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暗幕のゲルニカ

原田マハ/著

1,760円(税込)

発売日:2016/03/28

  • 書籍

一枚の絵が、戦争を止める。私は信じる、絵画の力を。手に汗握るアートサスペンス!

反戦のシンボルにして20世紀を代表する絵画、ピカソの〈ゲルニカ〉。国連本部のロビーに飾られていたこの名画のタペストリーが、2003年のある日、突然姿を消した――誰が〈ゲルニカ〉を隠したのか? ベストセラー『楽園のカンヴァス』から4年。現代のニューヨーク、スペインと大戦前のパリが交錯する、知的スリルにあふれた長編小説。

目次
序章   空爆  一九三七年 パリ/二〇〇一年 ニューヨーク
第一章  創造主 一九三七年 パリ/二〇〇三年 ニューヨーク
第二章  暗幕  一九三七年 パリ/二〇〇三年 ニューヨーク
第三章  涙   一九三七年 パリ/二〇〇三年 マドリッド
第四章  泣く女 一九三七年 ムージャン/二〇〇三年 マドリッド
第五章  何処へ 一九三七年 パリ/二〇〇三年 ビルバオ
第六章  出航  一九三九年 パリ/二〇〇三年 ニューヨーク
第七章  来訪者 一九三九年 パリ/二〇〇三年 ニューヨーク
第八章  亡命  一九三九年 ロワイヤン/二〇〇三年 マドリッド
第九章  陥落  一九四〇年 パリ/二〇〇三年 スペイン国内某所
第十章  守護神 一九四二年 パリ/二〇〇三年 スペイン国内某所
第十一章 解放  一九四四年 パリ/二〇〇三年 スペイン国内某所
最終章  再生  一九四五年 パリ/二〇〇三年 ニューヨーク

書誌情報

読み仮名 アンマクノゲルニカ
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 368ページ
ISBN 978-4-10-331752-4
C-CODE 0093
ジャンル ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
定価 1,760円

書評

ピカソをめぐる壮大な美術ドラマ

大森望

 絵画ミステリーの新機軸と高く評価され、二〇一二年の第25回山本周五郎賞を受賞した『楽園のカンヴァス』。その続編というか、姉妹編にあたる長編が登場した。その名も『暗幕のゲルニカ』。アンリ・ルソーの〈夢〉が焦点だった前作に対し、今回の核はパブロ・ピカソの名画〈ゲルニカ〉。『楽園のカンヴァス』では、若き日のピカソが脇役のひとりとして重要な役割を果たしたが、本書では壮年のピカソが舞台の中央でスポットライトを浴びる。
 物語は、一九三七年四月二十九日、グランゾーギュスタン通りにあるピカソのアトリエ兼住居で幕を開ける。視点人物は、ピカソの若い愛人で、〈泣く女〉など多くの名画のモデルをつとめたことでも知られる写真家のドラ・マール。のちに〈ゲルニカ〉制作過程の写真を撮影し、後世に貴重な記録を残す彼女の目から、〈ゲルニカ〉誕生のドラマとその後の数奇な運命が描かれてゆく。そのタッチは細やかで、ピカソの人となりや息づかいをありありと伝える。

 ピカソが絵を描き出す瞬間は、いつも唐突だった。雑談したり、くだらない冗談を言ったりしたあとに、モデルをほんの数秒間みつめて、さらさらとコンテを、あるいは鉛筆を動かし始める。……気がつくと、世にも不思議な絵ができ上がっている。どこからどう見ても写実的な像ではない、けれどこれ以上ないほどにモデルの特徴を瞬時にとらえ、デフォルメした造形。目をそむけたくなるほど醜くもあり、天上の美しさをも兼ね備えた人物像。

 ピカソは、内戦のさなかにあるスペイン共和国政府の依頼を受け、この年の五月に開幕するパリ万国博覧会のスペイン館のために、壁を埋めつくすほど巨大な新作を描くことになっていた。アトリエに届けられたキャンバスは、約三五〇センチ×七八〇センチ。何を描くべきか思い悩むピカソだが、その朝の新聞がすべてを変える。「ゲルニカ 空爆される/スペイン内戦始まって以来 もっとも悲惨な爆撃――」
 そこから、物語は二〇〇一年九月十一日のニューヨークに飛ぶ。二一世紀側の主人公は、日本出身のピカソ研究者、瑤子。ニューヨーク大学で美術史修士、コロンビア大学で美術史博士号を取得し、三十五歳でニューヨーク近代美術館(MoMA)に採用され花形部門である絵画・彫刻部門でアジア人初のキュレーターとなった(前作の主役のひとり、ティム・ブラウンも、瑤子の上司として登場する)。愛する夫、イーサンはアート・コンサルタント。だが、幸福な結婚生活は、ワールド・トレード・センターを襲った二機の旅客機により、とつぜん断ち切られる……。
 ゲルニカ空爆と9・11テロ、二つの大きな悲劇が対置され、ピカソの〈ゲルニカ〉が第二次大戦とイラク戦争をつなぐ。題名の“暗幕のゲルニカ”とは、ニューヨークの国連本部、国連安全保障理事会の入口に飾られている〈ゲルニカ〉のタペストリーのこと。しかし、二〇〇三年二月、コリン・パウエル米国務長官がイラク空爆を示唆する演説をそこで行った際、くだんの〈ゲルニカ〉は、なぜか青いカーテンと国旗で隠されていた。
 この史実を下敷きに、原田マハは空想の翼を広げ、大胆不敵な物語を紡ぐ。実在の人物が実名で登場する二〇世紀パートと違って、二一世紀パートでは、米国大統領や国務長官も架空の名前に置き換えられ、小説は虚実皮膜の間を縫うように進んでゆく。後半の焦点は、瑤子が企画する「ピカソの戦争」展と〈ゲルニカ〉をめぐる策謀。物語はクライマックスに向かってどんどん加速し、『楽園のカンヴァス』をも凌ぐ壮大な美術ドラマが展開する。驚愕のラストまで目が離せない。

(おおもり・のぞみ 書評家)
波 2016年4月号より

インタビュー/対談/エッセイ

ピカソの真実

原田マハ

二十代の頃から「いつかピカソをものにしたい」と恋焦がれてきた原田さん。新作はまさに満を持して世に問う、手に汗握るアートサスペンスです。「ピカソは人生のライバルであり、導師」と言い切る作家が、名画「ゲルニカ」に秘められた巨匠の謎と思いに迫ります。

人生を変えたピカソ

 こんばんは、原田マハです。小説家としてデビューしてちょうど十年目になる今年、『暗幕のゲルニカ』という長篇小説を発表しました。今日はその作品の創作の背景について、お話させていただきます。
 皆さんご存じのように、「ゲルニカ」は二〇世紀の巨人パブロ・ピカソが一九三七年に制作した、縦350㎝、横780㎝というとても巨大な絵です。ピカソは一九七三年に九十一歳で亡くなるまでに約十五万点といわれる膨大な数の作品を残しましたが、私は子どもの頃からピカソが大好きで、自分の人生は彼によって運命づけられたとさえ思っています。
 最初の出会いは一九七二年、十歳の夏です。実は父親が美術全集のセールスマンだったため、幼い頃から絵に親しみ、描くことも得意でした。その夏、岡山に単身赴任していた父が「お前が好きそうな、いい美術館がある」と言って大原美術館に連れて行ってくれました。興奮して観て回っているうちに、ある作品の前で雷に打たれたような衝撃を受けたのですが、それがピカソの「鳥籠」でした。なぜ驚いたかというと、「これが鳥籠? めっちゃ下手くそ」と思ったからなんです(笑)。これなら私の方がうまいと思って、ピカソを何となくライバル視するようになりました。生意気な子どもでしたね(笑)。翌年、ピカソが死んだときのこともよく覚えています。朝、寝ている私の部屋の襖を父が開けて一言、「ピカソが死んだぞ」。すぐにテレビのニュースを見ましたが、衝撃を受けましたね。これから誰を目標にすればいいのだろうと悲嘆にくれました。例えて言うと、「あしたのジョー」で力石が死んだ瞬間のジョーのような感じでしょうか(笑)。
 それからしばらく、ピカソのことは頭から離れてしまったのですが、二十一歳の時に京都で大規模な「ピカソ展」が開かれました。私は関西の大学に通っていて、自分の誕生日の記念にその展覧会を見に行ったところ、また一枚の絵に打ちのめされたんです。今度は「何これ、うまいじゃない。この人は天才だ」って。遅すぎますけどね(笑)。それが一九〇三年、二十二歳の時に描かれた「人生」という作品で、その時からピカソは私にとってライバルから導師(マスター)に変わりました。いつか私も何かを表現する人間になりたい。そして、もし表現することができるようになったら、もちろん足元にも及ぶわけがないけれど、ピカソを自分の創作の中に取り入れてみたい。そんなことを考えるようになったんです。
 その頃、同様に影響を受けたのが『楽園のカンヴァス』という作品で取り上げたアンリ・ルソーで、初めて画集を見た時に面白くて心が躍ったのを覚えています。以来、ピカソとルソーの二人を表現に活かしたいという思いは今に至るまでずっと持ち続けてきました。『楽園のカンヴァス』にはピカソも登場しており、読者の方からは「いい男に描かれている」と好評でしたが、それは私が思い描く理想のピカソ像を書いたからです。実際より五割増し程度いい男に書いたつもりですが(笑)、そう書きたくなるほど大好きで、ピカソを追いかけて生きてきたと言っても過言ではないと思います。

「ゲルニカ」が歩んだ道

 ピカソの生涯をたどってみると、二つの大きな転機があったように思います。一度目が一九〇七年に「アヴィニョンの娘たち」を描いたときで、以後ピカソは大きな変貌を遂げます。「本当に美しいものは、相当な醜さの上に成立している」という逆説的なテーゼを世の中に投げかけた一作ですが、ピカソは様々なアーティストや作品、そして時代背景から影響を受けながら、美の概念を一気に変えようと挑んだのではないかと思います。時は二〇世紀初頭、すべてが新しく変わっていく時代で芸術家たちも野心に燃えていましたが、中でもピカソは変革を恐れず、新しい表現に挑戦していった人ではなかったでしょうか。
 二度目のターニングポイントが訪れるのが一九三七年、「ゲルニカ」が誕生した年です。スペイン内戦が激化したこの年の四月二六日、北部の小さな村ゲルニカを反乱軍と手を組んだナチスドイツが空爆し、近現代史の中で初めて一般市民が戦争に巻き込まれます。ある意味でテロリズムの始まりと言ってもいいかもしれません。翌日、新聞で事件を知ったピカソは怒りに燃えて、猛然と絵筆を執ります。五月末からパリで万博が開催される予定になっており、ピカソはスペインのパビリオンに展示する絵を依頼されていたのですが、そのために用意されたカンヴァスに向って描き続けました。そして、一か月ほどで描き上げたのが「ゲルニカ」です。
 今回の本のカバーにも使わせてもらいましたが、モノクロームの画面の中に様々なアイコンが鏤められています。倒れ伏す兵士、死んだ子供を抱えて泣き叫ぶ母親、驚いて振り返る牡牛、咆哮する馬……そして目のようにも見える何か。これは神の眼と言われたり、空中で炸裂する爆弾の光と言われたり、様々に解釈されています。そしてこの絵の凄さは、間違いなく空爆による殺戮を描いているのに一滴の血も流れていないところにあります。飛行機も戦車も描かれていませんが、明確に戦争の絵なんです。驚くべき作品だと思います。
「ゲルニカ」がパリ万博のスペイン館で展示されている最中に、ナチスの将校が見に来たそうです。その時たまたまピカソが絵の前にいて、一触即発の状況になったと伝えられています。「この絵を描いたのは貴様か」と尋ねるナチス将校に向ってピカソはこう言い返します。「いいや。あんたたちだ」。半ば作り話とも言われているエピソードですが、聞いたときは私のピカソ愛がめらめらと再燃しました(笑)。
 その後、ナチスや反乱軍のフランコ将軍の標的になることを危惧したピカソは、「ゲルニカ」をスペインに戻すことを拒みます。そして一旦、自分のアトリエに引き取った後、ヨーロッパ各国を巡回させてから、アメリカ合衆国に〝疎開〟させることを決めます。その時、海を渡ってピカソに会いに来たのがニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長、アルフレッド・バー・ジュニアです。バーは「ゲルニカ」を借りる代償として全米を巡回するピカソ回顧展を催しました。巡回が終わった後、ピカソはバーに向って「ゲルニカはMoMAで守ってほしい。そしてスペインに真の民主主義が戻ったら返してください」と言い、バーはその約束を果たします。最終的にスペインに戻ってきたのは一九八〇年代のことでした。ですから、結果的にピカソは自分のアトリエを出た「ゲルニカ」に再会することなく亡くなってしまうのです。

暗幕はなぜかけられたのか

「ゲルニカ」が制作されたプロセスは、一人の女性によって詳細に記録されています。ドラ・マールという名前のシュールレアリスムのアーティストで、当時は珍しい女性写真家でもありました。彼女は大変な美貌の持ち主で、しかも奔放な性格で自己主張も激しい、新しいタイプの女性だったと伝えられています。
 ピカソとはパリのドゥ・マゴというカフェで知り合い、やがて恋に落ちます。ドラは当時二十代後半で独身でしたが、ピカソには正妻オルガ・コクローヴァがいました。しかもマリー=テレーズという若い愛人もいて、子どもまで生ませているのに、さらにドラとも関係を持つのですから相当悪い男ですよね。マリー=テレーズとドラはある日、ピカソのアトリエで鉢合わせします。そして互いに罵り合い、髪の毛を掴んで喧嘩を始めるのですが、ピカソはその様子を傍でニヤニヤ笑いながら見ていたそうです。挙句の果てに泣き喚く女たちを絵に描いてしまうのですから、失礼で嫌な男ですね(笑)。でも、哀しいかなその絵「泣く女」は、激しく感情を爆発させる女性を描いた名作と評されています。
 そのドラ・マールは「ゲルニカ」を描き始めた瞬間に居合わせ、その後の制作過程をすべてカメラに収めました。これは大変な功績です。そのおかげで後世の研究者たちはピカソという芸術家がいかに作品を描くのかという、いわば神秘の領域を垣間見ることができるのですから。しかもその作品が「ゲルニカ」でしたので、人類の財産となる貴重なアーカイブを残してくれたと言えると思います。
 今回の小説では、私は二人の女性の視点で「ゲルニカ」をめぐる物語を書いてみました。その一人がこのドラ・マールで、彼女が主人公のパートでは一九三七年から四五年までのパリを舞台に、「ゲルニカ」が誕生してやがてアメリカに亡命していく様子が描かれています。もう一人は八神瑤子というMoMAに勤務する日本人のキュレーターで、架空の人物です。彼女はニューヨークの国連本部にあった「ゲルニカ」のタペストリーがある日、忽然と姿を消した謎を追跡するという役回りです。二〇〇三年、アメリカがイラクを空爆する前夜にパウエル国務長官(当時)が国連で記者会見を行った際、安全保障理事会議場のロビーに飾られていたタペストリーに、なぜか暗幕がかけられるという事件が起こりました。私はその事実を知った時、心が震えるのを覚えました。なぜならそれは制作から約七十年たった現在でも、「ゲルニカ」が国家が恐れるほどのメッセージを発し続けていることを示しているのですから。そこから「暗幕のゲルニカ」プロジェクトはスタートしたのです。
 若い頃に「ゲルニカ」の誕生と変遷の物語を知って以来、いつかは小説として描きたいと思い続けてきました。十年間小説家としての修業を積み重ねて、ようやく書き上げて出版に漕ぎつけることができました。長い間の片思いが実ったような気がしています。巻末に取材協力者の一覧が掲載されていますが、この小説を書くにあたり、まずニューヨークの国連本部を取材しました。それからマドリッドに飛んでプラド美術館に行き、レイナ・ソフィア芸術センターで「ゲルニカ」の実物を見て、コンサバターにも話を聞きました。さらにマラガ、ゲルニカ、バルセロナを訪れ、最後はパリを経由して帰ってきました。約一カ月に及ぶ大ツアーでしたが、その間たったひとつの質問をお会いした関係者全員に尋ねました。いったい「ゲルニカ」は誰のものなんですか、と。皆さんからいただいた答えは作品の中に書き入れてあります。お読みいただく際にそのことを心に留めていただけたら、嬉しく思います。
 (二〇一六年四月五日 神楽坂 la kaguにて 刊行記念トークショー)

(はらだ・まは 作家)
波 2016年5月号より

「暗幕のゲルニカ事件」が伝えたもの

原田マハ

「どうにかしてピカソに挑んでみたい」。そう思ったのは二〇歳のときでした。私は当時関西の大学に通っていました。ちょうどそのころ京都市美術館で大規模なピカソ展があったんです。忘れもしない、一九八三年七月一四日。自分の誕生日にピカソを見て強く衝撃を受け、それが小説『暗幕のゲルニカ』に結実したときにはすでに三〇年以上の時間が流れていました。
 二〇世紀絵画の巨匠、ピカソ。多くの作品の中でも〈ゲルニカ〉は特別な絵です。一九三七年にドイツ軍がスペインの街ゲルニカに行った無差別空爆をモチーフに、パリ万国博覧会のパビリオンの壁画として描かれた巨大な油彩画です。
『暗幕のゲルニカ』を書く直接のきっかけも、やはり実際に起こった出来事でした。〈ゲルニカ〉には、油彩と同じモチーフ、同じ大きさのタペストリーが世界に3点だけ存在します。ピカソ本人が指示して作らせたもので、このうち1点はもともとニューヨークの国連本部の会見場に飾られていました(ちなみに1点はフランスの美術館に、もう1点は高崎の群馬県立近代美術館に入っています)。しかし事件は二〇〇三年二月に起こります。イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルが記者会見を行った際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたのです。私はそれを、テレビのニュースで知りました。
 同じ年の六月、スイスのバーゼルで行われた印象派の展覧会を訪れたところ、会場のロビーにそのタペストリーが飾られていたのです! 横には、暗幕の前でパウエル国務長官が演説をしている写真と、展覧会の主催者にして大コレクター、エルンスト・バイエラー氏のメッセージがありました。「誰が〈ゲルニカ〉に暗幕をかけたかはわからない。しかし彼らはピカソのメッセージそのものを覆い隠そうとした。私たちはこの事件を忘れない」と。そしてタペストリーは所有者の意向により、国連本部から他の美術館に移されました。
 結局、誰が暗幕をかけたのかは未だにわかりません。アメリカがイラクに軍を向ける、その演説にそぐわないと考えた何者かでしょう。けれど、その何者かは〈ゲルニカ〉に暗幕をかけることで、作品の持つ強いメッセージを図らずも世界中に伝えることになったのです。
 名画と呼ばれる作品は世界に多くありますが、〈ゲルニカ〉ほどメッセージ性が強くインパクトのある絵画を私は知りません。この作品を実際にマドリッドで見たことがありますが、六〇年以上前のことがなんら色あせず、カンヴァスの中にありました。空爆がまさに今起こったかのような生々しさでした。恐怖を描いて、平和を訴える。絵画なんだけど、ドキュメンタリー。忘れたい、でも忘れてはいけない出来事。〈ゲルニカ〉はそれらの矛盾をすべて内包している――抽象化することで逆にリアリズムを感じさせる傑作だと思います。
 ピカソは決して反戦主義者、平和主義者ではありませんでした。けれども〈ゲルニカ〉は、アートが強いメッセージを持ち、政治や国を動かすこともありうると信じさせてくれる作品です。現代では政治的なモチーフを取り扱う作家はたくさんいますが、彼らはみんなゲルニカの子どもたちだと私は思っています。
 実際は、美術が戦争を直接止められることはないかもしれません。それは小説も同じでしょう。けれど「止められるかもしれない」と思い続けることが大事なんです。人が傷ついたりおびえたりしている時に、力ではなく違う方法でそれに抗うことができる。どんな形でもクリエイターが発信していくことをやめない限り、それがメッセージになり、人の心に火を灯す。そんな世界を、私はずっと希求しています。

(はらだ・まは 作家)
波 2016年4月号より

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著者プロフィール

原田マハ

ハラダ・マハ

1962(昭和37)年、東京都生まれ。作家。関西学院大学文学部日本文学科および早稲田大学第二文学部美術史科卒業。馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍中の2000(平成12)年、ニューヨーク近代美術館に半年間派遣。その後2005年『カフーを待ちわびて』で日本ラブストーリー大賞を受賞し、翌年デビュー。2012年に発表したアートミステリ『楽園のカンヴァス』は山本周五郎賞、R-40本屋さん大賞、TBS系「王様のブランチ」BOOKアワードなどを受賞、ベストセラーに。2016年『暗幕のゲルニカ』がR-40本屋さん大賞、2017年『リーチ先生』が新田次郎文学賞を受賞。その他の作品に『本日は、お日柄もよく』『ジヴェルニーの食卓』『デトロイト美術館の奇跡』『常設展示室』『風神雷神』『リボルバー』などがある。

判型違い(文庫)

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