
トットあした
1,760円(税込)
発売日:2025/06/26
- 書籍
- 電子書籍あり
トットはあの人達からこんな言葉を受け取って、生きる支えにしてきた──。
「あなたの、そのままが、いいんです!」──向田邦子、渥美清、沢村貞子、永六輔、久米宏、飯沢匡、トモエ学園の小林校長、そして父……幼い頃から人生のさまざまな場面で、徹子さんが大切に受け取り、励まされてきた「二十四の名言」。そんなかけがえのない言葉たちで新たに半生を辿り直した待望の書下ろし長篇エッセイ!
少しだけ、長いまえがき――ふたつの言葉について
1「きみは、本当は、いい子なんだよ!」
小林宗作さん
2「直すんじゃ、ありませんよ。あなたの、そのままが、いいんです!」
飯沢 匡さん
3「あの戦争で、小さな子どもまで含めて、誰もが傷ついたのだと知りました」
かつての兵隊さん
4「君は、とても、元気だね」
もうひとりの兵隊さん
5「かくれていても、解決しないよ」
父
6「普通の眼には見えないもののためにも心を痛める」
チェーホフさん
7「なんで白と黒なんですか?」
パンダ好きの子どもたち
8「次に来る時は、それ、おみやげね」
伯母
9「いや、今がいちばん幸せなんだよ」
永 六輔さん
10「一緒に思い出話をできる相手が一人もいないって、きっと、すごくさびしいことだよ」
小沢昭一さん
11「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」
向田邦子さん
12「あなたがおばあさんになるのを、私は楽しみにしているのよ」
向田邦子さん
13「忍耐力があったこと。目がよかったこと。そして、女であったこと」
リリイ・スタンズィさん
14「修練と勇気、あとはゴミ」
マリア・カラスさん
15「泣くときは、一人で、河原に行って泣け」
近江浩一さん
16「黒柳さんが泣いていますから、もうやめてくださいね」
久米 宏さん
17「自分の子どもが見て恥ずかしい番組だけは作りたくない」
山田修爾さん
18「僕は大丈夫だから、あなたは早く行きなさい」
アラン・ドロンさん
19「息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの」
森 茉莉さん
20「人間ってね、一生懸命やると、後悔しないものよ」
沢村貞子さん
21「自分のイメージをしっかり持って、もっともっと、想像力を働かせるの!」
メリー・ターサイさん
22「あなたのお幸せを祈っています」
インドで出会った男の子
23「お嬢さんはいつも、元気でいてください」
渥美 清さん
24「自分の選んだ道ですもの」
杉村春子さん
書誌情報
| 読み仮名 | トットアシタ |
|---|---|
| 装幀 | 新潮社写真部/装幀写真、新潮社装幀室/装幀 |
| 発行形態 | 書籍、電子書籍 |
| 判型 | 四六判変型 |
| 頁数 | 224ページ |
| ISBN | 978-4-10-355008-2 |
| C-CODE | 0095 |
| ジャンル | エッセー・随筆、ノンフィクション |
| 定価 | 1,760円 |
| 電子書籍 価格 | 1,760円 |
| 電子書籍 配信開始日 | 2025/06/26 |
書評

受け取った「言葉」を繋いでいく
わたしは「言葉」が大好物だ。読書をしていて、人と会話をしていて、良い言葉に出会うと、ノートに書き留めている。
本を読んでいるときなんかは、わたしは良い言葉を収集したくて本を開いているんじゃないかと、最近、人へ本を勧めていて気が付いた。さぁ本のことを説明しようと内容を思い出そうとすると、真っ先に出るのが、あらすじよりも言葉だったりすることがあるのだ。「こんな場面にこんな言葉があって!」とか、「文章が好きだった」、「この表現が刺さった」など、言葉にまつわることを熱弁してしまう。
これまで「言葉」にどれだけ救われてきたのだろう。言葉は色褪せない、とよく聞く表現を使うのは悔しいけれど、つくづく思う。不安になったとき、その瞬間に言葉に出会わなくてもいい。かつて読んだ/かけてもらった言葉を目にする、口に出してみるだけで奮い立たされる。一度出会えば、一生の宝になり、鎧になり、コンパスになる。それが言葉だ。
〈書いておけば、そんな言葉が、私以外の誰かのためにも、いつか役立つことがあるかもしれないし、そんな言葉を私にかけてくれた人たちのことだって、誰かが記憶にとどめておいてくれるかもしれないのだから〉
そんなふうに、黒柳徹子さんが人生の中で出会い、生きる支えにしてきた言葉たちを披露してくれたのが本書だ。“披露”というワードを使ったのは、読んだとき、あぁ徹子さん(親しみを込めて下の名前で呼ばせてください……!)、深いところまでさらけ出してくださっているなぁ、という印象を受けたからだ。言葉をとっかかりに半生を振り返りながらも、自分を形成するもの=言葉を解体して、見せてくださっている。お会いしたことがないのに、勝手ながら、徹子さんの人柄、感性、仕事に対する姿勢や考えを理解したような気になっている。
徹子さんの半生を追うだけでも、充分に読み応えのあるエッセイとなっている。小学校、自由な校風のトモエ学園時代から始まり、〈子どもに絵本を上手に読んであげるお母さん〉になりたいというところからNHKに入ったとき、テレビ女優第一号としてデビューしたとき、「夢であいましょう」などの人気番組に出演していたとき、文学座に入ろうか考えていたとき、ニューヨークへ留学したとき、「ザ・ベストテン」の立ち上げのとき――などなど、非常に興味深い、“芸能史”とも言える時代ごとの裏話が楽しく綴られている。
これらは、人からもらった「言葉」にまつわる逸話の数々。本書は、逸話の根底に「言葉」がある。そして、「言葉」があるということは、「人」がいる。徹子さんと関わったまさにその「人」が、主人公のように立って登場する。永六輔さん、向田邦子さん、小沢昭一さん、渥美清さん、杉村春子さん、沢村貞子さん、ケストナーさん、アラン・ドロンさんといった、今は亡き偉大な方々がここでは生きている。他にも仕事の面で欠かすことのできなかった存在、ディレクターやプロデューサー、演劇学校主宰者。さらに肩書など関係なく出会った、学校の校長、兵隊さん、パンダ好きの子どもたち、伯母、父、といった存在も愛をもって描き出す。
毎日のようにマンションに通って何時間もおしゃべりしていたという向田邦子さんの「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」とか、徹子さんが舞台で芝居をする上でのモットーにしているマリア・カラスさんの「修練と勇気、あとはゴミ」(オペラ歌手にとって必要なものを問われたときの答え)、「ザ・ベストテン」で固い信頼関係のあったプロデューサー・山田修爾さんの「自分の子どもが見て恥ずかしい番組だけは作りたくない」――。わたしの人生においても指針になりそうな言葉が詰まっていた。
徹子さんが誰かの言葉に励まされ、救われ、支えられたように、本書をきっかけに、徹子さんの言葉で心動かされる人が多いはず。わたしもついつい書き留めて、心に置いておきたいと思った徹子さん自身の言葉とたくさん出会うことができた。
〈何歳になっても、何度やっても、舞台に立つのは、いつだって怖いことだ〉には、徹子さんもそうなら大丈夫と背中を押され、〈ニューヨークでいろんなすぐれた俳優を間近で見て、やっぱり何より大事なのは、人間味なんだ、いかにいい人間であるかなんだ〉には、あぁ自分はまだまだ、そして徹子さんのように90歳過ぎても現役でいたい! と奮い立たされた。
植物が水を吸い上げて成長していくように、人の心は言葉で育つ。何となくそうなのではないかと思っていたことが、確信に変わった。だから一生、言葉に触れていきたい、言葉を集めていかねば。そう、生き方も定まるような一冊だった。
(みなみさわ・なお 俳優)
波 2025年7月号より
単行本刊行時掲載
心のなかの湖
この唯一無二の女性が受け取ってきた「あの人たちの言葉」で半生をふり返る、待望の書下ろし自叙伝を読む――
あの日、あのときの言葉が自分を生かしてくれた、あの言葉があったから自分は自分の人生を生きることができた。そんな宝物のような言葉を、人は誰しも抱えて生きていると思う。
「きみは、本当は、いい子なんだよ!」
この言葉を耳にした方も多いだろう。トモエ学園校長の小林宗作先生が幼い黒柳さんに伝えた言葉だ。「先生のおかげで(略)私は自信を持って大人になれたように思っている」と黒柳さんが書かれているとおり、この言葉は彼女を生かし、黒柳徹子という唯一無二の存在を形づくった。
『トットあした』には総勢二十三名の方々による「ささやかで、ごく個人的な、そんな言葉」がちりばめられている。小林先生をはじめ、放送作家の永六輔さん、俳優の小沢昭一さん、作家の向田邦子さん、森茉莉さん……有名人ばかりではない、パンダ好きの子どもたち、そして、インドで出会った男の子まで、と多岐にわたる。
どの言葉も素晴らしい。それ以上に改めて強く感じるのは、黒柳さんの感受性のとびきりのみずみずしさだ。言葉は放つほうの力の大きさだけでなく、聞き手のなかに静かな湖のような受容器がないと、決して響くことがないし意味をなさない。黒柳さんの心のなかにある湖はきっと誰よりも透明で、投げられたのがどんなに小さな石であっても、それは大きな波紋を描いて、奥深くに静かに沈んでいくのだろう。
印象深い言葉はたくさんあったが、例えば向田邦子さんの「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」という言葉は、直木賞を受賞後に飛行機事故で亡くなった向田さんの人生を思うと、胸がつまった。そして、六十歳になってから写真学校に入り、プロの写真家になったリリイ・スタンズィさんの「忍耐力があったこと。目がよかったこと。そして、女であったこと」という言葉。彼女の生き方と共に力をもらえる女性も多いのではないか。
本からの言葉もある。幼少期、黒柳さんが結核性股関節炎での入院中に、夢中になって読んだというチェーホフの「兄への手紙」のなかにある「(教養がある人間は)普通の眼には見えないもののためにも心を痛める」という一節。長く人生を生きてきた人間として背筋が伸びる思いがした。
それでも、宝石のような言葉が並ぶこの本のなかで、私がいちばん印象に残ったのは黒柳さんご自身の言葉だ。それは黒柳さんが三十八歳のときにニューヨークに留学し、通った演劇学校の主宰者、メリー・ターサイさんの項にあった。
「……そして、人間が――特に女性が――、生きていくのはとてもつらいことなんだ、深く傷つかずに、気も狂わずに、自殺を考えることもなく生きていくってことは、大変な事業なんだな、と知った」
黒柳さんが何を見て、このように考えたのか、それについて、詳しくは書かれてはいないが、黒柳さんがニューヨークに行った三十八歳、という年齢は、女性にとって大きなターニングポイントになる年なのではないか。仕事、結婚、妊娠、出産。令和の今になってもなお、どちらを向いても、どれを選んでも、強い光のそばに濃い影がある。自分自身の人生を振り返ってみても、その頃、本当にいろいろなことがあった。私はまだ小説家でもなく、離婚の危機に直面していて、ライターを生業とする自分ひとりの力で子どもを大学に行かせることができるだろうか、と布団のなかでピーピー泣くような人間だった。その年齢になってもまだ自分の人生を歩んでいない、という自信のなさしかなかった。
テレビジョンという未知のメディアの草創期からそのキャリアをスタートさせ、「女性は結婚したら家に入り、子どもを産む」という価値観が当たり前だった時代を生きた、黒柳徹子という一人の女性の生に、痛みや傷がなかったはずがない。けれど、黒柳さんはこんなに大変だった、こんなに苦労した、とは書かずに、「この言葉があったから生きてこられた」と綴る。その姿勢があったからこそ、黒柳さんは誰にも真似のできない人生を生き、着実にキャリアを積みあげて来られたのではないか。
今、人の生き方は多様性に満ちて、自由度が高まっているように見えるけれど、そこから「自分だけの人生を見つけ、それに心血を注いで生きる」ことは、より困難が伴うことになってはいないだろうか、と思うことがある。それでも人生に迷ったらこの本を開いてほしい。『トットあした』にちりばめられた言葉は、自分だけの人生を模索する人たちにとって、大きなインスピレーションの源泉になるに違いない。
(くぼ・みすみ 作家)
波 2025年7月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ

向田邦子さんのこと──『トットあした』より
ふたりで笑い合った、宝石のような時間も思い出していきたい──
また、私の食いしん坊の話になるけど、私の食欲などについては、お医者さまに不思議がられることがあった。
その方は小森昭宏先生といって、脳外科医であると同時に、童謡「げんこつやまのたぬきさん」「おべんとうばこのうた」などで知られる作曲家でもあった。NHKテレビの人形劇「ブーフーウー」(「夢であいましょう」や「若い季節」と同じころの番組で、私は三匹の子ぶたの末っ子、ウーの声をやっていた。台本は飯沢匡先生)も、小森先生の音楽だ。
それに加えて、小森先生のお父さまは新交響楽団(いまのNHK交響楽団の前身)のティンパニ奏者で、同じオーケストラのヴァイオリニストでコンサートマスターだった私の父と長い交流があった、という縁もあって、私たちはよく一緒にお食事に行っていた。
その席で、小森先生に不思議がられたのは、私のあまりの食べっぷりで、
「おかしいな。これだけ食べるひとは、普通は百貫デブ(百貫というのは三七五キロくらいだそうだけど、肥満したひとをからかう、そんな言い方があった)になるんだけどなあ」
と、あきれるように言った。
病院の人間ドックでは、お医者さまから、「どうやら、他のひとの何倍か消化が早いみたいです」と言われたこともある。確かに、昼に盛岡でわんこそばを百杯いただいたあと、東京へ帰って、フルコースをおいしく平らげても、全然平気だった。
消化が早いせいか、食いしん坊のせいか、私は食べるのが早いらしくて、例えば、日本料理屋さんのお座敷でやった対談の席で、私がお食事を出されるままにいただいて、デザートのメロンをおいしく食べているのに、お相手の山川静夫さん(NHKアナウンサーだった)はまだ、つき出しを食べていたので、山川さんをビックリさせたことがあった。
なにしろ、山川さんのつき出しの横には、お刺身や、お吸い物、焼き魚、お野菜の煮もの、酢のもの、てんぷら、茶そば、と、私はもういただいたけど、山川さんの方はまだ手つかずのお皿やお椀が一メートル半くらい並んでいて、そのおしまいにメロンが置かれていた。
これは別に、対談のあいだ、私がずっと黙っていて、食べるのに集中していたわけではない。対談を撮影していたカメラマンの男性は、「そう言えば、黒柳さんが召し上がっているところ、見ませんでしたよ」と首をかしげていたし、山川さんは、あとで対談が載った雑誌を見て、「黒柳さんの方が、たくさんしゃべっている!」と驚いていらした。
コラムニストの山本夏彦さんとの対談の時は、お料理を運ぶおねえさんが、私がすぐお皿を空っぽにするものだから、次から次に運ばなくてはいけないと、あせって畳の上ですべってしまい、お盆を持ったまま、きれいにステンと転んだこともあった。これには私も申し訳なく思って、以来、できるだけ、ゆっくり食べるように意識はしているのだけど、ついつい早く食べてしまう。
そんなふうに、ものすごく早く食べるおかげなのかどうか、私は、食べる量のわりには、確かに、あまり太らない体質みたいだった。
向田邦子さんが亡くなる少し前に、彼女のおすすめの中華料理屋さんに一緒に行ったときも、テーブルに座るなり、「太らないわね」と言われた。知り合って十五年くらいになっていたけど、向田さんの体形も変わったように見えなかったので、
「あなたも変わらないじゃない」
と言うと、向田さんは笑って、
「私、氷囊みたいなの!」
と言った。
ひょうのう、は袋の上のほうでくくってあって、下に行くにしたがって、中に入れた氷水で、でっぷりと、ふくらんでいく。
顔が小さい向田さんが、自分の体形を愉快にたとえた表現だった。
向田さんは、おいしい店をたくさん知っていて、よく一緒に食べに出かけた。だけど、あらためて考えてみたら、どこかのお店に行くよりも、向田さんのお部屋で、ふるまわれた手料理をおいしくいただいた回数のほうが、はるかに多いに違いない。
「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」など、数々の向田ドラマをつくった久世光彦さんは、『触れもせで 向田邦子との二十年』という本に(これは、向田さんへの久世さんの思いがたくさん、つまった本だ)、彼女の部屋で「寺内貫太郎一家」の打合せをしたときのことを書いている。
「行きづまると向田さんは台所へ立って薩摩芋のレモン煮とか、顔を顰めるくらい酸っぱい梅干しとかを持ってくる。客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった。肝心な話より、余談、雑談、無駄話の方が多くて能率の悪い部屋ではあったが、静かで楽しい部屋だった」
ここで久世さんが書いているのは、向田さんの終の棲家になった、南青山のマンションの部屋のことだけど、その前に向田さんが住んでいた、霞町マンションのお部屋も、「客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった」ことを私は知っている。居心地が良すぎて、私はほとんど毎日、霞町マンションの「Bの二」号室に入り浸っていたくらいなのだから。
それは、木造モルタル三階建ての二階の、そんなに大きくない一室だった。玄関を入ってすぐ右手に、向田さんが仕事をしている机があって、私はその脇にあったソファに横になって、向田さんとたわいのないおしゃべりをしたものだった。ソファの向かいに本棚があって、その上にはいつも伽俚伽というシャム猫が乗っかっていた。私が、おなかがへったと言うと、向田さんは、頭にキリリとヘアバンドをして、台所に立ち、チャッチャッと、ごはんをつくってくれた。
久世さんは「薩摩芋のレモン煮とか、顔を顰めるくらい酸っぱい梅干し」をいただいたそうだけど、私が向田さんの手料理でおぼえているのは(あまりに数多くいただいたせいで、かえって、よくおぼえていないのだけど)、茄子の煮びたしとか、古漬けをきざんで覚弥にしたものとか、長ネギのアツアツ油かけとか、サヤインゲンとおろした生姜を和えたものとか、凝ったところでは、トビウオのでんぶとかを出してもらった。
どうやら、そんな料理は、向田さんの『父の詫び状』に出て来る、あのお父さまの晩酌の肴のために、手早く、珍しく、おいしいものをと、考案されたものが多かったようだけど、お酒を飲まない私はごはんのおかずとしていただいて、どれもこれも、おいしかった。「スプーン二杯入れたら、あら不思議、たちまちサッポロの名店の味に!」というフレコミの、ご自慢の自家製タレをたらしたインスタント・ラーメンも、おいしくて、そのタレを少し、わけてもらったこともある。
そして、私が「おいしいわ」と言うと、「そうかしら?」なんて絶対に謙遜しないで、
「案外でしょう?」
なんて、チラッと自慢げに言うところも、私は好きだった。
向田さんが杉並の実家を出て、霞町に引越したのは、前の東京オリンピックの開会式の日だったというから1964年10月10日のこと。彼女が三十五歳になる前の月だ。そして霞町から南青山へ引越したのは六年後、1970年暮れだった。
私が出会った時、向田さんは三十代半ばだった記憶があるから(私は四歳年下)、霞町に引越した翌年あたりのことだと思う。向田さんの書くものによく出演していた加藤治子さんが、私を霞町マンションへ連れていってくれた。
そもそもの出会いは、赤坂のTBSのスタジオだった(私はまだNHKをやめていなかったけど、他の局の番組に出始めていた)。向田さんの書いた、連続もののラジオドラマに出たはずだけど、犬が出てきたこと以外、内容もタイトルも残念ながら、おぼえていない。
いま「向田さんの書いた」と書いたけど、正確には、私がスタジオに行ったとき、いつも筆が遅い向田さんのシナリオは、まだ書きあがっていなかった。こういうとき、作家は、お尻に火がついた状態の番組スタッフにせっつかれ、ペンと原稿用紙を持って、現場にやってくることになる。私たちがスタジオで収録を始めたとき、ガラスの向こうで、向田さんは次の回の原稿を必死に書いていた。つまり、私たちは、向田さんの筆が遅かったおかげで、会うことができたのだ。
ようやくシナリオを書き終えて、ホッとした感じでいる向田さんは、きれいだった。初対面のあいさつをすませた私は、向田さんが髪の毛をきちんとセットされているのを見て、「すごく髪の毛きれい」と言ったら、「どんなときでも頭だけはね。ほかはともかく」と笑った。その言い方や笑い方が、素敵だった。
確かに向田さんは、化粧水をぬって、濃いめの口紅をチョンとつけておしまい、みたいなさっぱりしたメイクをしていた。服装も、後から思えば「いかにも向田邦子!」という感じの、黒がベースのシンプルなものだったし、声も気持ちのいい、少し低音で、少し早口の、それでいて、やわらかいしゃべり方をした。総じて、落ち着いた、知的なお姉さん、という雰囲気だった。私たちは初対面のときから、どこか通じ合うもの、似通ったものを、お互い感じ合っていたと思う。
(このとき以降も、いつだって、「頭だけはね!」の言葉どおり、向田さんの髪は、本当に、手入れが行き届いていた。人としゃべっているとき、しょっちゅう無造作にかき上げていたから、よく手入れされているとは、あまり、気づかれなかったかもしれないけど、きちんと美容院に通っている髪だった。真ん中から分けた黒い髪を、耳の下できれいに切りそろえた、いつものヘアスタイルは、向田さんの小さな顔と、知的な額と、ときおりキリリと吊り上がる美しい目に、とても似合っていた。)
その初対面のときか、二度目に会ったときのことだ。とにかく、やはりTBSのスタジオでのことで、書きあがったばかりの向田さんのシナリオを読むと、「禍福はあざなえる縄のごとし、って言うでしょ?」みたいなセリフが出てきた。だいたいの意味はわかっていると思ったけど、念のため、向田さんに尋ねてみた。
向田さんは、
「人生では、幸せと災いは、かわりばんこに来るの。いいことがあると、必ず、そのすぐ後に、よくないことがあって、でも、その逆もある。つまり、幸福の縄と不幸の縄とを縒ってできているのが人生だ、ということじゃないかしら」
と答えてくれた。
根っから楽天的な私が、ほとんど反射的に、
「あら、でも私は、幸せの縄二本で編んでいる人生がいいな。そういうことって、ないの?」
と質問したら、向田さんは、
「ないの! ないのよ」
と笑って答えた。
その後、長いあいだ、このやり取りを、私が深く考えることは、なかった。やがて、はっきり思い出すことになったのは、向田さんが直木賞を受賞した時の、お祝いのパーティ会場でのことだった。私は、向田さんから頼まれて、そのパーティの司会をしていた。
乾杯の前に、私が「向田さんから、まず、ひとこと」と言うと、向田さんがマイクの前に立って、こう述べた。
「私は長いこと、男運の悪い女だと思い続けてきました。この年で定まる夫も子どももいません。でも、今日、こうやってたくさんの方に、お祝いをして頂きまして、男運が、そう悪い方じゃない、ということが、やっとわかりました。私は欲がなくて、ぼんやりしておりまして、節目節目で、思いがけない方に、めぐり逢って、その方が、私の中に眠っている、ある種のものを引き出してくださったり、肩を叩いてくださらなかったら、いまごろは、ぼんやり猫を抱いて、売れ残っていたと思います。ほかに、とりえはありませんけど、人運だけは、よかったと、本当に感じています。
それと、今日は10月13日ですが、この日は、私の中に感慨がございます。五年前のいまごろ、私は手術(乳ガン)で酸素テントの中におりました。目を開けると、妹と澤地久枝さんがビニール越しに私を見ていたので、『大丈夫』と言ったつもりが、麻酔でロレツがまわりませんでした。そして、明るく人生を過ごすことができるのか、人さまを笑わすものが書けるのか、どれだけ生きられるかも、自信がありませんでした。頼りない気持ちでした。でも、たくさんの方のあと押しで、賞も頂き、五年ぶりに、いま『大丈夫!』とご報告できるように思えます。そんなわけで、お祝いして頂くことは、私にとって感慨無量です。ありがとうございました」
ステージの横で、笑ったり、胸を打たれたりしながら、このスピーチを聞いていた私は、十何年ぶりかで、向田さんから聞いた「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」という話を思い出していた。そして、(本当に、向田さんが言ったとおりだったわ。なのに、私ったら、幸せの縄二本の人生はないの? なんてバカなことを言ったものね)と司会席で、こっそり、おかしがっていた。
このパーティから一年も経たないうちに、向田さんは、家族や友だちやファンや猫を残して、卒然と、台湾の空で消えてしまった。
向田さんの最後の六年間に起きたことは──大きな手術があり、そして「冬の運動会」「家族熱」「阿修羅のごとく」「あ・うん」といったドラマや、「突然あらわれてほとんど名人」と山本夏彦さんに激賞された数々のエッセイの執筆、さらに『思い出トランプ』の短篇小説で直木賞受賞、そして翌年の飛行機事故、だった。
向田さんが亡くなった1981年には、私がトモエ学園の小林校長先生や、泰明ちゃんをはじめとする仲間たちや、そこでの教育の風景みたいなものを残しておきたくて『窓ぎわのトットちゃん』を書き、思いもかけないほど、たくさんの方々に読んでもらうことができた。それはとても幸せな出来事だったけど、本が出た、わずか五ヶ月後に、最愛の友だちである向田さんを亡くしてしまった。
いくら楽天的で、呑気者の私でも、「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉が重く、胸に響いてきた。
* *
それにしても、毎日毎日、向田さんの霞町マンションに通って、何時間も過ごして、よく、あんなにおしゃべりすることがあったな、といまでも思う。あの時間は、いったい何だったのだろう?
当時は民放ドラマが最初の盛り上がりを見せていた時期で、私などにも、よく声がかかっていた。私は、渋谷のNHK、六本木のNET(いまのテレビ朝日)、赤坂のTBSでの仕事が多く、各局にまたがってドラマの掛け持ちもしていたので、ちょうど霞町(いまの西麻布あたり)の向田さんのお部屋は真ん中になるから、撮影と撮影の合間などに、ちょこっと遊びに行きやすかった、ということもあると思う。
もうひとつには、まだ向田さんが、そんなには忙しい時期でなかったこともあるかもしれない。「いま、ちょっと忙しいの」と断られたり、打合せの来客があったりすることが、二、三度続けば、さすがの私も遠慮するようになっただろう。私が訪ねていくと、もちろん仕事をしている時も多かったけど、毛ほどもイヤな顔は見せなかった。
向田さんが仕事をしている間は、私は自分の出るドラマのセリフをおぼえたり、伽俚伽はシャム猫なんだけど、〈名犬ごっこ〉と称して、紙のボールを投げて、じゃらしたりしていた。私は放っておかれても平気な人間だから、向田さんも気兼ねなく、机に向かっていたのだと思う。
彼女の仕事が一段落すると、おしゃべりの時間になる。のちに、向田さんが、まだ珍しかった留守番電話を自宅に取りつけた時(これはもう南青山へ引っ越したあと)、一分ずつしか録音できないテープに向かって、私が連続九回、早口で吹き込んだあげく、「じゃあ、用件はじかに会ったときに話すわね」で終えた話をエッセイに書いて、それが有名になったから、ふたりでいるときも、私が一方的に、喋っていたと思われるかもしれないけど、向田さんもおしゃべり好きだった。
私は、夜は世田谷の実家に帰るので、向田さんちに泊ったりすることはなかった。向田さんが亡くなってから、母に「あなた、本当に向田さんと仲が良かったわね」と言われたことがある。「どうして?」と聞くと、「昼間、向田さんちに寄ってた、って言うでしょ。それが、夜、家に帰ってからも、電話で向田さんとずっと喋ってるんだもの。お仕事が休みの日もよ。よく話すことがあるなあって感心してたの」。
でも、いったい何を話していたのだろう? 日記をつけていたらよかったと残念なほど、記憶がない。それくらい、他愛もないことを、飽きることなく、来る日も来る日も、喋っていたのだろう。前にも書いたけど、向田さんが三十五、六歳、私は三十歳を過ぎたばかりの頃だった。ボーイフレンドのこととか、そんな年頃の女性同士なら、話題に出てもおかしくないだろうけど、男の人の話になったことは一度もなかった。
そのころ、霞町マンションの部屋で、私が、ひとつだけ、疑問というか、うらやましく思っていたのは、帽子をかぶった向田さんのとても素敵な写真があったことだ。いまと違って、みんながカメラを持っている時代でもないし、私は写真を撮られる側の仕事をしているわけだけど、芸能人って、良さそうな写真が撮れたなと思っても、「今日の写真、出来上がったらくださいね」と、よほどしつこく頼まないと、意外と自分の写真を頂けないものなのだ。それが、向田さんが、明らかに素人が撮ったものじゃない、すごくきれいな写真を何枚も持っていたので、(いいなあ、どうしたんだろうな)と思って、しかし、わざわざ尋ねることもなく、そのままになっていた。
そんな疑問が解決したのは、向田さんが亡くなって二十年が過ぎたころ、妹さんの和子さんがお書きになった『向田邦子の恋文』で、年の離れたカメラマンの恋人がいたことを知った時だ。霞町マンションで見た写真の向田さんが、輝くようなうつくしさで、うつっていた理由がわかった。でも、向田さんは一生懸命に尽くしたのだけれど、やがて、病気がちだった恋人は自殺してしまった。そして向田さんは実家を出て、霞町マンションに引っ越したのだ。
私と出会った頃の向田さんは、人生で少し空白のような時期だったのかもしれないと、『向田邦子の恋文』を読んで、腑に落ちた気がした。だから、少し年下で、外で聞いた面白い話もすれば、黙って猫と遊んでいたりもする、私のような存在が、気楽で、ちょうど良かったのかもしれなかった。
これは、その当時から、ぼんやりと感じていたことだけど、向田さんは面白い話や噂話が好きで、二人で笑ってばかりいたのに、虚無的は言い過ぎだし、達観したとも少し違うけど、薄く刷毛で刷いたような翳がある人だった。その頃の私は、そんな向田さんの翳を、私にはない大人っぽさ、のように見ていたかもしれない。私よりお姉さんだから、大人っぽく感じても当り前かもしれないけど、和子さんの本でお相手のことを知ると、ずっと失われていたジグソーパズルの一片が見つかったような気もする。自分のことがあったから、私に「誰かいるの?」みたいなことも聞かなかったのだ。
めずらしく霞町マンションでの会話を思い出したけど、ある年上の俳優さんが、連日やってきて、向田さんに別れ話のグチというか、未練みたいなことを、こぼすのだという。「彼女、ここに来て、毎晩泣くのよ。困っちゃう」と向田さんは言っていたが、それは自分が乗り越えてきたことと較べたら、生きて別れるくらい、大したことないじゃない──と考えていたのかもしれなかった。
あの飛行機事故があって、向田さんの秘めた一途な恋のことを知ると、どうしても、しんみりしてしまうけど、少しおっちょこちょいなところもあって、明るいことが好きで、人を楽しませることが上手で、よく一緒に笑い合ったことも、折にふれて思い出していきたい。
ああ見えて、字が下手だった。シナリオのト書きに「少し狼狽して」と書いたのが、ほかのひとには「少し猿股して」としか読めなくて、その役を演じる池内淳子さんに「ここで私が、ちょっと穿くという意味ですか?」と真剣に聞かれたこと。
まだ生放送の時代に、あるドラマで、女スリが怪しまれないよう、カモフラージュ用の赤ちゃんを抱いていたのだけど、結局、逮捕されて、その赤ちゃんを今度は婦警さんがあやしながら、「早く手紙を持って来て」と言ったから、撮影現場が混乱したこと。向田さんは「牛乳」と書いていたのだ。
筆が遅いから夜中に原稿を自分で印刷所まで届けて、帰りのタクシーで、運転手さんに「私、やっと仕事が終わったから、帰ったらシャワーを浴びて、ビールを呑んで寝るのよ」とか言って、自宅マンションの前に着いたとき、左手に持った千円札じゃなくて、右手に持った家の鍵の方を運転手さんに渡したのに気づかず、おつりをあげるつもりで、「これ取っておいて」「奥さん、いいのかい」「いいわよ」となって、運転手さんに「本気にするぜ」と言われたこと。
ついにタクシーで届ける時間もなくなって、印刷所で原稿を書くこともあった。印刷所の小部屋に入れられて、机がガタガタしても、それどころじゃなくて、向田さんは必死で筆を進めた。だんだん原稿用紙があたたかくなってきたけど、それも構わずに書いていたら、印刷所の人が近づいてきて、「あのう」「待ってください。もう少し!」「そこは……」「〆切に間に合わないんです! この場所、お借りします!」「いや、それ、おれたちの夜食なんです」。「私、お弁当の上で原稿書いてたのよ」と笑っていたこと。
久世光彦さんから珍しく時代劇、それも捕物帳のシナリオを頼まれた向田さんは、例によって、〆切を大幅に過ぎてから、ようやく書き終えて、イライラして待っている久世さんのところへ持っていった。久世さんが見ると、原稿を綴じた表紙に「顎十郎捕物帳」とある。
「こんなに待たせておいて、面白いんだよね?」と問う久世さんに、
「たぶんね。顎って、画数が多いから、書くのに疲れちゃった」
と笑って、向田さんは帰った。
久世さんは楽しみに読み始めた──夜な夜な、江戸に妖しい事件が起きる。現場には、かならず、くちなしの花が一輪、残されている。物語はとても謎めいていて、ヒロインは美しく魅力的で、彼女を助ける主人公の顎十郎もカッコよく、江戸情緒もたっぷりだ。久世さんは「いいぞ、いいぞ」と、ワクワクして読み進めたのに、とうとう最後まで、下手人(犯人)がわからないままだった。しばし呆然としたあと、久世さんが慌てて電話して、「下手人が出てこないじゃないか!」と問い詰めたら、向田さんは、自信ありげだった昼間の様子とは打って変わって、とてもしおらしい声で、「そうなのよ。どうしようかしら」と言ったこと。
私にごちそうしてくれるために、「鯛より断然安くて、断然おいしいのよ」と言って、トビウオのでんぶを、こしらえてくれたとき、トビウオを茹でて、皮から身をとって、骨も小骨もきれいにとって、それを砂糖と味醂とお酒と合わせ、パラパラになるまで丁寧に炒めて、「できたわよ!」と言いながら、骨や皮の方じゃなく、出来上がったばかりのでんぶを勢いよくゴミ箱に放り込んだこと。
そんなことを思い出していると、無性に会いたくなってたまらなくなる。だけど、会おうにも、電話をかけて、留守番電話に吹き込むことさえできない。
「私が書くものに、徹子さんみたいな人は出て来ないの」と言っていた。確かに、「寺内貫太郎一家」を見ても、「阿修羅のごとく」を見ても、「私のやる役はないな」と思う。出会いのきっかけになったラジオドラマ以外、結局、私は向田さんの書くものには一度も出ないままで終わった。ただ、向田さんは、
「でもね、外国映画に出て来るおばあさんみたいに、あなたにしかできない面白いおばあさん役って、あると思うの。早くおばあさんになってね、私、書きたいから」
と言っていた。そのあとも何度か、「早く、おばあさんになってよ。あなたがおばあさんになるのを、私は楽しみにしているのよ」と言ってくれた。私もどれだけ楽しみにしていたことか!
もう、歳をとる楽しみは永遠に失われてしまったけれど、それでも、向田さんは私に、いったい、どんなおばあさんを書いてくれただろう、と考えることだけは、ある。
向田邦子さんの発言など、徹子さんを作った24の言葉で半生を辿った決定版自叙伝『トットあした』は好評発売中。
『トットあした』より、向田邦子さんの章を再録しました。 編集部
(くろやなぎ・てつこ)
波 2026年1月号より
単行本刊行時掲載
森茉莉さんのこと――『トットあした』より
「息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの」
『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』『贅沢貧乏』の作家は秘密の王国のような部屋に住んでいた――
森茉莉さんの小説を、私に激賞したのは三島由紀夫さんだった。
六本木の「鮨長」は三島さんも行きつけにしていて、時おり、顔を合わせた。三島さんの書かれた「熱帯樹」という芝居を観に行ったら、ロビーで私を見かけた三島さんが、文学座の誰かに「紹介して、紹介して」と熱心に言ってくれて、私たちは知り合った。それからは、「鮨長」で会うと、「僕はシャンソン歌手になりたい」とか「今は襟の高いシャツが流行なんだ」とか、朗らかに、いろんな話をしてくれた。
ある夜、三島さんはあの特徴的な大きな目を輝かせながら、
「なんたって、あの時代に『枯葉の寝床』や『恋人たちの森』を書いたんだから、すごいよ(このふたつの小説を森茉莉さんが書いたのはまだ昭和三十年代だった)。ゲイの小説を本格的に書いたのは、彼女が初めてじゃないか」
と、私に言った。他ならぬ、『仮面の告白』の作者が褒めるのだ。たまたま、そのふたつの小説を読んでいて、他に類を見ない、妖しくて、でも優美この上ない世界に惹かれていた私は、(やっぱり! 三島さんが褒めるくらいだから本物なのね)と納得していた。
1903年、森鷗外の長女として生まれた
それから何年かたって、茉莉さんと知り合えて、さっそく三島さんの言葉を伝え、
「どうして、ゲイの小説をお書きになろうとお思いになったの?」
と尋ねると、茉莉さんは、
「私、何かで写真を見たのよ。フランスの映画人とか演劇人がたくさん写っている、パーティか何かの写真で、おおぜいの人がいるんだけど、その中で、アラン・ドロンと、ジャン=クロード・ブリアリがちょっと離れて立っているのに、ふたりの目が互いに合ってたの。見つめ合ってた、というのかしら。その時、あ、これで書こう、と思ったのね」
と答えた。それより前、ジャン=クロード・ブリアリさんが来日したとき、「徹子の部屋」に出て、話してくださったことによれば、彼とドロンさんは一緒にアパートで暮していた(自分のことを別にハンサムとは思っていなかったドロンさんだが、ブリアリさんが強く勧めたから、俳優になったのだという)。一緒に暮すことの意味は、いろいろあるだろうけど、そのことを茉莉さんに伝えると、
「あら、そうなの! それは知らなかったけど、私は、やっぱり正しかったわね」
と、うれしそうだった。
しかし、ふたりの美青年の関係を敏感に察知したことよりも、たった一枚の写真から、あんなに豪華で、なまめかしくて、貴族的で、優雅な小説世界を生み出すことの方が、やっぱりすごいことだ。そんなふうに、茉莉さんは、現実のちっぽけな切れ端のようなものからでも、美の大聖堂を築き上げられる、本当に、稀有な芸術家だった。
私も茉莉さんもよく執筆していた「話の特集」という雑誌が、ある時、何かの記念のパーティを開き、そこで偶然、茉莉さんをお見かけして、同誌の矢崎泰久編集長から紹介してもらったのが最初だった。
私たちは、一瞬で、友達になった。パーティの二次会で行った洋食屋さんでは隣りあわせに座って、大食いの私と同じくらい、茉莉さんも見事な食欲を発揮した。ふたりともお酒を飲まないから、食べるのに集中して、オムライスも、カレーライスも、ビーフシチューやなんかも、女学生みたいに、半分こしたりしながら、ガツガツと食べた。
茉莉さんは当時、「週刊新潮」で「ドッキリチャンネル」という辛辣なテレビ評を連載中で、そこで彼女自身のことを「八十婆さん」と表現していたのを私はおぼえていたけど、とても八十歳には見えなかった。顔が丸くて、しわがなく、血色も良く、手もポチャポチャしていて、表情も豊かで、若々しかった。ただ、頭に巻いたスカーフがちょっとズレると、ピンク色の地肌が見えて、ほとんど毛がないことがわかった。そんな頭が見えていることも平気で、いろんな話をしてくれるのがうれしくて、私たちは一緒に笑いながら、デザートも平らげた。
そのうち二次会もお開きになって、私が自分の車を運転して茉莉さんを送っていくことになった。世田谷の、かつて私の実家のあったあたりまで来ると、「ここが私のアパート」と茉莉さんが言った。ぽつんとある街灯のあかりに、小さな団地のようなアパートが見えた。
「ねえ、二分、お寄りにならない? お引き止めしないから、二分だけ!」
私は喜んで、「はい」と言って、二階にある茉莉さんの部屋まで、手をつないで上がっていった。エレベーターはなく、階段をのぼっていって、暗い外廊下を進んだ、つきあたりの部屋のドアを、茉莉さんは「ここよ」と言って、開けた。
「どうぞ、お入りになって。足元、お気をつけになってね」
なるほど、注意が必要なのはもっともで、入ったところに、空になった、ざるそばや、どんぶりの乗った、出前のお盆が何枚も並んでいて、その脇には新聞がうずたかく積んであり、その上にも、出前のお盆や、どんぶりが重ねて置いてあった。
それは絶妙のバランスで置いてあるらしくて、一見、微動だにしなさそうだった。(これで、よく崩れないなあ)と私が感心していると、茉莉さんが電気をつけた。そこはお台所兼ダイニングのような三畳ばかりの空間だったけど、物がいっぱいで、とてもここではゆっくり食事が取れなさそうに見えた。キッチンシンクには、半分くらい水が入ったアルミのお鍋が置いてあるだけで、煮炊きした匂いはまったくなかった。ゴキブリが五、六匹、慌てたように、物かげへ走り去った。ふだんなら、ゴキブリが一匹でもいたら、キャーッ! と大騒ぎして、殺虫剤を探し回る私だけど、何も言わなかったし、茉莉さんも平然としていた。
小さなテーブルがあって、そのテーブルの上にも、いろんな物が雑然と置かれていた。私たちは椅子に腰をかけた。でも、茉莉さんはすぐ腰を浮かし、椅子を動かして、うしろの冷蔵庫を覗いてコーラの瓶を出してくれ、「一本あったから、半分こ、しましょうね」と言って、また椅子を元の場所に戻して座った。いちいち、そうしないと、床に置かれた物が多いから冷蔵庫が開かないのだ。
それから、栓抜きを探したり、コップを探したりするのに、ひと苦労があった。食器棚はガラスの戸がなくなっていたので、お湯飲みがひとつ、あるだけだとすぐわかった。茉莉さんは、「もう一個、コップがあるはずだわ」と言って、冷蔵庫の横の襖を開けた。そこに襖があるなんて、気づいていなかった私は、びっくりした。
襖の奥は、茉莉さんのベッドルームになっていた。私は、自分の書斎を「蜘蛛巣城」と称しているくらいだから、どんなに散らかった部屋を見せられても平然としている方だけど、この部屋には驚いた。新聞や雑誌が天井近くまで積み上げられて、窓も見えないし、だいいち、ベッドも見えなかった。ベッドと床の区別もつかなかった。かろうじて、テレビがあるのが見えて、その前のへんまで、かぼそいケモノ道みたいな隙間ができているから、その先にベッドがあるんだなと思えるだけだった。たぶん、茉莉さんはあのあたりの狭い空間で横になって、テレビを見て、原稿を書いているんだと、私は想像した。
あまり見ているのも悪いから、観察はすぐ切り上げて、私がテーブルに戻って、しばらく待っていると、「あったわ、あったわ」とグラスを持って、茉莉さんはベッドルームから帰ってきた。私はグラスとお湯飲みを洗って、コーラを半分ずつ注いで、茉莉さんが「乾杯ね」と言って、グラスとお湯飲みをカチンと鳴らし、ふたりでコーラを飲んだ。
あんなに贅沢な乾杯は、それ以前もそれ以後も、したことがない、と今でも思っている。私たちには話すことがいっぱいあった。茉莉さんは、フランス文学者との結婚のこと(「父に言われて撮ったお見合いの写真が、修整のすごく上手な写真館にお願いしたものだから、すごく美人に撮れちゃって、『あれが自分の奥さんになる女性だ』と思っていたら、出てきたのがこれですもの、うまくいくはずないわ」)、離婚のこと、息子さんのこと、パリのこと、いろんな人たちとの交際のこと、小説のことなど、さまざまなことをユーモアたっぷりに話してくださるから、私は笑いっぱなしだった。でも、茉莉さんの話の中心は、やはり、お父さまの森鷗外からどれだけ愛されたか、ということだった。
「すごく美人に撮れちゃっ」たお見合い写真の頃?
途中で、「トイレ、拝借していいかしら?」と尋ねると、「どうぞ、お入りになって。あなたのうしろよ」と言った。私の背後に、トイレのドアがあることにも気づいていなかった。中に入って、電気をつけると、やはりゴキブリが四、五匹走って、どこかへ消えた。お風呂とトイレが一緒になっているスタイルだったが、お風呂は使っている様子はなくて、どこも乾ききっていた。
とにかく、茉莉さんと話をしていると、まわりの光景はまったく気にならなかった。茉莉さんも、「汚くしていて、ごめんなさいね」みたいなことはひと言も言わなかった。あきらかに、茉莉さんにとって、部屋が雑然としていることなど、まったく取るに足らないことだった、というか、まるで目に入ってもいないみたいだった。
二分の約束は、結局、四時間になった。それでもまだ名残り惜しかった。別れ際に電話番号を交換して、私にとっては、夢を見ているような夜が終わった。
1957年、初の著書『父の帽子』刊行の頃
翌日の夜、早速、茉莉さんから電話があった。そして、
「今日は、息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの。もう、うんざりしちゃう。息子の恋人は、きれいな足を、片方は床にのばして、もう片方は膝を立てているの。彼女は、私の父が吸っていたハヴァナ産の葉巻の、箱の蓋の裏に描いてあった女神に似てるわ。息子は、恋人の膝を軽く抱くようにしてね……」
などと語り始めた。
たちまち、私の頭の中に、美しい緑色の芝生の上に、天蓋つきのベッドがあって、その上に茉莉さんが寝そべり、古い映画雑誌を眺めていて、その足元に、ハンサムな息子と美しい恋人がいる、という光景が浮かんでしまった。きっと、茉莉さんの頭の中にも、くっきりと、そんな光景が浮かんでいるに違いなかった。
やっぱり、天井まで積み上がった新聞や雑誌の山も、床いっぱいの物も、ゴキブリも、全然見えないベッドも、ガラス戸のない食器棚も、身の回りのどんな現実も、茉莉さんの世界からは消えているのだ。どんな部屋に住もうが、それはどうでもいいことで、茉莉さんの才能や美意識はいつだって変わることなく、ひとたび原稿用紙に向かえば、美と悦楽と秩序に満ちた作品を生み出せるのだ。そんなことが、人間には可能なのだ。茉莉さんは、それを私にまざまざと見せてくれた。私は、森茉莉という作家のすごさをあらためて知ったような気がして、息子と、きれいな恋人の話を聞きながら、感動のあまり、受話器を持ったまま、心が震えたものだった。
そして、誰も寄せつけない、秘密の王国のような、あの贅沢な部屋に、私を入れてくださったのは、私なら、少しは彼女の秘密をわかるだろう、と思ってのことだ、と、私はうれしかった。
夜、私の家に電話があると、最短でも二時間、長いと四、五時間にもなった。私は、茉莉さんからの電話とわかると、チョコレートなんかを用意して、寝転がって、おしゃべりを楽しんだものだ。
亡くなったのは、私が外国に行っているときだった。だから、「死後二日たって見つかった孤独死だった」と報じられたのは後で知った。でも、それも、なんか茉莉さんらしいじゃない、と私は思った。
『トットあした』より、森茉莉さんの章を再録しました。 編集部
(くろやなぎ・てつこ 俳優)
波 2025年9月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
黒柳徹子
クロヤナギ・テツコ
東京乃木坂生れ。東京音楽大学声楽科卒。NHK放送劇団に入団、NHK専属のテレビ女優第一号となる。文学座研究所、ニューヨークの演劇学校で学び、テレビ、ラジオ、舞台女優として活躍。また、ユニセフ親善大使、トット基金理事長を務め、長年にわたり活動を続ける。著書は、ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』をはじめ『トットの欠落帖』『小さいときから考えてきたこと』『新版 トットチャンネル』『トットひとり』など。



































