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君の不在の夜を歩く

窪美澄/著

1,980円(税込)

発売日:2026/03/25

  • 書籍
  • 電子書籍あり

記憶してください。私は、私たちは、こういうふうに生きてきたのです──。

高校時代の同級生五人──三十代後半になった彼らの人生は、一人の自死をきっかけにして、さまざまな挫折や変貌や再出発を強いられていく。宗教二世、小説家、主婦等々、五人それぞれの生きることの迷いと歓びと傷、そして再生への切なる希望を深い声で語り、無常観の果てにある祈りの旋律が鳴り響く著者真骨頂の感動作!

目次

窓辺の夕餉に
野辺の送り
空夜
柘榴色の雪
芍薬の星月夜

書誌情報

読み仮名 キミノフザイノヨルヲアルク
装幀 坂内拓/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 232ページ
ISBN 978-4-10-325927-5
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,980円
電子書籍 価格 1,980円
電子書籍 配信開始日 2026/03/25

書評

四十代という人生の難所

藤岡陽子

 物語は沙耶という女性のもとに、
〈菜乃子が死んだってよ〉
 というLINEのメッセージが届くシーンから始まる。
 登場人物は沙耶と菜乃子、そして彼女たちの共通の友人であり、高校の同級生の健太と倫子と達也。本書は四十歳を前にした彼らが主人公の、五つの短編からなる連作集である。
 物語を読んでいて私が気になったのは、小説家を目指していた菜乃子が生前に執筆していたという文章の存在だ。
 菜乃子はいったいなにを書いていたのか──。
 それを読めば彼女が死を選んだ理由がわかるのではないか、と私は思い、内容を早く明かしてほしいとページを繰った。作中で菜乃子の夫でもある達也が、沙耶に「この原稿を読んでもらえないかな。読んでもらったら、僕はそれをシュレッダーにかける。ひとつずつ」と亡き妻のパソコンに残っていた文章を印刷したものを手渡す。私はこの場面で、ああこれで菜乃子が書いた文章の内容がわかる、と期待した。ところが沙耶が原稿を読んだそばから達也が用紙をシュレッダーにかけ、読者の私たちに詳しい内容を明かしてはくれなかった。
 だが物語を読み進めていくうちに、徐々に菜乃子の文章の内容が気にならなくなっている自分がいた。
 五つの短編の一作目「窓辺の夕餉に」は沙耶、二作目「野辺の送り」は健太、三作目「空夜」は倫子、四作目「柘榴色の雪」は達也、とそれぞれの視点で物語が語られていくうちに、彼らの現在の心の動きのほうに関心が移っていったからだ。菜乃子の死をきっかけに自分自身の人生と向き合う、いまを生きる彼らの日々が生々しく、苦しく、目が離せなくなった。
 四十代というのは容赦のない時期だ。これまでやってきたことの結果が出揃い始め、未来の輪郭がかなりはっきりと見えてくる。沙耶は菜乃子という人を「人生が劇的に変わることをいつも望んでいた」と評するが、四十歳を過ぎるとほぼ、奇跡は起こらない。それでも子育てをしている人は生活に追われ、駆け抜けるように四十代を越えていく。だが未婚のまま生涯を終える人、結婚しても子どもを持たない人は、悩みの多くが自分に関することなのだ。少子化はいろいろな変化を社会にもたらしたが、子育てに時間と労力を取られないぶん、自分自身と対峙し続けなくてはならない人が増えているのだと、本書を読んで気づかされた。
「何も成し遂げずに生きていくことに耐えられない」
 と菜乃子は書き遺した文章で絶望を語るが、この世のほとんどの人が何も成し遂げずに生きている。沙耶は現状を「私の本当の夢は、結婚をして子どもを産みたいという、凡庸ではあるが、この時代には(私たちの世代では)壮大な夢だった」と嘆き、健太は「自分だって、もうこの世はうんざりだと思う瞬間は幾度もあるのだ。今だってそうだ。それでも、そんな気持ちを仕事で誤魔化して、弛緩した生を続けている」と生を手放した菜乃子に共感を寄せる。倫子にしても「給与だけが目的で仕事そのものに興味なんて持てなかった。(中略)四十を前にして、日々、積み重なる仕事に心は疲れ切っていた」と自身を語る。
 四十代は人生の難所だと思う。老いてはいないが、若くもない。自分の歩いてきた道を振り返り、そこに価値を見いだせなかった時、この先歩き続ける気力が湧くかどうか。
「もう人生面倒くさい。あと何年続くの。それが知りたい。それがわかったらまだ我慢がきく」
 とは菜乃子の言葉であるが、仮に寿命が八十数年だとしたら、四十代はまだあと半分生きなくてはいけないのだ。
 私は著者の小説が大好きで、これまでの作品はほぼすべて拝読している。著者が書く小説は、私たちにきれいごとではない現実を見せてくれる。登場人物たちの苦悩を釘でガラスを引っかくような筆致で綴り、心をひりひりさせられることもある。だが著者はいつもこのひりつきを、きちんと手当てしてから物語を閉じてくれる。
 本書でも五作目「芍薬の星月夜」では必死に生きてきた沙耶、健太、倫子、達也の傷に著者はそっと手を当てている。菜乃子が亡くなったずっと後のことまで書かれていてちょっと驚く展開なのだが、この編では菜乃子がなぜ小説を書きたかったかが明かされる。私と同様に、彼女が遺した原稿の内容を知りたかった読者を納得させる、光のような言葉が差し出されるのだ。
〈菜乃子が死んだってよ〉
 胸を冷やすこんな台詞で始まる物語は、ラストまで読むと全身が温まるような印象に変わる。本書は日々を懸命に生きる人々の孤独を浮かび上がらせ、そして癒す、いま必要な物語である。

(ふじおか・ようこ 小説家)

波 2026年4月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

ひとは、そこにいてくれるだけでいい

窪美澄

死んだ者と生きている者、弔うとは何か、そして世界を繫ぐためには──深い共感と感動が広がる最新作を振り返る

聞き手・編集部

 ──窪さんの新作『君の不在の夜を歩く』は高校の元同級生五人の物語で、各話ごとにそれぞれが視点人物になっていく連作ふうの長篇小説です。担当編集者が作家にインタビューする時、あまり手放しで賞賛するのは身内褒めみたいに見えそうで控えてきましたが、今回ばかりは許してもらおうかな、と思います。非常に力のこもった作品だし、文章や構成は巧みで、すみずみまで細心の気配りがなされていて嘆息しました。とりわけ最終話には泣かされっぱなしで、「こんなことを、こんなふうに書くなんて、作者は卑怯だ」と呟きつつ、身が震えるほど感動していました。

 かえって噓くさくありませんか(笑)。

 ──泣けるとか泣いたとか大っぴらに言うのははしたないことなので、これでも遠慮しながら喋っています(笑)。『君の不在の夜を歩く』は2023年から「小説新潮」で書き継いでこられた小説ですが、雑誌の担当者に聞くと、別に「泣ける話を」とかお願いして始めたわけではないそうですね。

 これまでも新潮社さんには、現代ものの『よるのふくらみ』にせよ、年代記ふうの『トリニティ』や『夏日狂想』にせよ、好き勝手に書かせてもらってきました。今回も「何でもご自由に」と言ってもらいました。
 ちょうどその頃、他の出版社さんからは「癒しになる小説を」みたいな依頼が少し続いていたんですね。癒しとまでは言わなくても、味付けがマイルドなものを求められることも多かった。これは編集者の方々が「読者が窪美澄に求めているものを」と考えて頼んでくださっているのだし、私も広く読まれたいのだから、ご依頼を受けたら頑張って書きます。もちろん、そこに自分の何か大切なものを乗せて書くこともできます。でも、やはり「癒し」というお題で書く時は、重すぎたり、痛みを伴ったりする物語は少し躊躇ってしまいます。だから今回は、デビューの頃から書いてきたような、生々しいテーマ、重たい題材を避けずに正面から描いてみよう、と。

 ──それで〈自死する人間とその周囲〉という題材になったのですか。

 もうひとつ、性にまつわることもきちんと描こうと思ったんです。私は性をテーマにした賞でデビューしたものですから(注:当時の「女による女のためのR-18文学賞」は性を描くことが義務づけられていた)、小説誌の〈官能特集〉にはよくお呼びがかかっていたんです。だからもう、じゅうぶん書いたと思ったし、最近では小説の性描写に引く読者も増えてきた気がして、しばらくは性を正面から取り上げることをしませんでした。そこをもう一度、きちんと書いてみたかった。

 ──どうしてでしょう?

 自分の性的指向を診断できるサイトがあるんですよ。私は結婚の経験はあるし、子供もいるし、まあ異性愛者だろうなと漠然と思いながら試してみたら、Q(クエスチョニング)でした。で、改めて振り返ってみると、確かにそうかもしれないなと納得したんです。私の中にもいろんな指向があるんだなあと、この年齢になって性的に揺らぐというか、新たな発見があったんですね。でも官能小説にしても恋愛小説にしても、つい異性間の物語しか考えてこなかった。それはずいぶん実情とズレているような気がしてきて、今度の『君の不在の夜を歩く』では、性行為にまで及ぶかはともかく、恋愛と呼べる感情は同性間でも当り前のように存在している、という書き方をしています。
 ただ、この小説は「これまでとは違った、新しいものにしてやるぞ」と力まかせで書いたというよりは、自死というテーマにせよ、性描写や同性間の心情にせよ、少し省筆して物語を進める書き方にせよ、いまの読者の方々にきちんと届くかなと手探りしながら進めていきました。編集の方にも、いきなり完成した原稿をお送りするのではなくて、まず詳しいシノプシスを送って意見を聞きながら執筆を進めていました。

 ──小説は〈菜乃子が死んだってよ〉というLINEのメッセージから始まります。菜乃子の三十八歳での自死を、残された四人──彼女の夫になった達也、達也を好きな健太、健太を忘れられない沙耶、菜乃子を思い続ける倫子──が、どう受け止めていったか、どんな影響を受け続けたかが描かれていきます。この三十八歳からの人生の有為転変、という年齢設定が絶妙ですね。

 三十八歳は、仕事にせよ私生活にせよ、だんだん人生の先が見えてくるけれど、まだ諦めるには早い、まだ角は曲がり切っていない、でも迷いや肩の荷は増えていく──そんな年齢だと思うんです。女性だと出産するかどうかのタイムリミットもありますね。子供がいればいたで、もちろん子育てがたいへんだし。藤岡陽子さんがこの小説の書評(「四十代という人生の難所」、「波」4月号)を書いてくださって、あの四人の四十代に注目していただいたのはとてもありがたかったです。振り返ってみると、私自身も四十代はかなりハードな時期でした。

 ──菜乃子は承認欲求の塊のようなところがありましたが、作家になることを切望しながらも、ついになることができなかった。彼女が自死した時、達也はアパレルの会社員、健太は新興宗教にのめり込む母親に反発する不動産会社の社員、沙耶は料理研究家のアシスタント、倫子は公募の文学賞で準優秀賞を得たことがあるものの第二作は書けずに眼鏡チェーンの会社で働いています。菜乃子が死んだことで、彼らは心身の深いところを揺り動かされて、それまでとは違うけれど結局はこうなるしかなかったんだ、という人生を歩いていきます。

 菜乃子は四十代に入らずに自死してしまいますが、残された四人にとって、何と言うのかな、菜乃子は「生々いきいきと死んでいる」んですよ。志賀直哉が「下らなく過ごしても一生苦しんで過ごしても一生だ。苦しんで生々と暮らすべきだ」(「らくがき三つ」)と言っているんですが、私は、菜乃子は「苦しんで生々と死んでいる」と思っています。それもまた人生なんですよ、きっと。残された側が、単に菜乃子をいなくなったものとして片づけられずに、影響を受け続けていくのは、彼女が生々と死んでいるからかもしれません。

 ──かつてコラムニストの山本夏彦さんがよく「私は生きている人と死んでいる人に区別をつけない。どちらも等しく私の友人である」みたいなことを書かれていましたが、ああいう感覚でしょうか。

 周りに死者が多くなってきた私の年齢のせいもあるでしょうね。
 今回の小説は現実の世界に起きたこととあえてリンクさせているところがあります。コロナが盛んな時期に、何人かの知人が亡くなりました。中には親しかった方もいたし、それほど交流のなかった方もいましたが、亡くなった後で存在感を増す人っているんですね。コロナ禍の時はご葬儀を内々でやられることも多く、きちんとお別れを言えなかったこともありました。そのせいもあるのかもしれませんが、亡くなった人は生きている人にこんなに強く働きかけてくるんだ、こんなに影響を及ぼすんだ、と感じたのがこの小説を書くきっかけだったように思います。そして、亡くなった人をどんなふうに弔うのがいいのかも考えてみたかったんです。

 ──小説の後半で、達也がまさに「弔いが足りない。圧倒的に足りないのだ」と思う場面がありますね。あそこは菜乃子をきちんと弔いたいという思いと同時に、この国、この社会を覆っている「ぬかるみ」を葬りたい、という達也の願いが重ねられていました。切実な祈りが、私的な事柄だけでなく、時代にまで広がっていく。ここは窪さんがこれまでの作品より一歩踏み込んだように感じました。

 これも私の年齢が原因かもしれません。下の世代に繫いでいく、残していく、という意識が強くなってきました。登場人物たちは私より二十歳くらい年下ですが、彼らもさらに年下の世代に世界を繫いでいかないといけない。少しでも世界をきちんとしてから渡していきたい、という願いは私も達也も同じだと思います。現実とリンクさせていると言いましたが、安倍元首相の事件があって、健太を宗教二世という設定にしましたし、トー横キッズのことから達也の出会う少女が生まれました。彼らが時代の「ぬかるみ」に足を取られているとして、微力な私たちにいったい何ができるのかはわからないのですが……。

 ──窪さんの作品には、第一作『ふがいない僕は空を見た』以来一貫して、ふがいない、だらしない、どんなにダメな人でも──口に出せないような大きな罪を犯した者でも──どうか救いはあってほしい、という祈りを感じてきました。その祈りの声がさらに深まった気がします。

 そこは確かに一貫していると思います。今回で言えば、やはり自死の話になりますが、私は自死した人を否定したくないんですね。もちろん、目の前に「私、自殺する」と言う人がいたら、私も「とりあえず今夜はやめて、明日もう一度考えてみようよ」とか「生きてください」とか止めると思います。それでも、あちら側に行ってしまうことはあるでしょう。自死してしまった人に「弱いやつだ」とか、それこそ「地獄に落ちる」とか、あるいは「自殺はよくない」とさえ言いたくないんです。

 ──そこを考え詰めたことが、あの感動的としか呼びようのない最終話へ収斂していったのだと思います。そこでは自死した人を否定しないままで、読者を生きる方へとやわらかく促していくのですが、重要な小道具として「本」が出てくるのには、と胸を突かれました。とりわけ「本を読んで心がネガティブに傾いただけじゃない。/私は明日を生きていく力を本から吸収して成長してきたのだ」という箇所の前後です。私たちが本を読むのは、決して道徳的に正しいことを学ぶためではありませんが──。

 ふっと死んでしまうことはあるかもしれませんが、もし人が小説を読むことで、とりあえず明日までは生きてみようか、と思える時があるのだとしたら、私はいつかそんな小説を書いてみたいんです。
 私は作家なので、菜乃子のように承認欲求はもちろんあります。でも人間って、何かを残せなくてもいいんですよ。認められなくても全然かまわない。存在証明なんかいらない。あなたがそこにいてくれるだけでいい。あるいは自分がここにいるだけでいい。いて、いい。『君の不在の夜を歩く』は、そんなふうに思ってもらいたくて書いた小説のような気がいまはしています。

(くぼ・みすみ 作家)

波 2026年5月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

窪美澄

クボ・ミスミ

1965(昭和40)年、東京生まれ。2009(平成21)年「ミクマリ」で女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞。受賞作を収録した『ふがいない僕は空を見た』が、本の雑誌が選ぶ2010年度ベスト10第1位、2011年本屋大賞第2位に選ばれる。また同年、同書で山本周五郎賞を受賞。2012年、第二作『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞を、2019(令和元)年、『トリニティ」で織田作之助賞を、2022年『夜に星を放つ』で直木賞を受賞。その他の著作に『アニバーサリー』『よるのふくらみ』『水やりはいつも深夜だけど』『やめるときも、すこやかなるときも』『じっと手を見る』『私は女になりたい』『朔が満ちる』『夏日狂想』『ぼくは青くて透明で』などがある。

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