方丈の孤月―鴨長明伝―
1,870円(税込)
発売日:2019/03/22
- 書籍
乱世で見たこの世の無常。ちっぽけな終の棲み家で、月を相手に今語らん。
下鴨神社の神職の家に生を受け、歌に打ち込み、琵琶に耽溺しながらも、父が早世したためについぞ出世叶わず、五十歳で出家。平家の興亡を目の当たりにし、大火事、大飢饉、大地震などの厄災を生き延びた鴨長明が、人里離れた山奥に庵を構え、ひとり『方丈記』を記すまで。流転の生涯に肉薄した、圧巻の歴史小説。
第一章 散るを惜しみし
第二章 夏の嵐
第三章 後れの蛍
第四章 曇るも澄める有明の月
第五章 大原の雪
終章 余算の山の端
書誌情報
読み仮名 | ホウジョウノコゲツカモノチョウメイデン |
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装幀 | 福王寺一彦/装画、(C)Fukuoji Kazuhiko, JASPAR, Tokyo, 2019 E3297/装画、新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 288ページ |
ISBN | 978-4-10-334534-3 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 歴史・時代小説 |
定価 | 1,870円 |
書評
『方丈記』作者の「魔」と「狂」
十二世紀から十三世紀にかけての日本は、古今未曾有の変革期に突入した。古代から中世への一大転換は、政治・経済だけでなく文化までも一変させ、日本人の運命を翻弄した。
不幸にも、この時代に生まれ合わせた人間は、院政の崩壊と源平争乱による人災に加え、これまた未曾有の火災・辻風・地震・飢饉などの天災により、生命の危機にさらされた。
だが幸いにも、時代の不条理への怒りを糧に、新しいスタイルの文化を作り上げる人々が、何人も出現した。宗教では法然と親鸞。彫刻では運慶と快慶。和歌では藤原定家と源実朝。語り物では『平家物語』。歴史評論では慈円。散文では鴨長明。危機の時代は、文化を一気に新生させてくれた。
現代は、グローバリゼーションとIT化の渦中にある。世界的規模での天変地異も頻繁に起きている。この危機を乗り越えるべく、新しいスタイルの文化が胎動しつつある。
新しい文化は、批評精神と否定精神の塊である古典の中に、「現代人の危機感」を注入して攪拌することで誕生する。危機の時代に生まれた古典を選び、その遺伝子組み換えに成功した歴史小説が、最先端の現代文学として姿を現す。
梓澤要は、『荒仏師 運慶』(2016年)に続き、「鴨長明伝」を副題とする『方丈の孤月』を書き下ろした。鴨長明は生まれた年も曖昧で、年譜にも空白が多い。この男の人生のどこに、二十一世紀の文学を開く扉が見出せるのか。
梓澤は、不幸な家庭生活や、憧れの女性への切ない思いなど、想像力を駆使して、長明の日常生活を現前させる。従者の「右近」や、日野山での孤独を慰めてくれる少年「がや丸」など、バイプレーヤーたちが精彩を放つ。
鴨長明の人生は、挫折の連続だった。下鴨神社の神官の名門に生まれたが、要職に就けず、しまいには仏門に入った。歌人として活躍したが、『新古今和歌集』の完成の直前に出奔した。琵琶の名手だったが、秘曲を独断で披露して批判された。鎌倉まで下向したものの、三代将軍源実朝の歌道師範になれなかった。彼は、何をしたかったのか。あるいは、何をするしかなかったのか。ここに、梓澤要は目を注いだ。
鴨長明が著した『方丈記』は、『枕草子』『徒然草』と並ぶ三大随筆の一つとされる。だが、気ままな「随筆」ではない。梓澤は、推定五十八歳で『方丈記』を著した長明に、自分の等身大の分身を見たのではなかったか。神道・歌道・管弦・仏道などで頂点を極めようと、熱き志を燃やした長明の「愚かしさ」を、梓澤は見据える。「志=情熱」の別名は、執着・野望である。「魔」であり、「狂」である。世界という巨大な魔を前にして、自らの心の小さな魔をぶつけても、見事に跳ね返される。その情けなさと浅ましさが哀しい。
時代や自分の壁を突破しようとしてもがく長明は、魔や狂に取り憑かれた「自分の同類」を、何人も見つけた。長明は彼らと、魔と魔、狂と狂をぶつけ合う。すると、その相互影響で、新しい道筋が見えてきたではないか。
太宰治の『右大臣実朝』(1943年)で、実朝と長明が対面する場面は忘れがたい。太宰の慧眼は、「私の案ずるところでは、当将軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには
梓澤は一歩進める。長明が実朝に万葉調の和歌を完成させ、実朝が長明に『方丈記』を書かせたと、相互衝突の奇跡を描き出す。同じ衝突が、長明と後鳥羽院、長明と藤原定家との間でも起きていた。かくて、新しい中世文化が開幕した。
梓澤要は、十二世紀の世紀末を生き抜いた鴨長明の「文学の魔」と、デビュー以来四半世紀を閲し、長明が『方丈記』を書いた年齢を経た自分自身の「文学の魔」を正面衝突させたのだろう。「自分の文学」を発見するために。
鴨長明は、神道でもなく仏教でもなく、和歌でもなく物語でもない、ほかの何物でもない地点に、自分の心の安らぐ居場所を見つけた。そこから、しきりに、「真実の自分の心を書け」と呼びかける声が聞こえてくる。だから、日本文学史上で、どの作品にも似ていない『方丈記』を書いた。
和歌でも物語でもない型破りな「散文」の世界は、時代と空間を超え、人々の魂を揺さぶる。『方丈記』は、古い価値観を墨守する人々には、危険で怖ろしい文学となった。
梓澤要もまた、古典でも近代小説でもない、かと言ってエッセイや歴史書でもない、魂の文学書『方丈の孤月』を書いた。梓澤は、彼女の心の最奥に沈潜し、自分自身と現代人の新生願望をしっかり掴み取って、浮上させた。
(しまうち・けいじ 国文学者)
波 2019年4月号より
単行本刊行時掲載
担当編集者のひとこと
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。この一文で始まる『方丈記』は日本三大随筆のひとつ。
『捨ててこそ 空也』『荒仏師 運慶』『画狂其一』など、異才たちの知られざる生涯を描いてきた歴史小説家、梓澤要さんがあらたに挑んだのは『方丈記』の作者鴨長明。
平安時代末期、下鴨神社の神職の家に生を受けた長明は、歌に打ち込み、琵琶に耽溺し、出世を望みながらも幾度となく挫折。この源平争乱の激動の時代に、京の都で大火事、大飢饉、大地震などを目の当たりにした後に五十歳で出家して、人里離れた山奥に四畳半程度の一間しかない方丈の庵をつくり、たったひとりで暮らします。
本作の終章、『方丈記』を一心不乱に綴り始めた長明は自分自身にこう語りかけます。「おまえは、姿こそ聖人だが、心は煩悩の濁りに侵されている」。そこに描かれているのは、仏門に入り、老いてなお続く葛藤を抱えた、ひとりの人間の孤独と苦悩です。長明がたどりついた「無常」という普遍の真理を、梓澤さんが圧巻の筆致で描き切っています。
2019/04/27
著者プロフィール
梓澤要
アズサワ・カナメ
1953(昭和28)年静岡県生れ。明治大学文学部卒業。1993(平成5)年、『喜娘』で歴史文学賞を受賞しデビュー。歴史に対する知的な洞察とドラマ性で、本格派の歴史作家として評価されてきた。執筆の傍ら、東洋大学大学院で仏教史を学ぶ。2017年、『荒仏師 運慶』で中山義秀文学賞を受賞。著書に、『捨ててこそ 空也』『方丈の孤月』『万葉恋づくし』『あかあかや明恵』『光の王国』『越前宰相秀康』『阿修羅』『百枚の定家』『夏草ヶ原』『遊部』『橘三千代』『画狂其一』『井伊直虎』等がある。