
原節子の真実
1,760円(税込)
発売日:2016/03/28
- 書籍
小津との本当の関係、たったひとつの恋、経歴の空白、そして引退の真相……。
その存在感と去り際、そして長き沈黙ゆえに、彼女の生涯は数多の神話に覆われてきた。真偽の定まらぬままに――埋もれた肉声を丹念に掘り起こし、ドイツや九州に痕跡を辿って浮かび上がったのは、若くして背負った「国民的女優」の名に激しく葛藤する姿だった。伝説を生きた女優の真実を鮮やかに甦らせた、決定版の本格評伝。
第一章 寡黙な少女
第二章 義兄・熊谷久虎
第三章 運命との出会い
第四章 生意気な大根女優
第五章 秘められた恋
第六章 空白の一年
第七章 屈辱
第八章 孤独なライオン
第九章 求めるもの、求められるもの
第十章 「もっといやな運命よ、きなさい」
第十一章 生きた証を
第十二章 それぞれの終焉
第十三章 つくられる神話
あとがき 会田昌江と原節子
書誌情報
読み仮名 | ハラセツコノシンジツ |
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雑誌から生まれた本 | 新潮45から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 312ページ |
ISBN | 978-4-10-340011-0 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | ノンフィクション、映画 |
定価 | 1,760円 |
書評
あなたは何を守りますか
「女優なのに、一人で電車に乗ってラーメン屋に行っていいの?」と言われたことがある。女優は世間でどのようなイメージなのだろうか。イメージをもってもらうのは有難いことでもあるが、正直面倒である。部屋が散らかっている、料理ができない、とありのままを話すと、「夢を壊さないで」と失望されたりもする。だから私は、部屋に物が多い、料理は得意ではない、という言い換えをし、ラーメン屋に行ったとしても自分の中だけに仕舞っておくようになった。
まずここで白状すると、私は七十歳年上である原節子さんの事は、名前と顔しか知らなかった。あとは“小津映画の女優さん”というイメージ。彼女が出演した小津映画は高い評価を受け、さぞ相性が良かったんだろうなと思ったところ、実際はそうでもなかったようだ。小津監督は彼女を念頭に置いて役を作り脚本を書き上げていくという、役者にとってはこの上なく幸せなことをしてくれていたのに、当の本人は「もうやりたくない」「納得していない」と否定的な意見ばかり。言いたいことを言う彼女を生意気だとバッシングする人もいたが、その決して媚びない姿に私は感嘆していた。
おこがましいことだが、本書を読んで自分を見ているような感覚に陥った部分があった。中学の頃は周りの期待に応えるために勉強を頑張った。だが第一志望の高校への受験に失敗したころ、思いがけず女優の道に進むことに。撮影現場では自ら馴染もうとはせず、空き時間はひたすら本を読んだ。この世界の浮ついた雰囲気を好きになれなかったが、演技には全身全霊で向き合っていく――。自分のデビューした頃と全く同じだった。だが、私はここから先が違った。現場で積極的に話さなかった自分が「大人しくて可愛い」から、「無愛想」「面白味がない」に変わったのを周りの空気で察知した時、息苦しく感じた。長くは耐えられなかった。そして現場では本を読まなくなった。取材を受けても、「こういうことを言ってほしいんだろうな」と思ってしまうようになった。自分の性格なのか、芸能界での体験がそうさせたのか、空気を読む力が大きくなった。そして普段から自分で自分を演じるようになった。“優等生”“良い子”を得た代わりに、ストレスと孤独も積み重なっていった。黙ってメイクされている鏡の自分を見て、何度鏡を叩き割りたい衝動に駆られたことか。
ただ私は女優として芝居をしているときだけ、「あぁ、わたし生きてるなぁ!」という実感が湧いた。それは芝居以外では今のところ感じたことがない。
役作りというのは、自分の頭や身体を、自分自身が騙していくことだと思うのだが、時として、本番で自分(の役)の感情を表現したとき、コントロールできない部分が溢れだすことがある。たとえば、泣き芝居の苦手な私が本番を終えてみると、自分の顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたことがあった。感情に対して正直に身体が反応している証拠だろう。役作りをも超えるその瞬間、私は快感を覚えた。そのカットはOKが出たが、監督に「後でCGで鼻水消せるから安心して」と言われたときは、「それを一番見せたいのに!」と心の中で叫んだのだった。私がちょうど十年前、スカウトされて女優になるか迷っている時に初めて観た舞台の、美しい女優さんの汗だくの姿に感動したように、きっと生のエネルギーは観る方にも伝わるはずだ。私は涙と鼻水で光った自分の顔が、まさに自分だと思った。それは自分を好きと思える瞬間でもあった。芝居はウソで固められた作り物である。だがそのウソの中に人間の生々しさが少しでもあると、それは一瞬にしてリアリティに変わるのである。原節子も、芝居の中に生の確かな実感を見出していったのだろう。
本書は決して、女優原節子の素晴らしさを語るものではない。ひとりの女性の生々しさ、強烈な人間らしさが見えてくる。普段の私がいかに“生きていない”か、思い知らされる。自分を押し殺し、周りの求めることに応えていくこと。そんな環境や自分に、納得していなくても順応していくことが、生きる術だと思っていた。原節子がその世界に染まらずに自分の意志を貫いたことはある意味、生きづらい選択だっただろう。だが小津映画をもうやりたくないと言う彼女も、映画界を冷ややかな目で見る彼女も、何も告げずに引退する彼女も、その後五十余年沈黙を守った彼女も、そしてもちろん映画の中の彼女も、とても人間らしい。女優であることより、いち人間でいることを全うした彼女は、何よりも美しかった。
私は、イメージをもってもらうことが面倒だったのではなく、それに応えようとすることに辟易していたのだ。さて、“女優南沢奈央”とどう付き合っていくか。自分は、一体これから何を守るか。
(みなみさわ・なお 女優)
波 2016年4月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
石井妙子
イシイ・タエコ
1969(昭和44)年、神奈川県茅ヶ崎市生れ。白百合女子大学卒、同大学院修士課程修了。1997(平成9)年より、毎日新聞囲碁欄を担当。囲碁の記事を書く傍ら、約5年の歳月を費やして『おそめ』を執筆。綿密な取材に基づき、一世を風靡した銀座マダムの生涯を浮き彫りにした同書は高い評価を受け、新潮ドキュメント賞、講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補作となった。著書に『日本の血脈』『満映とわたし』(共著)など。『原節子の真実』で第15回新潮ドキュメント賞を受賞した。