らせん状想像力―平成デモクラシー文学論―
2,640円(税込)
発売日:2020/09/28
- 書籍
- 電子書籍あり
この30年、文学の現場では何が起こっていたのか? 俊英による歴史の更新!
平成年間、日本文学はグローバル商品として拡散する一方、インターネットの浸透により市場は収縮した。明治以来の制度が根本的な変容を迫られる中、「私」は異常化し、「世界」はディストピアに変わり、「言語」は世俗化され、作家たちの意識は迷宮化し渦を巻く……圧倒的なスピード感でテキストを読み抜いてゆく思考の冒険!
2 拡散と収縮
3 平成文学と大正文学
4 批評の基準としての「問題」
5 平成文学の問題群
6 問題と共生する
2 ロスジェネのナラティヴ
3 平成の女性小説家と「神話なき神」
4 舞城王太郎と語りの両面性
5 『ファウスト』の作家たち
6 『九十九十九』と物語の中毒者
7 語りの力の再起動のために
2 内向超越のモデル
3 物語と随想
4 身体・翻訳・サバイバル
5 感覚の非人間化
6 ジャーナリズムとの距離
7 膜の文学
8 客観性を凌駕する敵対性
2 平成のポストモダン・ナショナリズム
3 インターネットの「信頼できない語り手」
4 昭和の歯痛、批評の原点
5 震災後のフレームワーク
6 大正、昭和、平成、令和
7 ポストモダンにおける「悪」
8 欲望は「政治と文学」をつなぐか
2 学習の異常化
3 私小説再考――伴侶と依存
4 流出する「私」
5 平成の私小説の時空間
6 資本主義のシステム、家族のトラブル
7 私の再中心化
8 ポストヒューマンの時代
9 「私」の新しい座標
2 犯罪小説の流行
3 近代性の核心としての自己立法機能
4 再演された近代文学――『海辺のカフカ』
5 オブライエン問題
6 村上龍と第二の近代文学
7 サディストとしての他者
8 祝祭と供犠
9 分水嶺としての秋葉原事件
10 犯罪と文学の乖離
2 追悼と他者
3 対幻想の天使的再生
4 随想的小説とゲーム的小説
5 再歴史化のコンテクスト
6 海辺と砂漠のタイムスリップ
7 完璧に充足した人生の耐えがたさ
8 共同幻想の痙攣、対幻想の混線
9 小説的アクセス
2 感染と梗塞
3 平成デモクラシー期の文学
補論II 失われているものを求めて――村上龍の『MISSING』
主要人名索引
書誌情報
読み仮名 | ラセンジョウソウゾウリョクヘイセイデモクラシーブンガクロン |
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装幀 | 新潮社装幀室/装幀 |
雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 280ページ |
ISBN | 978-4-10-353561-4 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | 評論・文学研究、ノンフィクション |
定価 | 2,640円 |
電子書籍 価格 | 2,640円 |
電子書籍 配信開始日 | 2021/03/05 |
書評
「鏡」は先に嗤いだす
私たちはいま、狂った遠近法を生きている。
たとえば、ちょっと名の売れた作家ならSNSのアカウントを持っていて、著作に込めた思いを直接伝えてくれる。話題の作品はすぐに映像化されて、演出家や出演者が「原作の魅力」を饒舌に語る。そちらのほうが読者の身体感覚でも「身近」に感じられるから、本書のような文藝批評――手の届かない遠くにある「作品の意味」を読み解くことで、書き手と読み手を媒介するタイプの書物は、近日めっきりみない。
時間軸についてもそうだ。この春のコロナウィルス禍に際しては、「遅れた独裁国家」だったはずの中国が最初に発動したロックダウン(都市封鎖)を、欧米の「進んだ民主主義国」が陸続と模倣した。結果として「見習うべき国」の所在も転々とし、やれ世界で政府がいちばん賢いのは台湾だ、いやニュージーランドだといった議論が真顔でなされるほどにまで、私たちの空間認識もゆがみきっている。
このとき、ふたつの立場があると思う。
ひとつは、もはや「ポスト遠近法」の時代だと割り切ることだ。時間や空間といった、人間の感覚を中心において世界を腑分けする認識の枠組み自体が、ダサい。AIでも脳神経科学でもなんでもよいが、人の意識を経由せずダイレクトにモノとしての世界に触れうるツールを言挙げし、そちらこそが「リアル」だと宣言する。こうした立場にとっては、作家の感性なる不透明なデバイスから出力される文学というアウトプットは非効率の極みなので、もう、いらない。
もうひとつは、狂気の下に留まる立場だ。正確に言うと、いまの時代には「おかしさ」があるという判断を保持し、観察者自身もまたその瘴気に侵されていることを自覚しつつ、混乱の源泉を見究めようとする態度である。
本書が立つのは、むろん後者のスタンスだ。
著者は目下の病の正体に迫るために、平成の三十年間に生じた小説の変容を俎上に載せる。「語り」「内向」「政治」「私小説」「犯罪」「歴史」の六つの切り口から、昭和の末期までは現実を映す鏡でありえたはずの文学という媒体が、いつ、いかにしてその鮮明さを失っていったのかが探究される。
評者なりの語彙で乱暴に要約すると、三島由紀夫が腹を切るまでの「前期戦後」は、文学が鏡として機能することが自明の時代だった。続く――いわゆるポストモダンと呼ばれた――「後期戦後」の作家たちも、そうした前提へのアンチを演じるかぎりで、かろうじて作中世界を現実の縮図とする作図法らしきものを維持していた。だからW村上と呼ばれた春樹と龍とが、平成の前半にノンフィクションや経済評論へと筆を広げたのも、当時としては自然なことだった。
しかし現実と小説をつなぐ遠近法の解体は、彼らの予想を超えて進んだ。エンタメ小説との境界では「狂った語り手」のモチーフが濫用され、女性の純文学作家はフェティシズム的な身体感覚への偏愛を表明して、標準化された「人間という幻想」を維持しえない時代の到来を告げた。かくして2011年の震災が文壇に再び「政治の季節」をもたらしたときには、ヤケクソに近い猥雑なカオスの煽動しかできないほど、文学が現実に対して切れる手札は尽きてしまっていた。
性倒錯などの被虐体験を通じて他者との境界を無化する快楽を綴った往時の村上龍的な感性は、むしろ自己の輪郭がいかに曖昧になろうとも残り続ける怨念や敵対性の存在を、平成文学に刻印していった。初期の村上春樹が示した世俗から「適度な距離」をとる、日本の随筆文学の系譜をひく姿勢も、接続過多が常態となり誰もが即時のコメントを要求される今日のネット環境では、生き延びられそうにない。
風変わりな副題に表れているとおり、著者はこうした平成の煮詰まった社会状況を「大正」になぞらえる。白樺派的なヒューマニズムに収斂したかにみえた大正文学は、テクノロジーないし革命思想によって既存の人間観を無効にする新感覚派とプロレタリア派に挟撃され、昭和の大波に飲まれていった。平成末期の日本文学もまた、フューチャリストとポリティカル・コレクトネスの双方から草刈り場のように侵食されて、「人間の真実を開示する」ことの特権性を誇ったかつての輝きは、とうにない。
精神の病を体験した文豪は古今数多く、彼らの軌跡をたどる学問を病跡学というが、本書は作家個人ではなく日本という社会の全体が、病んできた過程を辿る稀有な営みといえよう。文学のよき伝統に則して、著者は安易な処方箋は示さない。しかし、病んでいるという自己認識を持つときに、あらゆる病は治癒への一歩を踏み出すのである。
(よなは・じゅん 歴史学者)
波 2020年10月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
福嶋亮大
フクシマ・リョウタ
1981年2月21日京都生まれ。中国文学者。立教大学文学部准教授。文学博士。京都大学文学部中国文学科卒業。2014年『復興文化論 日本的創造の系譜』でサントリー学芸賞受賞。2017年、『厄介な遺産 日本近代文学と演劇的想像力』でやまなし文学賞受賞。2019年、早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞受賞。著書に『神話が考える ネットワーク社会の文化論』、『辺境の思想 日本と香港から考える』(共著)、『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』、『百年の批評 近代をいかに相続するか』等。