょ? 全墺が泣いちゃうっしょ?
 宮殿内にある王室礼拝堂にはヨーロッパ中から王侯貴族が集められ、世紀のロイヤルウェディングがはじまるのをいまかいまかと待ち構えていました。このに及んで逃げるわけにもいかないから、歩いてやったわよ、無様な花嫁姿でバージンロードを! 笑いをかみ殺すのに必死だったオーストリアでの結婚式(仮)とはうって変わって、式のあいだずっとあたしは涙をこらえていました。だれもがシミーズのはみ出た背中を見ている気がして、世界中があたしを笑ってる気がして、破裂寸前の水風船みたいな気持ちで結婚の誓いを立てたのです。
 そんなこともあってか、結婚式のあとの晩餐会では水とフルーツにちょっと口をつけただけでほとんど食事をとりませんでした。フランス製のコルセットはやたらきつくてまともに食事する気が起きないっていうのもあったけど、あれで少しは「食いしん坊の王太子妃」のイメージが払拭ふっしょくされたらいいなと思います。むしろあたし小食なほうなんだけどね? 手羽先一本でおなかいっぱいになっちゃうぐらいなんだけどね?? どれだけ言い訳を重ねたところであんな無様な姿をさらしたあとでは説得力もくそもあったもんじゃありません。ほんとにあんな恥ずかしい思いをしたことは後にも先にも一度も…………あった。あったあったあったわ、もっと恥ずかしい思いをしたことがありましたよ、それもその日のうちに!
 そうでした。もともとその話をしようと思ってはじめたんだった。やれやれ。ずいぶん前置きが長くなっちゃったね。
 晩餐会が終わると、あたしたちは寝室に移動することになりました。あたしたちっていうのはもちろんあたしと王太子殿下ってことだけど、でもそれだけじゃない。その場にいた全員、陛下や叔母さま方をはじめとする王族から、名前も知らない宮廷人までぞろぞろ雁首がんくびそろえてあたしたちの後をついてきたのです。
 どういうことだか意味がわからないって? あたしだってだよ! あたしはただ、ありのままそのとき起こったことを話してるだけなんだから!
「この人たちはなに? どうしてあたしたちの後をついてくるのですか?」
 すぐ隣の王太子殿下に小声でたずねると、彼は面倒そうに後ろをふりかえり、片頬だけつりあげて冷ややかに笑いました。
「彼らはヴェルサイユ人。理由なんてほかにない。ヴェルサイユ人だからついてくるんだ」
 いまから思えばあれはとびきり皮肉なジョークだったんでしょう。王太子殿下がはじめてあたしだけに囁いてくれた個人的な言葉。だけど、そのときのあたしはほとんどパニックを起こしていて気のきいた返しのひとつもできませんでした。
 寝室にたどり着くと、王太子殿下は国王陛下から、あたしはシャルトル公爵夫人からナイトガウンを受け取り、大勢の目がある中で着替えさせられました。は? ここで? みんなが見てる中で? 着替えろって? マジありえないんですけど! とまわりを見渡してもだれも助けてくれそうになく、それどころか「王太子妃殿下、さあどうぞお着替えくださいませ」とかされる始末。刺さるほどの注目を浴びながら、あたしはなるべく肌を見せないよう、体操着に着替えるJCかってぐらいに細心の注意を払って着替えを済ませ、ランス大司教によって祝福を授けられた天蓋付きのベッドにさっともぐりこみました。
 いくら郷に入っては郷に従えG  I  G  Sといっても、ものには限度ってものがあります。恥辱に震える体を自分で抱きしめるようにしてあたしはその状況に耐えていました。救いを求めるように隣の王太子殿下に視線を送ってみても、彼は心をどこか遠くに飛ばしているようなうつろな表情であくびをかみ殺し、こちらを見ようともしません。
「良いか、おまえたち。今夜はしっかり励むのだぞ」
 国王陛下の下卑た冗談に観衆からどっと笑い声が起きても、王太子殿下はうっそりと視線をやるだけでろくに返事もせず、あたしはあたしで一刻も早くこの悪夢が終わってくれないかとそればかりを念じながら俯いていました。幼い新郎新婦からヴィヴィッドな反応が得られないことにがっかりしたのか、陛下はさもつまらなそうに目をすがめると、さっさとご退出あそばされました。ぞろぞろとその後に続いて、大勢のヴェルサイユ人たちも寝室を去っていきます。天蓋付きベッドのカーテンが引かれ、あたしたちはようやくあたしたちだけになりました。
 これが、ヴェルサイユでのもっともきもいしきたりです。ね、想像を絶するきもさでしょ? キング・オブ・KIMO儀式っしょ? これを超えるきもいしきたりなんて世界中どこを探しても見つからないんじゃないかって思います。
 後から聞いたところによると、これはフランス宮廷で婚礼の夜に代々おこなわれてきた伝統なんだとか。王太子殿下のご両親も、国王陛下もみんなみんなみんなそうしてきたんだって。だからうちらだけ拒否るわけにはいかないんだってさ! 儀式それ自体のいびつさもさることながら、あの場にいただれもかれもがみんなあたりまえのような顔をしていたのが思い出すだにきもくてたまりません。余興の一種かなにかとでもかんちがいしてるのか、押しあいへしあいしてベッドをのぞき込んでる人までいたんだから!
 そんなバカ騒ぎの最中にあって、王太子殿下だけがあからさまにうんざりした態度を貫きとおしていたのがあたしにとって唯一の救いであり、もどかしさに頭をきむしりたくなるところでもあります。
「わお! ヴェルサイユ人ってとんでもなくクレイジーなのね」
 あのとき、王太子殿下の皮肉なジョークにそう言って肩をすくめていれば、いまごろちょっとでも殿下の態度がソフトになっていたのかもしれない。そう考えると悔やんでも悔やみきれず、もう一度あそこに時間を巻き戻してやり直したい、とまで思うんだけど、そうなるとあの辱めをもう一回受けなくちゃならなくなるわけじゃん? それはちょっとな……と思ってしまうヘタレなあたしをお許しください。
 初対面の相手といきなり今日から夫婦だなんて言われたって戸惑うのはあたりまえ。初日から「オーモナムール、ジュテーム♡」ってなるほうがどうかしてる。頭ではわかってるんです。わかってるんだけど、なにかちょっとしたきっかけさえあればすぐに打ち解けられる気がするのです。「お道化仲間だ!」とすぐに見破ってアマデウス・モーツァルトと「夢の共演」を果たしたあのとき、あたしたちはろくに言葉もかわさぬうちからおたがいを認め合い、魂と魂でかたく結ばれていた。いずれは王太子殿下ともそうなれるんじゃないかと期待せずにはいられません。
 しかし、「ヴェルサイユってなんかビミョーじゃね?」という価値観だけでは共通点として弱すぎるでしょうか。それぐらいではかされないほど王太子殿下を覆う氷の壁はぶ厚そうです。かといって、氷を融かすほどの強火でぐいぐい行ったら行ったでドン引かれそうだし……どうやらあたしの夫は一筋縄ではいかなそうな相手でございます。
 そう、だから初夜がどうだったのか、わざわざここに記さなくたって勘のいいあなたならもうわかってるよね? みなまで言わんでもってかんじだよね? だからもったいつけてるわけじゃないって! ほんとに聞きたい? 後悔するよ? ぶっちゃけそんなに面白い話じゃないよ? それでも?
 ……何もなしリヤン
 は? だからそのまんまの意味だって。何度も言わせないでよ。さっきも話したじゃん。王太子殿下とはまだ正式な夫婦じゃないって。文字通り「何もなし」だったの!
 初夜をむかえた夫婦がベッドでなにをするかぐらい、いくら世間知らずのあたしだって知ってるっつーの。どんだけみっちり花嫁修業を積んできたと思ってんの。そこらの雑魚ざこ王族に嫁ぐならまだしも相手はフランス王太子だよ? うんざりするぐらいしつこく聞かされたわよ。閨房けいぼうでのふるまいが国の未来を左右するぐらい大事なことだって。とーぜん王太子殿下だってそっちのほうの教育はばっちりみっちりお受けになっているはず。我々には国のために、、、、、子どもを作る義務があるのです。それもできるだけたくさん、なにはなくとも男の子を!
 だからといって、「あとは若いお二人で……」とばかりにお膳立ぜんだてされ、「そんじゃいっちょやりますか」ってなると思う? なるとしたらよっぽどデリカシーがないか、さもなければ根っからのヴェルサイユ人か、そのどっちかだと思うんですけど。
 見物人が立ち去り、静まり返った寝室には、それでもさっきまでのざわめきの残滓ざんしがしつこく浮遊していました。王太子殿下がなにも言おうとしないので、すぐ隣にいる殿下のお耳に届くか届かないかぐらいの小さな声で、「あの」とあたしから小さく声をかけると、殿下はなんの反応もせず、ただ規則正しく胸を上下させて呼吸をくりかえしておられました。それが寝息じゃないってことぐらいすぐにわかったけど、それ以上あたしから働きかけるのはためらわれました。すぐ隣から衣擦きぬずれの音や寝返りを打つ気配がするたびに、いつ王太子殿下が手をのばしてくるかとどきどきしながら待っていたけれど、暗闇くらやみの中で気を張っていられたのもせいぜい最初の30分ぐらいで、連日の疲れもあってかいつのまにかすこんと眠っていたみたいです。気づいたときにはもう朝で、王太子殿下はすでにベッドを抜け出た後でした。
「王太子殿下は狩りにお出かけになりました」
 着替えを持ってきた侍女が教えてくれました。
 あっけなく初夜が終わってしまったことにほんとだったらあせったりがっかりしたりすべきなんだろうけれど、窓から射し込む朝の光を浴びながらどういうわけかあたしはうっすら安堵あんどしていました。あたしがあんまり浮かれて鼻歌をうたいながら朝の着替えをしていたので、侍女たちはつつがなく初夜が完遂されたものだと勘違いしたみたいでした。何人か、シーツの上におしるし、、、、がないのを不思議がっていたようだけれど。

本書より[1771年1月1日(火)]の日記

 ボナネー!
 昨年はお世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いします。
 はいっ、というわけではじまりました1771年なんですけども、がんばっていかなあかんなっていうことで、今年の抱負とか発表しちゃう? しちゃう? 実はもうあたしの今年のテーマは決まってるのです。ずばり「栄枯盛衰E K S S」です! テッテレ~♪ 書き初めちゃう? またしても粗相して筆からインクたらしちゃう?
 ――え? なにしれっと日記再開しようとしてんだって? あはは、バレた~? 新年明けたばかりのどさくさではじめたら気づかれないかなーと思ったんだけどだめだったか。ちなみに日付は元日になってるけど、これを書いている今日はすでに14日です⊂二二二( ^ω^)二⊃ブーン
 改めて前回の日付を見てびっくりしちゃった。ずいぶんごぶさたしてたね。この空白の4ヶ月のあいだになにがあったか……ってわざわざ説明するのまじメンディーなんでかんべんしていただけたら幸いです♡ 年も明けたことだしここは心機一転、仕切りなおしってことで……ってそんなわけにいかないですよねー、わかってますよ言ってみただけですBoooooooooo!
 もうなにもかもがいやだ、すべて放り出してしまいたい、なんてあなたは思ったことがありますか?
 あたしはある。めっちゃある。年がら年中そんなかんじだし、なんならいまもその気配濃厚。できることならこの日記も放り出してしまいたい。つっても、ヴェルサイユはあいかわらず退屈でなんにもすることがなく、季節はすっかり冬で運河は凍り、木々は枯れ、庭を歩く人影は皆無。室内にいてもすきま風が吹いて凍える寒さなので、頭から毛皮をかぶってこの日記を書いている状態です。こんなことならいっそなんにもしないのだと割り切ってごろごろベッドで一日を過ごしてもよさそうなんだけど、なんでかそれはそれでいや。怠惰でめんどくさがりなくせに、とにかくあたしはじっとしていることができないのです。ほんとは日記なんて書きたくないけど、なんにもせずにぼうっとしているよりはなんぼかましだと思ってしまうのです。
 もうなにもかもがいやだ! とどんなに思ったところで、実際すべて放り出すことなんてなかなか難しいよね。あなただってそうじゃない? 人生やめたいぐらいしんどいことがあったとしてもなにかしらあるでしょう? まだ栓も開けていないワインだとか、来週届く予定の新しいドレスのできばえだとか、読みかけの本の続きだとか、かけらほどには残っているだれかへの愛情や執着だとか。ゼロか百かを迫られると逃げ出したくなるけど、ゼロか一か百かを迫られたら熟考の末に一を選ぶ。あたしはそういう人間です。
 ――で、なんの話だっけ? あ、そうか、4ヶ月も日記を放り出してた言い訳をしようとしてたんだ。あのときはかなり唐突でびっくりさせてしまったかもしれないけど、なにもいきなりああ、、なったわけではなくちゃんと段階を経てああ、、なったんです。それだけは言っておきたい。
 いちばん最初にあたしが放棄したのは日記ではなくコルセットでした。再三にわたってお伝えしてきたとおり、フランス製のコルセットはほんとに窮屈で、夏の暑さとヴェルサイユの瘴気しょうきもあいまって夏バテでせてしまい、それでなくとも貧相な胸が見るも無残にえぐれ、あせもで肌もボロボロに! こんなんじゃ恋できない(>_<)ベッドで王太子殿下をがっかりさせちゃう(>_<)と焦ったあたしは速攻でコルセットを脱ぎ去りました。いまから思うとほんとバカみたいですが、あのときはまだコンピエーニュでワンチャンあるかも♡とけなげに信じていたんです。
 7月の半ばに殿下が風邪をお召しになったことは話したよね? そのとき国王陛下はこの機を逃すなとばかりに医師にある診察を依頼しました。えっとその、なんていうのか、殿下の男性機能に障害があったりしないか的な? 皮かむ……じゃなかった、えっと、ちょっとした手術で済むことならば処置をお願いしたい的な? えーやだー、トワネットよくわかんなーい。
 というのも、どこから漏れたんだか、あたしたちの結婚が成就じょうじゅしていないことが宮廷で噂になりつつあったのです。「あの2人はまだ若い。男女の仲はなせばなるもんで、外野があれこれ言うことでもあるまい」と鷹揚おうようにかまえていた陛下も、「不能」と陰で王太子殿下を笑う声をいいかげん無視できなくなっていたのでしょう。真相を確かめるべく医師をさしむけたところ、判定は白。「王太子殿下のお体は手術の必要もなければ、いっさいの欠陥もございません」。これには陛下もあたしも、ついでにいえばメルシーもオーストリアのお母さまもほっと胸をなでおろしました。
 けど、そうなってくると今度はこっちにお鉢がまわってくるんです! 「男をその気にさせられない幼稚で未熟な王太子妃」ってあたしが笑われるようになるのにタイムラグほとんどなかったからね! 自国の王太子を揶揄やゆするのにはさすがに遠慮が見られたけれど、今度の標的はかつての敵国オーストリアからやってきた小娘なもんだからみんな身を乗り出さんばかりの勢いで噂話に精を出してる。いい年した大人がよってたかってそんなに暇なの? ってイヤミのひとつも言ってやりたくなるけど、そうなんでした、みんな暇なんでした。ヴェルサイユでは噂話ぐらいしかすることがないんでした。
「洗濯板」「棒っきれ」「やる気そぎ子」みんながみんな好き勝手言ってくれてるところに、女の色香をだだ漏れにさせたデュ・バリー夫人がちらちら目の端に映ったとしたらどんな気持ちがすると思う? ダイヤモンドの首飾りの下であふれんばかりの乳房が揺れ、彼女を見るといやでも夜を想起せずにいられません。コンピエーニュの森ではじめてお会いしたとき、国王陛下があたしの胸をさっと視線でめた、あれは気のせいではなかったのです。あの一瞬で陛下は、新しくフランスに嫁いできた王太子妃の女としての価値を測ったのです。胸の大きさが女の価値だなんてあなたは笑うかもしれませんが、ヴェルサイユでは陛下の物差しこそがすべて。殿方がみな、どこまでも沈んでしまいそうなほどやわらかく豊満な女の肉に埋もれる快楽を求めているのだとしたら……ぺたんこの胸を見下ろし、あたしはあたしに失望しました。
「おかわいそうに。こんなにも痩せてしまって。いっそコルセットをおやめになってしまえばよろしいんじゃなくて?」
 そう提案してくださったのはアデライードさまでした。
「だけどそんなことをしたら、ノワイユ伯爵夫人が黙っていませんわ」
「心配には及びませんよ。実はわたくしたちも普段はつけておりませんの。このようにほら、ストールで隠してしまえば外から見てもわかりませんし」
 そう言ってアデライードさまは、たっぷりとしたタフタのストールで腰をおおわれました。同様にソフィーさまもヴィクトワールさまもくすくす笑いながら、ストールで腰まわりを隠します。叔母さま方はご年齢相応のふくよかな体形をされているので、それまでコルセットをしているかいないかなど気にしたこともなかったのだけど、言われてみればたしかに、そう目立つようなものでもないのかもしれません。
「叔母さま方に相談して正解でしたわ。オーストリアでは普段コルセットをつけずに過ごしていましたが、フランスもやはりそうだったのですね! あんなもの、ずっとつけていろというほうが無茶な話ですもの。そうと知ったらいますぐにでも脱いでしまいたいので、お部屋に下がらせていただきます」
 言うが早いかあたしは叔母さま方の居室アパルトマンを辞し、早すり足で自室に戻ると、その場にいた召使いに手伝わせてコルセットを脱ぎ捨てました。その解放感といったら! 残業を終え、満員電車で帰ってきた一人暮らしのOLが玄関入ってすぐにブラのホックを外した瞬間の何十倍にも匹敵するでしょう。
「とんでもございません! このグラン・コールは身分の高い女性にのみ許されたステイタスシンボルであり、絶対君主制をあらわしているのです。グラン・コールの着用を拒否するということは王室に泥を塗るのと同じこと。アントワネットさま、どうかお考えをお改めくださいまし」
 予想していたとおり、マダム・エチケットがすぐさま飛んできて、ゆったりしたドレスを着てリラックスしているあたしの耳元でわんわんえまくりました。
「うるさいなあ。儀式のある時とか人前に出る時はちゃんと着るってば」
「そういうわけにはまいりませんっ」
「えっ、なんで?」
「それがしきたりだからですっ」
「うわ、出たよ……」
「しきたりをお化けみたいにおっしゃらないでください!」
「とにかくあたしはもうあんな窮屈な思いをするのはぜったいにぜったいにぜったいにいやだから!」
 いつになく折れる様子を見せないあたしにごうを煮やしたノワイユ伯爵夫人は、援軍にメルシーを呼びました。
「いったいどうされたのです、マリー・アントワネットさま」
 メルシーは頭ごなしに怒鳴りつけることはせず、コルセットのなにがそんなにいやなのかと落ち着いたトーンの声でたずねました。夏バテでまいってること、叔母さま方の勧めもあったことなど、ごちゃごちゃとこまかな理由を述べてみましたが、それぐらいでメルシーが引いてくれるはずもありません。
「こう言ってはなんですが、内親王さま方はすでにご高齢です。スタイルが崩れたところでいまさらなんの差しさわりもございません。しかし、アントワネットさまはまだお若い。いまコルセットをやめればてきめんにスタイルは崩れ、取り返しのつかぬことになりますぞ。コルセットを脱いで食欲がお戻りになったことはさいわいですが、ちょっと気を許したらそのままぶくぶくぶくぶく牛のように太ってしまいかねません」
 だからそのスタイルが問題なんでしょうが! どんなに腰が細くたって、その上にふさふさ揺れる肝心のものがなくちゃ意味なくない?! だなんて殿方のメルシーに言えるわけもなかったし、貧乳だと自分で認めるのもいやで、結果あたしは依怙地いこじになりました。
「うるさいうるさいうるさいうるさ―――――い! とにかくいやだって言ったらいやなの!!!」
 まさかそれが大騒ぎを引き起こすことになるなんて、そのときは思ってもいなかったのです。あたしはただ巨乳になりたかっただけなのに……。
 王太子妃コルセット拒絶のニュースはあっというまに広がり、いちばんホットな醜聞ゴシップとして宮廷を騒がせることになりました。メルシーが心配していたとおり、コルセットをやめ、空気の悪いヴェルサイユから夏の離宮に移ったとたん、食欲が異様にわいてきてお菓子をもりもり食べていたら、肝心のところはさっぱりなのに腰回りにたぷたぷと肉がつき、廊下を歩いていると「デブ」とか「ブタ」とか「胃袋が宇宙」とか「ウェディングドレス引き裂き女」とかどこからともなく罵声ばせいが飛んでくるようになりました。
 コルセットを身につけないことがどうしてこんなに問題になるのかあたしにはまるきり理解できませんが(「炎上」ってそういうものですよね……)、これがヴェルサイユなのです。彼らにとって着飾ることは殉教と同じ。青いジャケットや赤いヒールの靴、燃えるような頬紅、体を締めつける礼装用のコルセット等々、こまかく定められたステイタスシンボルをみなが競って誇示するマウンティングの合戦場で、コルセットを脱ぐことは甲冑かっちゅうを脱いだも同じこと。血祭りにあげられたとしても文句は言えません。
 さを晴らそうにも、ロバに乗るかデュ・バリー夫人の悪口を言うぐらいしかやることがなく、王太子殿下はあいかわらず淡白でほとんどかまってくれないし、それどころかコンピエーニュに来てからはあからさまにあたしを避けているように感じられます。
「いったいなにがいけなかったんでしょう。殿下はコンピエーニュに移ったら、と約束してくださったのに」
 耐えきれず叔母さま方に泣きつくと、叔母さま方はそれはそれはやさしくあたしの背中をで、とっておきのボンボンとショコラをすすめてくださいました。おいしいフルーツとちょっとしたフィンガーフードまで出てきます。甘いものとしょっぱいものとさっぱりしたフルーツという魅惑のトライアングルで、あたしの食欲は天にのぼるりゅうのごとくぐんぐん勢いを増していきます。
「王太子殿下ったらいけませんね、こんなかわいらしい妃殿下を放っておかれるなんて」
「機会があればわたくしたちからも注意しておきましょう」
「わたくしたちにまかせてくだされば、悪いようにはしませんからね」
 早速その日の晩、叔母さま方は王太子殿下を呼び止めてお話をしてくださることになりました。妻がいたのでは話しづらいこともあるかもしれないとあたしは早々にその場を辞しました。立ち去るとき、なんとも心細げな表情であたしをふりかえった王太子殿下のお姿がいまも胸のどこかに引っかかっています。はじめてお会いしたときよりさらに身長が伸び、肩幅も広くなって、どんどん大人に近づいているのに、あのときの殿下はさながらネバーランドに置いてきぼりにされたピーター・パンのようでした。しかし、あたしはとにかく夜を完遂し、あたしを笑いものにしてくれちゃってる宮廷人たちを見返してやることで頭がいっぱいで、殿下の心の機微に気づくことができなかったのです。
 さすがに叔母さま方の言うことであれば殿下も素直に聞き入れてくれるのでは、とハーブから抽出した香水を胸元にふりかけてベッドでお待ちしておりましたが、その晩も殿下のお通りはありませんでした。朝目覚めてから、ひんやりと乱れなく整ったベッドの残り半分にやけくそで飛び込んでバタ足するのがそのころのあたしの日課でした。
「あー、おなかがいた!」
 おまけに起きた瞬間からやたら空腹で、ラヴェンダーで香りづけしたショコラをがぶ飲みし、山盛りのクロワッサンをぺろりと平らげ、ポタージュとゆで卵と冷肉をおかわりし、青りんごを丸かじりしてもまだまだ足りません。
「なんとおいたわしい、このままだと入るドレスがなくなってしまわれますよ。王太子妃殿下、どうか後生ですからコルセットをおつけになってくださいませ。妃殿下は華奢きゃしゃでいらっしゃいますから、この先に控えたおつとめ、、、、のためにも多少お肉がつくのはよろしいかと思いますが、コルセットをつけておられないせいでお肉がつくべきところではなくよそへ流れてしまわれておいでです。お肉を逃さぬためにもコルセットは必要なのですよ」
 ノワイユ伯爵はくしゃく夫人は来る日も来る日も朝から元気いっぱいに嘆いています。砂糖まみれのアーモンドパイを頬張りながらあたしはそれを聞き流します。どれだけ体形が崩れると脅されたって、この解放感をおぼえてしまったあとではいまさらあの監獄に戻る気にはなれません。ユニクロがブラトップ革命を起こし、もはやセレブのあいだではブラレットを通り越してノーブラがトレンドになってるんだから推して知るべしってものです。これぞ真の女性解放! ありのままのプリンセスってやつじゃありませんこと?
「昨晩も殿下は寝室にいらっしゃいませんでした。それどころか、先日叔母さま方にご忠告していただいてからよけいにあたしを避けるようになった気がします。今朝だって早起きして狩りに出かける殿下を見送ったのに、目も合わせてくださらないんですよ」
 おやつにしょっぱいタルトと甘いタルトを交互にむさぼりながら、来る日も来る日もあたしは叔母さま方に愚痴ります。叔母さま方はウィンドチャイムのように揺れながらけたけたと笑い声をあげ、
「照れているだけですよ。あの子は昔からシャイであまのじゃくなところがあるから、宮廷でこれだけ噂になってしまって気が引けているのでしょう」
「しようがないわねえ、男の子ったら。こういう時は女のほうがどっしり構えていないと」
「今度の誕生日であの子も16歳になります。16歳といえば立派な大人。もしかしたらその日につとめを果たそうと考えているのではないかしら」
 そうか、殿下は照れてるだけなのか。なんだそれ、かわいいかよ。みなぎるわ~♡♡♡
 叔母さま方の慰めに、あたしはころっと希望を取り戻しました。叔母さま方がやたらと殿下を「あの子」と呼ぶのが気にはなりましたが、そんな些細ささいなことに引っかかっている場合じゃありません。殿下のお誕生日は8月23日。それまでに少しでも胸のボリュームを増やさなくてはと、すでにおなかはいっぱいでしたが、おやつの締めに洋ナシのシャルロットをむしゃむしゃいただきました。
 そうして待ちに待った8月23日……お察しのとおり、待てど暮らせど殿下はお越しになりませんでした。1ヶ月近く食って食って食いまくってきたせいでぱつぱつにはじけそうなボディをベッドに横たえ、あたしは静かに目を閉じました。今夜もデュ・バリー夫人の居室アパルトマンからは盛りのついたメス猫の嬌声きょうせいが聞こえてきます。この世の春を思うぞんぶん享受きょうじゅしようとするその声が、だんだんあたしを笑っているように聞こえてくるのは被害妄想H G M Sでしょうか。ハプスブルク家の皇女に生まれ、フランス王太子妃という地位を得たところで、あんな下賤げせんの生まれの女にもかなわない、これがマリー・アントワネット14歳のリアルでした。
 ――やってらんねえ。
 そのとき、ぷつんとあたしの中でなにかが切れました。どれだけがまんして王太子妃らしくふるまったところで、なんにもいいことなんてない。期待したって裏切られるだけなら最初から期待などしなければいい。そうすれば不要に傷つくこともありません。
 なにもかもがすっかりいやになり、そのうちあたしはコルセットや歯みがきだけでなく、もったいぶった儀礼の数々や王太子妃の義務のひとつである夜会の開催も拒否し、公式のカード遊びもボイコットし、フランス語の授業も読書の時間もスピネットのレッスンも、これまでいやいや受け入れていたことすべてに「ノン!」を言うようになりました。
「アントワネットさま、なりませぬぞ!」
 すぐにメルシーが目の色を変えて飛んできましたが、いまさらそれぐらいでグレなずんだあたしの心は更生しません。
「カトリックの教義ではちぎりのない結婚はたやすく無効にできるのです。いまだアントワネットさまは王太子殿下と夫婦の契りを結んでおらず、王太子妃という地位も名ばかりのもの。フランス宮廷におけるアントワネットさまのお立場は非常にもろいものだとおわかりですか? せめてしきたりに背かず、王太子妃らしいふるまいを心がけ、付け入るすきを与えないようにしなければ、このままでは婚姻を破棄されフランスを追放されかねませんぞ」
「フンッ! 離縁になったらなったでいっそせいせいするわ」
「いくらなんでもお言葉がすぎますぞ! ここでは壁という壁がだれかの耳だということを肝にお銘じください! 離縁などとんでもない。マリア・テレジアさまが苦労してやっと取り結んだフランスとの和平同盟を反故ほごにするおつもりですか!」
 お手上げのメルシーはあおいの御紋ならぬわしの御紋を持ち出そうとマリア・テレジアに嘆願書を送り、「エチケット命」のはちまきを頭に巻いたノワイユ伯爵夫人はなにがなんでもあたしにコルセットを身につけさせようと幾度も国王陛下に願い入れ、百合ゆりの御紋を持ち出します。陛下はご自身にも後ろめたいところがあり、わずらわしい女どものいさかいにかかわるのがめんどうでもあるのか、朝の謁見えっけん時に軽くコルセットのことを持ち出したり、「最近なんだか妙に肉づきがよくなったようだな……」とつぶやきながらあたしの胸元に視線を寄越すぐらいですが(きしょ)、オーストリアのお母さまからは例のごとく超長文のおしかりの手紙がやってきました(コルセットだけでなく歯みがきをさぼっていることまでなぜかバレてた! お母さまったらやっぱり千里眼なのかしら……)。
 そもそもは王太子殿下といつまでも夫婦の契りを結べないでいることを気に病みコルセットを放棄したのに、そのせいで離縁されるかもしれないだなんておかしな話です。「夫婦の契りを結べ」というのと同じぐらいの熱量で、「コルセットを身につけろ」と言われる。意味わかんない。あたしはフランス王太子妃なのに、なんでこんなになにもかもが思い通りにならないの?
「宮廷中が妃殿下にふりまわされておかしいったら」
「お父さまですら妃殿下のご機嫌を損なうのを恐れるあまり強い態度には出られないみたいですわ」
「いよいよデュ・バリー夫人と拮抗きっこうしてきたんじゃありませんこと?」
 あたしの味方は叔母さま方だけです。もっと自由に好き放題やってごらんなさいな、やりたくないことはいっさいやらなくてかまいません、フォローはわたくしたちにまかせてちょうだい、あなたのような新しい風が吹くことをヴェルサイユはずっと待ちわびていたのですよ――甘い言葉と甘いお菓子だけがあたしを満たし、無尽蔵な食欲はあとからあとからいてくる。大量に砂糖を摂取したせいか、それとも肥満からくる倦怠感けんたいかんか、薄いベールをかけたように頭がぼんやりして怠惰に拍車をかける……。
 そのころ宮廷の一部では、「以前にくらべて妃殿下の食欲が増してきているようだ」「そういえばどことなくふくよかになられたような……」「ついにご懐妊か?」「これはめでたい!」などとささやかかれるようになっていたとかいないとか。
 なにその羞恥しゅうちプレイってかんじじゃない? っていうかあれだけあたしたちの結婚が成就してないって噂になってるのにそれ知らないとかどんな情弱だよ! だからといって「ただ太っただけだよ\(^o^)/」なんて訂正してまわるのも恥の上塗りですし、いたたまれなさからあたしは体調不良を言い訳にして宮廷儀式を拒否し、あまり出歩かなくなりました。
 王太子殿下があたしの居室を訪れたのは、ひきこもり生活をはじめて半月ほどったころでした。身づくろいもせずぶくぶく太り、ろくに洗顔もしないので肌荒れもひどくなる一方で、だれにも会いたくなくて一日中ネグリジェで寝室にこもってゴロゴロしているだけのあたしを見かねてのことだったのでしょうか。ひきこもりの部屋特有のこもったにおいとすさんだ様子に、殿下はぎょっとされているご様子でした。
「この頃ずっと話せていなかったから顔を見にきたんだが、これはいったい……」
 そう言って殿下は、ベッドのまわりにうずたかく積み上げられたお菓子やフルーツ、王室御用達ごようたしの仕立て屋に届けさせたデザイン帳やテキスタイル見本帳、パリから届けさせたゴシップ紙と話題のロマンス小説――あたし専用のコックピットを見まわしてつばを飲み込みました。
「秘密基地みたいでしょ?」足のつめをみがかせていた召使いを下がらせ、あたしは殿下をベッドに招きました。「殿下もやってみたらよろしいですわ。狩猟の道具や歴史の本や錠前なんかをベッドのまわりに置いて、日がな一日たわむれに過ごすのです。背徳的なかんじがしてとても楽しいですよ。あ、でも殿下にとってはすでにこのヴェルサイユが巨大な秘密基地みたいなものでしたわね。うらやましいこと」
 あんなにも待ちわびた殿下のお通りだというのになんてひどい態度でしょう! ほんとうにこのときは自暴自棄になっていてなにもかもがどうでもよかったのです。
 多少の戸惑いはあるようでしたが、殿下はとくに気を悪くしたふうでもなく、ふらふらと落ち着かない様子で長身を揺らしながら部屋のあちこちに視線を走らせていました。例のうわさをお耳に入れたのでしょうか、それとも「コンピエーニュに行ったら」という約束を反故にしたことを謝罪しにでもきたのでしょうか。わざわざこちらから気をまわしてやる気にもなれず、罰をあたえるつもりで放置していたら、
「君のことが、嫌いなわけではないんだ」
 しぼりだすような声で、やっとそれだけ殿下は仰いました。
 思わずあたしは体を起こし、
「え、それって、つまり……?」
 ちょ、それkwskと身を乗り出したいところをぐっとこらえ、最小限の言葉で殿下の真意を探ろうとしました。期待してはいけないときつく自分に言い聞かせたことも忘れ、すでにあたしの目はこれまで以上の期待にうるんでいました。
「君を見ていると兄上を思い出す。私にはそれが、耐えがたいのだ」
「お兄さまというと、幼いころにおくなりになったっていう……」
 殿下の兄上であるブルゴーニュ公の話はあちこちで聞きかじってはいました。10歳の若さでこの世を去った悲劇の王子。美しく才気にあふれ、陽気で奔放、ユーモアのセンスも抜群、傲慢ごうまんで権力に自覚的すぎるきらいがあるがその分人をきつける、王になるために生まれてきたような子どもだったとみな口をそろえて言います。それだけで彼が、どれだけヴェルサイユで愛されていたか伝わってくるようです。その陰で、ひっそりと目立たぬように歴史書をひもといていた幼きベリー公にはだれも目をくれません。
「ほんとうに太陽みたいな子でしたよ。あんな兄がいたらやたらと比較されて卑屈になってしまうのも無理がないかもしれませんわね」
 叔母さま方は10年近く昔のことをつい昨日のことのようにお話しされます。
「それでも2人は仲の良い兄弟でした。兄は弟のことをいつも気にかけ、弟は心から兄を慕っておりました。太陽と月のような兄弟でしたわ」
「わたくしは、あの日、あの子が言った言葉がいまも忘れられないのです」
 ブルゴーニュ公が亡くなったとき、つきっきりで看病していた王太子殿下は濁りのない水色の目でこう仰ったそうです。
「兄上のかわりに私が死んだほうがよかったのではないでしょうか」
 わずか7歳の子どもにそんなことを言わせてしまうフランス王室の体質にぞっとしましたが、そのときの傷をいまも殿下が引きずっているとは考えてもみませんでした。だって殿下はいつも飄々ひょうひょうとして、浮世のごたごたになど興味もなければ影響もされないように見えていたから。一足飛びにフランス宮廷中のだれより大人になって、その境地にいたってしまったのだとばかり思っていたのに、まさかあの強固な殻の内側に深い喪失と孤独を抱えた少年がうずくまっていたなんて!
 胸の真ん中がきゅっとすぼまったようになり、殿下を抱きしめたくてしかたなくなったけれど、最後にお風呂ふろに入ったのがいつだったか思い出せなくてあたしは伸ばしかけた手を引っ込めました。
「そんなにもあたし、お兄さまに似ているのですか?」
「似てる。それも、すごく」
「だけど、そんなこと、だれにも言われたことありませんわ」
「姿形のことじゃない。もっと本質のところが……魂に色があるとしたら、おそらく同じ色をしてると思う」
「それって喜んでいいことなのかしら?」
「もちろん――いや、どうかな……」
「そのせいで殿下があたしを避けるのなら、あんまりうれしくはないですね」
「恥ずかしいことだが、いまだに心の準備ができていないんだよ。王太子という立場にも、君の夫になることにも」
 たぶんこれこそが殿下の本心なのでしょう。王位継承者の2番目の王子として生まれ、王位を継ぐことなど期待されず、自らも期待せずにいたところへ急に降ってきた「王太子」という立場を持てあましている。そう考えれば、これまでの殿下の言動にも納得がいきます。
「コンピエーニュで叔母たちにきつけられたときには正直うんざりしてしまった。悪気があって言ってるわけじゃないんだろうが……あの初夜の晩を君はおぼえてる? なんだかあれと同じ状況がずっと続いている気がするんだ。それだけで意気消沈してしまう私がどこかおかしいんだろうか?」
「いえ、お気持ちお察しいたしますわ」
 と殊勝に答えながら、やはりあのとき、殿下を置きざりにするべきではなかったとあたしは後悔をおぼえていました。
 いったい叔母さま方はどんな口調で殿下を詰めたのでしょう。普段から殿下に対してはずけずけと率直に物を言う「親戚しんせきのおばちゃん」スタイルの叔母さま方のことです。「あんたぁしっかりせんといかんがね!」なんて調子でがさつに殿下の背中をたたいたのでなければよいのですが……殿下のご気性をよくご存知ならあんまりヘタな真似まねはできないと思うんですけど……それもこんなデリケートな問題で。
「ここではみなが好き勝手なことを言う。惑わされまいとガードを固めることばかりに注力してきたから解き方がよくわからない。君が近くにいると、心がざわつくんだ。自分が自分でなくなるみたいで落ち着かない。少しずつ慣れるよう努力してみるから、あんまりかさないでくれないか」
 これはあたしのうぬぼれでしょうか。殿下のその言葉は、あたしだけが殿下の心に触れられるのだと言っているように聞こえました。自己抑制こそ美徳ととらえているふしのある殿下が、心が騒いで落ち着かないからあたしを避けるんだとしたら……ここは喜んで引き下がるしかないではないですか。
「三歩進んで二歩下がるってかんじですわね」
 肩をすくめてあたしが笑うと、
「それでも進んではいる」
 と殿下も顔をほころばせました。
 はじめて殿下とまともに言葉をかわせた気がして、あたしはしあわせでした。ほんとうに、すこしでも進んでいる、という実感がようやく持てたのです。非常にゆったりとしたれるような速度ですが、よくよく考えてみれば結婚が決まってからというもの人生が2倍速でまわりはじめ、その異常なスピードに急かされていただけなのかもしれません。若さと衝動にまかせてさっさと初体験をすませちゃうなんてどこのヤンキーカップルだよってかんじだし、なんにも焦る必要などないのです。めまぐるしく走り続ける日々のスピードや外野の声に惑わされることなく、あたしは、自分と殿下の心の動きだけに集中して、このタペストリーを織ってゆきたいと思ったのでしたまる
 殿下が部屋を出ていくと、すぐにあたしはノワイユ伯爵夫人を呼んで、コルセットを持ってくるように告げました。照れくささも手伝って、なんでもないことのようにそっけなくお願いしたら、
「いま、なんと?」
 突然のことにノワイユ伯爵夫人の声は震えていました。
「いまなんと仰いましたか? 私の聞きまちがいでなければ、コルセットと聞こえたのですが……」
 うわ、うぜ……と内心うんざりしつつも、「そう! コルセットをつけるって言ってるの! なんか文句ある?」とぶっきらぼうに答えると、ノワイユ伯爵夫人は「文句などあろうはずもございません!」とばかりにドレスのすそをひるがえし、衣装係のもとへと飛んでいきました。
 それ以降、き物が落ちたかのようにおとなしくコルセットを身につけ、定められたしきたりをちゃんちゃんとこなすようになった王太子妃にみな大喜びでした。ひとまわりもふたまわりもサイズが大きくなったわりに、お胸のほうは微増しただけにとどまりましたが、あの化け物じみた野蛮な食欲も倦怠感も嘘みたいにどこかへ消え、コックピットを抜け出して散歩に出かけたり、乗馬を楽しんだりしているうちにほどよく丸みを帯びた女らしい体つきになってきた気がします(第2次性徴D 2 S\(^o^)/)。マダム・エチケットは歓喜にむせび、国王陛下は大勢の前で何度もあたしの手に接吻せっぷんされました。メルシーなんかは鏡の間をスキップして駆け出していきそうなほどの浮かれっぷりで、早速オーストリアのお母さまに報告の手紙を書いていたようです。「あら、そう」と叔母さま方だけはそっけない反応でしたが、あたしをしざまにののしっていたやからたちの声もいったんは落ち着き、ヴェルサイユに一時の平和が訪れました。まあ、その平和も長くは続かなかったんだけどね……。

本書より[1774年3月16日(水)]の日記

 先月の日記を読み返してびっくりしてる。控えめに言ってどうかしちゃってるよね! でもどうしようもないんです。自分でも制御がきかなくて困ってるんだから。朝起きて夜眠るまで頭からあの人のことが離れなくて、いつも泣きそうで、苦しくて苦しくてたまらない。あたし、おかしい。おかしくなっちゃったみたいなんです。
 Aとはじめて会ったのは宮廷で開かれた舞踏会でした。スウェーデン大使に連れられてやってきた目が覚めるように美しい長身の青年貴族にご婦人方が大騒ぎしているのを、はるか遠くで行われている祭りのように眺めていたのをよく覚えています。
 あたしと同い年の18歳で、スウェーデン一の財力を誇る有力貴族の家に生まれた彼は、遊学のため3年かけてヨーロッパを旅してまわっているということでした。同じ年頃の王太子殿下やその弟たちと比べて、どこか大人びていて世慣れたかんじがするのはそのためかもしれません。経験値がケタ違いってかんじ。何か国語も自在に操り知識も豊富、物腰はきわめて優雅で穏やか、軍隊で鍛えたという体はたくましく引き締まり、まばゆいばかりの男らしさも兼ね備えている。かといってもったいぶったところもなければ浮ついたところもない、ごくごく控えめでほほえみを絶やさず、それゆえどこか酷薄さを感じさせる……。
 それなんてスパダリ? いくらなんでもスペック盛りすぎだろ! というのが最初の印象でした。あまりに完璧すぎる。おとぎ話から抜け出してきた王子様みたいな彼を前に、正直あたしは鼻白んでいました。
 彼は自分の魅力をじゅうぶん理解した上で、ご婦人方の熱狂をうまくあしらっているように見えました。それがいやみにならないのは生まれ持っての気品のなせるわざでしょう。お道化というほどのものでもない、さしずめ「男のぶりっこ」といったところでしょうか。どこまでも上等で洗練されている。この男にはきっとコンプレックスなんて欠片かけらもないんだろう。彼の前に世界はどこまでもひらけている。近い将来、非の打ちどころのない名家の令嬢をめとり、幸福な家庭を築くであろうことまで容易に想像できて、それがあたしには面白くなかったんだと思います。
 それからも何度か宮廷で顔を合わせることがありましたが、形だけの挨拶あいさつですまして必要以上にかかわるまいとしていました。いまから思えば最初からなんかしらの予感があったのでしょう。
 はじめてまともにしゃべったのは1月の終わりにオペラ座の仮面舞踏会に忍び込んだときのこと。フロアに踏み入ってすぐにあたしはAを見つけました。なぜって信じられないことに彼は仮面をしていなかったのです! それでなくとも目を引くのに、仮面舞踏会に仮面をしてこないってあんたバカ?! どこまで無粋なの?! これだから田舎貴族はやなんだよ!! 無性にイラッときて、いっちょからかってやれと仮面をつけて近づいていったのが運のつきでした。
「見かけないお顔ですけど、オペラ座ははじめて? どうして仮面をしていらっしゃらないの?」
 柱のかげに隠れるようにしてフロアの様子を眺めていたAに、後ろから近づいていってあたしは声をかけました。
「それが……どこかに落としてしまったみたいで」
 そう言って彼は下がり気味のまゆをさらに下げ、恥じ入るように笑いました。他のご婦人でしたら雨に濡れた仔犬こいぬのような笑顔にきゅーん! となるところでしょうが、やさぐれ王太子妃ことマリー・アントワネットはそんなにお安くありません。ドジっ子属性まで実装してるとかマジでなんなのこいつ……この世の女すべてをくるわせるために神が遣わしたアルテマウェポンかよ?! とあたしの苛立いらだちは頂点に達しました。
「あら、だったらどこかで調達していらしたら? 見たところ外国の方のようですけれど、仮面の着用がこの舞踏会でのしきたりなんですよ。郷に入っては郷に従えというではありませんか」
 びっくりしちゃうでしょ? まるでマダム・エチケットが乗り移ったみたいにイヤミな言葉がぺらぺらと口をついて出てくるんだから!
「これは失礼。お察しのとおり、まだパリには慣れていない異邦人ゆえご容赦ください。しかし――」
 Aは長身をかがめ、こちらに顔を近づけてきました。息がかかるほどの距離でうれいを帯びたコバルトブルーのひとみに射抜かれ、あたしはどぎまぎとして目を伏せました。
「この国はあまりにしきたりが多すぎる! あれらを1から頭にたたき込み、ルールにしたがうのに精一杯になっているうちになにか大切なものを見失ってしまうのではないか、私はなによりそれを恐れているのです。フランスにはしきたりを学びにきたわけではないので」

 そ れ な !

 思わず叫んでしまいそうになって、あわてて扇子で口をおおいました。どうやら完璧に見える彼もフランスのルール社会には手こずっているようです。言われて気づいたけれど、彼もあたしもここでは異邦人。あたしだって内面こそこんなぐちゃぐちゃですが、外面だけなら「完璧なプランセス」と見られがちだし、もしかしたらあたしたちは似た者同士なのかもしれません。
「あら、ではいったいなにを学びにいらしたというのです?」
「フランスは洗練された社交の国。社交術を身につけられたらと思って参りましたが、これが存外難しい。この国の人たちは生まれながらにしてエスプリを備えているとしか思えません。私のようなものが一朝一夕で身につけられるものではなさそうです」
「あんなもの、わざわざ身につけなくても、そのままでじゅうぶん素敵ですのに」
 するりと口をついて出た言葉に自分で驚いてしまいました。えっ、あたしそんなこと思ってたの? 仮面舞踏会で身分を偽ってゆきずりの相手と会話を楽しむようなことはこれまでにも何度かありましたがぜんぜん勝手がちがいます。
「えっと、だからそのつまり、この国ではあっちへ行ってもこっちへ行ってもどいつもこいつも上っつらだけの心をともなわない会話をくりひろげているでしょう? みんながみんな、いかにオシャンなことを言うかで競い合っているみたい。そういうの、もうあたしいらないんです。あなたのように率直にお話しされる方はめずらしいので、新鮮で誠実なかんじがしてとても好ましいのではないかしら、とかなんとか、思ったり思わなかったりしてっていうか……」
 言葉を重ねれば重ねるほどどんどんまずい方向へ流れていく。ちがうちがう、そうじゃない、そうじゃないんです。Aにキャーキャー熱をあげているご婦人方とあたしをいっしょにしないで! あたしはちがう。あの人たちとはちがうんだから!
「ありがとうございます、お優しいマダム。仮面をつけていなくて正解でした。あなたのような方とお話しできたのですから」
 そう言ってAはにっこりと笑い、懐から取り出した、、、、、、、、ヴェネツィア風の仮面をさっと装着しました。
「楽しい夜を」
 あたしの耳元でささやくと、彼はそのままフロアの渦に飲み込まれていきました。あたしはその場に立ち尽くし、まぼろしを追いかけるように人波に消えた彼の姿を探していました。
「ねえ、トワネット、恋ってどんなものかしら?」
 しゅわしゅわと甘くとけるマリア・カロリーナの声が聞えた気がしてふりかえってみたけれど、それもまぼろしでした。

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