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可哀想な蠅

武田綾乃/著

1,705円(税込)

発売日:2023/09/29

  • 書籍
  • 電子書籍あり

目障りな存在を消していけば、世界は今より美しくなるのだろうか。

近所で目撃した光景をツイートしたのをきっかけに絡んできた、粘着質なアカウント。芽衣子は、彼をスマホの中で「飼う」ことに決めるが――。SNSで、会社で、家の中で。どこからか湧いてくる、哀れな人たち。蓋をしてしまいたい感情。日常の裏で誰もが「見て見ぬふり」をしているものを突き付ける、ブラックな短篇集。

目次
可哀想な蠅
まりこさん
重ね着
呪縛

書誌情報

読み仮名 カワイソウナハエ
装幀 木原未沙紀/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-353352-8
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,705円
電子書籍 価格 1,705円
電子書籍 配信開始日 2023/09/29

書評

心の裏にある、気づきたくなかった感情

齋藤明里

「可哀想」と、誰かに一度は言ったことがあるはずだ。その時を思い出してみてほしい。あなたはどんな表情をしていただろう。心から相手を思っていただろうか。その言葉の裏で、優越感に浸ってはいなかっただろうか。
 武田綾乃さんの新作『可哀想な蠅』は、「可哀想」の裏にある、気づきたくない感情を突きつけられるような短編集だった。
 表題作の主人公は大学生の芽衣子。彼女は捨て猫の入った段ボールを蹴り続ける男性の動画をこっそり撮影し、Twitterに載せたところ大バズり。その後、匿名のアカウントから嫌がらせのリプライが執拗に届きだすも、芽衣子はそのアカウントを「飼うように」眺めはじめる。友人から早くブロックしろと言われても、面白がるそぶりを見せて聞く耳持たず。反応さえしなければいいと思っていたが、攻撃的なコメントはエスカレートし、芽衣子の過去を掘り起こしながら、より過激になっていく……。
 芽衣子は過去の出来事から、この匿名アカウントのように、他者に対し攻撃的な発言をしてしまう人の弱さを知っていた。だからこそ、惨めで可哀想なこの人を拒絶せず、コメントを読み続けてあげようと思ったのだ。自分が優位に立っていると感じるがゆえに、相手に対する哀れみは膨らんでいく。その後の彼女に巻き起こる展開に、読んでいて息苦しくなった。
「バズる」とは蜂や蠅の羽音を表す擬音語である英語buzzが語源だそうだ。蠅を払うように、目障りなものを無視し続ければ、自分の世界は守られるのだろうか。蠅を気にするあまり、かえって、羽音は大きく聞こえてくるのかもしれない。煩わしさから逃れるには何が一番良いのか、芽衣子のあの選択は正しかったのか、読了後もずっと考え続けてしまう。
 また、書き下ろしの「呪縛」からは、「可哀想」の裏に潜む優越感がじわじわと滲んできた。父の介護で学生時代を楽しめなかった麻希は社会に出てから、青春を取り戻すように恋人や友人を作っていく。そんな日々のなかで、麻希は同僚から紹介された詩乃と友達になる。自分にはない彼女の可愛らしさや優しさに惹かれ仲を深めるが、ある時、恋人と破局した麻希の元に、詩乃が同僚のDVを理由に逃げ込んでくる。可哀想な詩乃を匿いながら共同生活を送る中で、恋愛とは違う形で自分が満たされていくのを感じた麻希は、彼女との関係性を自らの手で歪めていくのだった。
 助けてくれたお礼にと、料理や掃除などで奉仕する詩乃に対して、麻希はどんどん傲慢になっていく。そして詩乃にはずっと可哀想なままでいてほしいと願う。学生時代のほとんどを家族の介護で潰されてしまった麻希は、他者から、あなたは可哀想なヤングケアラーだねと言われることが許せなかった。可哀想な環境に居たのは事実でも、人から可哀想だと思われたくなかったのだ。そんな麻希が、自分より哀れだと思える存在を見つけたとき、優越感という初めての感情に出会ってしまう。大切な友人だけれどずっと可哀想なままでいてほしい。私が助けてあげたのだから私にだけ尽くしてほしい。そんな彼女のアンバランスな心が、痛いほどこちらに伝わってきた。しかしそれによって、二人の仲が少しずつ崩れていく様が一層やるせない。
 様々な角度からの「可哀想」を描きだした、この短編集。「まりこさん」では、年齢や立場が変わることで見えてくる「可哀想」について語られる。主人公の由美は、小学生の頃に、猫をたくさん飼っている「まりこさん」という女性と仲良くなるが、親から彼女とは関わらないようにと言われ、それ以降の交流を絶つ。三十歳を前に、社会人として地元に戻った由美は気付く。まりこさんは近所から爪弾きにされるような「可哀想な大人」だった。大人になれば今まで見えなかったものが見えてくる、そんな切なさを覚える作品だ。
 一方、「重ね着」は軽やかな読み応え。実家暮らしで独身の姉の元に、東京で就職した結婚間近の妹が突然現れ、一緒に伏見稲荷を登ることになる。成功している妹と比べて自らを可哀想だと感じる姉の苛つきが少しずつ解き放たれていく様は清々しく、姉妹の仲直りのシーンでは青春小説のような爽やかさも味わえた。
「可哀想」という感情はとても厄介だ。勝手に相手を判断して、哀れんだり蔑んだり、自分のほうが恵まれていると思いこんだりして、心が振り回されてしまう。それでも、人と共に生きていくなかで、心の底から手を差し伸べたくなることがあるはずだ。そんな時、ただ哀れみを抱いて優越感に浸るのではなく、対等な関係でありたい。厄介な感情に振り回されないように、自分の心のうちを冷静に見つめる視点を、この一冊は与えてくれるだろう。

(さいとう・あかり 女優/読書系YouTube「ほんタメ」MC)
波 2023年11月号より
単行本刊行時掲載

新境地の地獄巡りエンターテインメント

吉田大助

 代表作「響け! ユーフォニアム」シリーズや第四二回吉川英治文学新人賞を受賞した『愛されなくても別に』など、武田綾乃はさまざまな「女二人」の関係を描き出してきた人だ。その関係の中には時折りビターさが入り込むこともあったが、基本的にはシビアな現実を生き抜くための、友愛の空気で満ちていた。しかし、四組の「女二人」をフィーチャーした独立短編集『可哀想な蠅』は様子が違う。完全に、地獄の釜の蓋を開けにいっている。古今東西、地獄巡りがエンターテインメントで無かったことはない。
 表題作に当たる第一編の主人公は、大学生の芽衣子。世の中が改元で賑わっていた頃、最寄り駅の近くで猫の入った段ボールを蹴っているおじさんと遭遇し、スマホで撮影した動画をツイッターに投稿したところバズりにバズった。〈信じられない。ひどい。可哀想。誰かが誰かに怒って、憤慨して、満足する。人間って実は怒りたがりなのかもしれない、と通知欄を眺めていると思う〉。一方で、投稿者である芽衣子に粘着的に絡んでくるアカウントも現れた。親友の里依紗は「ブロックしなよ」と助言するが、芽衣子は放置する。よく吠える動物を「飼う」という感覚で、当該アカウントをウォッチングするためだ。そこに介在するのは、意地悪な気持ちだけではない。〈もし私が拒絶したせいで、彼が絶望したら?〉。社会正義に基づく、慈悲深さによるものでもあったのだ。ところが、作家は主人公に対して大きな試練を与える。それは芽衣子と里依紗という「女二人」の関係に、決定的な亀裂が入る出来事だった。
 第二編「まりこさん」は、転勤により三十歳を前にして故郷で働くことになった会社員・由美が、小学生の一時期だけ仲が良かった三十歳年上のまりこさんのことを思い出す。〈大人はいつも私を子ども扱いするけれど、まりこさんは私を一人の人間として見てくれる〉。幼い頃の由美はそう思っていたが、母は異なる評価を下した。〈大人と大人だと、あの人と関わるのは難しいの〉。久しぶりに彼女の家を訪れると当時に輪をかけた猫屋敷となっており、二十年ぶりに交流を再開させると……。
 第三編「重ね着」は、本書収録作で唯一ホッとできるテイストだ。京都の実家で暮らす独身の姉の元に、結婚を控えた妹が突然東京からやって来て一言、「伏見稲荷、一緒に登ろう」。道中で交わされる二人の会話には、それぞれの価値観の違いが反映されている。その違いは何によって表されているのか? 怒るきっかけや、怒りの燃料となるものの違いだ。
「キレるに根拠なし、怒るに根拠あり」とはどこからか流れてきたインターネットミームだが、おおいに頷ける。感情的な反応としての「キレる」は、抑えようとしても抑えきれない、あるいはこちらに向けられても対処のしようがないが、「怒る」には論理的な理由がある。つまり、言語化が可能である。それゆえに対話も可能となり、新たな意見を受け入れ再点検することで、自己の(他者の)論理を変化させることもできる。端的に言えばその論理とは、個々人が意識的・無意識的に持つ「正しさ」(「正しくなさ」)に関わる。古今東西、「正しさ」を巡る葛藤がエンターテインメントで無かったことはない。
 それまでの三編でも垣間見えていた「怒り=正しさ」の真理を徹底的に可視化してみせたのが、最終第四編「呪縛」だ。青春時代を、認知症の父を介護するヤングケアラーとして過ごした麻希は、自他共に認める「いい子」だ。父を看取った後で休学していた大学を卒業し、東京のIT企業に就職して新生活をスタート。初めての恋人もできたが、一番身近な存在である彼に対しても「ありのままの自分」をさらけ出すようなことはできなかった。そんな折り、同期の男性から同棲中の恋人・詩乃を紹介される。詩乃は女友達がいないため、友達になってほしいのだと言う。気配り上手な詩乃とのコミュニケーションに心地良さを覚えた麻希は、あっという間に仲を深める。「私ね、良くない人と付き合っちゃうことが多いんだ」。初対面で詩乃が放った言葉が時の経過とともに現実化し、麻希は彼女を庇護することを決めて――〈友情を基盤とした寄り添いには、恋愛にはない無垢な安心感がある〉。そして、地獄の釜の蓋が開く。そこでぐつぐつと煮込まれていた「怒り=正しさ」は、恋愛関係や肉体関係への傾斜がない「女二人」の関係だったからこそ、より破壊力を増すこととなった。ラスト三ページの描写は、言語芸術として高い達成を誇る。この体内時間の感覚は、小説でしか表現し得ないものだ。
 人間の内面を細密に描くことができる小説という表現ジャンルは、登場人物への感情移入を通して、読み手の心を落ち着けたり、癒やしたりすることができる。これまで武田綾乃が書いてきた「女二人」の物語がそうだった。しかし、全く同じ手続きで、読み手の内なるネガティブな感情や思考のありかを探り当て、心の膿みを出すという機能も小説にはあるのだ。その経験は、痛い。しかし、それは経験した方がいい痛みなのだと本書は教えてくれた。

(よしだ・だいすけ ライター)
波 2023年10月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

武田綾乃

タケダ・アヤノ

1992(平成4)年、京都府生れ。2013年、日本ラブストーリー大賞最終候補作に選ばれた『今日、きみと息をする。』で作家デビュー。同年刊行した『響け! ユーフォニアム』はテレビアニメ化され人気を博し、続編多数。2021(令和3)年、『愛されなくても別に』で吉川英治文学新人賞を受賞。その他の作品に「君と漕ぐ」シリーズ、『石黒くんに春は来ない』『青い春を数えて』『その日、朱音は空を飛んだ』『どうぞ愛をお叫びください』『世界が青くなったら』『嘘つきなふたり』などがある。

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