
トットあした
1,760円(税込)
発売日:2025/06/26
- 書籍
- 電子書籍あり
トットはあの人達からこんな言葉を受け取って、生きる支えにしてきた──。
「あなたの、そのままが、いいんです!」──向田邦子、渥美清、沢村貞子、永六輔、久米宏、飯沢匡、トモエ学園の小林校長、そして父……幼い頃から人生のさまざまな場面で、徹子さんが大切に受け取り、励まされてきた「二十四の名言」。そんなかけがえのない言葉たちで新たに半生を辿り直した待望の書下ろし長篇エッセイ!
少しだけ、長いまえがき――ふたつの言葉について
1「きみは、本当は、いい子なんだよ!」
小林宗作さん
2「直すんじゃ、ありませんよ。あなたの、そのままが、いいんです!」
飯沢 匡さん
3「あの戦争で、小さな子どもまで含めて、誰もが傷ついたのだと知りました」
かつての兵隊さん
4「君は、とても、元気だね」
もうひとりの兵隊さん
5「かくれていても、解決しないよ」
父
6「普通の眼には見えないもののためにも心を痛める」
チェーホフさん
7「なんで白と黒なんですか?」
パンダ好きの子どもたち
8「次に来る時は、それ、おみやげね」
伯母
9「いや、今がいちばん幸せなんだよ」
永 六輔さん
10「一緒に思い出話をできる相手が一人もいないって、きっと、すごくさびしいことだよ」
小沢昭一さん
11「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」
向田邦子さん
12「あなたがおばあさんになるのを、私は楽しみにしているのよ」
向田邦子さん
13「忍耐力があったこと。目がよかったこと。そして、女であったこと」
リリイ・スタンズィさん
14「修練と勇気、あとはゴミ」
マリア・カラスさん
15「泣くときは、一人で、河原に行って泣け」
近江浩一さん
16「黒柳さんが泣いていますから、もうやめてくださいね」
久米 宏さん
17「自分の子どもが見て恥ずかしい番組だけは作りたくない」
山田修爾さん
18「僕は大丈夫だから、あなたは早く行きなさい」
アラン・ドロンさん
19「息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの」
森 茉莉さん
20「人間ってね、一生懸命やると、後悔しないものよ」
沢村貞子さん
21「自分のイメージをしっかり持って、もっともっと、想像力を働かせるの!」
メリー・ターサイさん
22「あなたのお幸せを祈っています」
インドで出会った男の子
23「お嬢さんはいつも、元気でいてください」
渥美 清さん
24「自分の選んだ道ですもの」
杉村春子さん
書誌情報
読み仮名 | トットアシタ |
---|---|
装幀 | 新潮社写真部/装幀写真、新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 224ページ |
ISBN | 978-4-10-355008-2 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | エッセー・随筆、ノンフィクション |
定価 | 1,760円 |
電子書籍 価格 | 1,760円 |
電子書籍 配信開始日 | 2025/06/26 |
書評

受け取った「言葉」を繋いでいく
わたしは「言葉」が大好物だ。読書をしていて、人と会話をしていて、良い言葉に出会うと、ノートに書き留めている。
本を読んでいるときなんかは、わたしは良い言葉を収集したくて本を開いているんじゃないかと、最近、人へ本を勧めていて気が付いた。さぁ本のことを説明しようと内容を思い出そうとすると、真っ先に出るのが、あらすじよりも言葉だったりすることがあるのだ。「こんな場面にこんな言葉があって!」とか、「文章が好きだった」、「この表現が刺さった」など、言葉にまつわることを熱弁してしまう。
これまで「言葉」にどれだけ救われてきたのだろう。言葉は色褪せない、とよく聞く表現を使うのは悔しいけれど、つくづく思う。不安になったとき、その瞬間に言葉に出会わなくてもいい。かつて読んだ/かけてもらった言葉を目にする、口に出してみるだけで奮い立たされる。一度出会えば、一生の宝になり、鎧になり、コンパスになる。それが言葉だ。
〈書いておけば、そんな言葉が、私以外の誰かのためにも、いつか役立つことがあるかもしれないし、そんな言葉を私にかけてくれた人たちのことだって、誰かが記憶にとどめておいてくれるかもしれないのだから〉
そんなふうに、黒柳徹子さんが人生の中で出会い、生きる支えにしてきた言葉たちを披露してくれたのが本書だ。“披露”というワードを使ったのは、読んだとき、あぁ徹子さん(親しみを込めて下の名前で呼ばせてください……!)、深いところまでさらけ出してくださっているなぁ、という印象を受けたからだ。言葉をとっかかりに半生を振り返りながらも、自分を形成するもの=言葉を解体して、見せてくださっている。お会いしたことがないのに、勝手ながら、徹子さんの人柄、感性、仕事に対する姿勢や考えを理解したような気になっている。
徹子さんの半生を追うだけでも、充分に読み応えのあるエッセイとなっている。小学校、自由な校風のトモエ学園時代から始まり、〈子どもに絵本を上手に読んであげるお母さん〉になりたいというところからNHKに入ったとき、テレビ女優第一号としてデビューしたとき、「夢であいましょう」などの人気番組に出演していたとき、文学座に入ろうか考えていたとき、ニューヨークへ留学したとき、「ザ・ベストテン」の立ち上げのとき――などなど、非常に興味深い、“芸能史”とも言える時代ごとの裏話が楽しく綴られている。
これらは、人からもらった「言葉」にまつわる逸話の数々。本書は、逸話の根底に「言葉」がある。そして、「言葉」があるということは、「人」がいる。徹子さんと関わったまさにその「人」が、主人公のように立って登場する。永六輔さん、向田邦子さん、小沢昭一さん、渥美清さん、杉村春子さん、沢村貞子さん、ケストナーさん、アラン・ドロンさんといった、今は亡き偉大な方々がここでは生きている。他にも仕事の面で欠かすことのできなかった存在、ディレクターやプロデューサー、演劇学校主宰者。さらに肩書など関係なく出会った、学校の校長、兵隊さん、パンダ好きの子どもたち、伯母、父、といった存在も愛をもって描き出す。
毎日のようにマンションに通って何時間もおしゃべりしていたという向田邦子さんの「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」とか、徹子さんが舞台で芝居をする上でのモットーにしているマリア・カラスさんの「修練と勇気、あとはゴミ」(オペラ歌手にとって必要なものを問われたときの答え)、「ザ・ベストテン」で固い信頼関係のあったプロデューサー・山田修爾さんの「自分の子どもが見て恥ずかしい番組だけは作りたくない」――。わたしの人生においても指針になりそうな言葉が詰まっていた。
徹子さんが誰かの言葉に励まされ、救われ、支えられたように、本書をきっかけに、徹子さんの言葉で心動かされる人が多いはず。わたしもついつい書き留めて、心に置いておきたいと思った徹子さん自身の言葉とたくさん出会うことができた。
〈何歳になっても、何度やっても、舞台に立つのは、いつだって怖いことだ〉には、徹子さんもそうなら大丈夫と背中を押され、〈ニューヨークでいろんなすぐれた俳優を間近で見て、やっぱり何より大事なのは、人間味なんだ、いかにいい人間であるかなんだ〉には、あぁ自分はまだまだ、そして徹子さんのように90歳過ぎても現役でいたい! と奮い立たされた。
植物が水を吸い上げて成長していくように、人の心は言葉で育つ。何となくそうなのではないかと思っていたことが、確信に変わった。だから一生、言葉に触れていきたい、言葉を集めていかねば。そう、生き方も定まるような一冊だった。
(みなみさわ・なお 俳優)
波 2025年7月号より
単行本刊行時掲載
心のなかの湖
この唯一無二の女性が受け取ってきた「あの人たちの言葉」で半生をふり返る、待望の書下ろし自叙伝を読む――
あの日、あのときの言葉が自分を生かしてくれた、あの言葉があったから自分は自分の人生を生きることができた。そんな宝物のような言葉を、人は誰しも抱えて生きていると思う。
「きみは、本当は、いい子なんだよ!」
この言葉を耳にした方も多いだろう。トモエ学園校長の小林宗作先生が幼い黒柳さんに伝えた言葉だ。「先生のおかげで(略)私は自信を持って大人になれたように思っている」と黒柳さんが書かれているとおり、この言葉は彼女を生かし、黒柳徹子という唯一無二の存在を形づくった。
『トットあした』には総勢二十三名の方々による「ささやかで、ごく個人的な、そんな言葉」がちりばめられている。小林先生をはじめ、放送作家の永六輔さん、俳優の小沢昭一さん、作家の向田邦子さん、森茉莉さん……有名人ばかりではない、パンダ好きの子どもたち、そして、インドで出会った男の子まで、と多岐にわたる。
どの言葉も素晴らしい。それ以上に改めて強く感じるのは、黒柳さんの感受性のとびきりのみずみずしさだ。言葉は放つほうの力の大きさだけでなく、聞き手のなかに静かな湖のような受容器がないと、決して響くことがないし意味をなさない。黒柳さんの心のなかにある湖はきっと誰よりも透明で、投げられたのがどんなに小さな石であっても、それは大きな波紋を描いて、奥深くに静かに沈んでいくのだろう。
印象深い言葉はたくさんあったが、例えば向田邦子さんの「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」という言葉は、直木賞を受賞後に飛行機事故で亡くなった向田さんの人生を思うと、胸がつまった。そして、六十歳になってから写真学校に入り、プロの写真家になったリリイ・スタンズィさんの「忍耐力があったこと。目がよかったこと。そして、女であったこと」という言葉。彼女の生き方と共に力をもらえる女性も多いのではないか。
本からの言葉もある。幼少期、黒柳さんが結核性股関節炎での入院中に、夢中になって読んだというチェーホフの「兄への手紙」のなかにある「(教養がある人間は)普通の眼には見えないもののためにも心を痛める」という一節。長く人生を生きてきた人間として背筋が伸びる思いがした。
それでも、宝石のような言葉が並ぶこの本のなかで、私がいちばん印象に残ったのは黒柳さんご自身の言葉だ。それは黒柳さんが三十八歳のときにニューヨークに留学し、通った演劇学校の主宰者、メリー・ターサイさんの項にあった。
「……そして、人間が――特に女性が――、生きていくのはとてもつらいことなんだ、深く傷つかずに、気も狂わずに、自殺を考えることもなく生きていくってことは、大変な事業なんだな、と知った」
黒柳さんが何を見て、このように考えたのか、それについて、詳しくは書かれてはいないが、黒柳さんがニューヨークに行った三十八歳、という年齢は、女性にとって大きなターニングポイントになる年なのではないか。仕事、結婚、妊娠、出産。令和の今になってもなお、どちらを向いても、どれを選んでも、強い光のそばに濃い影がある。自分自身の人生を振り返ってみても、その頃、本当にいろいろなことがあった。私はまだ小説家でもなく、離婚の危機に直面していて、ライターを生業とする自分ひとりの力で子どもを大学に行かせることができるだろうか、と布団のなかでピーピー泣くような人間だった。その年齢になってもまだ自分の人生を歩んでいない、という自信のなさしかなかった。
テレビジョンという未知のメディアの草創期からそのキャリアをスタートさせ、「女性は結婚したら家に入り、子どもを産む」という価値観が当たり前だった時代を生きた、黒柳徹子という一人の女性の生に、痛みや傷がなかったはずがない。けれど、黒柳さんはこんなに大変だった、こんなに苦労した、とは書かずに、「この言葉があったから生きてこられた」と綴る。その姿勢があったからこそ、黒柳さんは誰にも真似のできない人生を生き、着実にキャリアを積みあげて来られたのではないか。
今、人の生き方は多様性に満ちて、自由度が高まっているように見えるけれど、そこから「自分だけの人生を見つけ、それに心血を注いで生きる」ことは、より困難が伴うことになってはいないだろうか、と思うことがある。それでも人生に迷ったらこの本を開いてほしい。『トットあした』にちりばめられた言葉は、自分だけの人生を模索する人たちにとって、大きなインスピレーションの源泉になるに違いない。
(くぼ・みすみ 作家)
波 2025年7月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
森茉莉さんのこと――『トットあした』より
「息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの」
『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』『贅沢貧乏』の作家は秘密の王国のような部屋に住んでいた――
森茉莉さんの小説を、私に激賞したのは三島由紀夫さんだった。
六本木の「鮨長」は三島さんも行きつけにしていて、時おり、顔を合わせた。三島さんの書かれた「熱帯樹」という芝居を観に行ったら、ロビーで私を見かけた三島さんが、文学座の誰かに「紹介して、紹介して」と熱心に言ってくれて、私たちは知り合った。それからは、「鮨長」で会うと、「僕はシャンソン歌手になりたい」とか「今は襟の高いシャツが流行なんだ」とか、朗らかに、いろんな話をしてくれた。
ある夜、三島さんはあの特徴的な大きな目を輝かせながら、
「なんたって、あの時代に『枯葉の寝床』や『恋人たちの森』を書いたんだから、すごいよ(このふたつの小説を森茉莉さんが書いたのはまだ昭和三十年代だった)。ゲイの小説を本格的に書いたのは、彼女が初めてじゃないか」
と、私に言った。他ならぬ、『仮面の告白』の作者が褒めるのだ。たまたま、そのふたつの小説を読んでいて、他に類を見ない、妖しくて、でも優美この上ない世界に惹かれていた私は、(やっぱり! 三島さんが褒めるくらいだから本物なのね)と納得していた。

1903年、森鷗外の長女として生まれた
それから何年かたって、茉莉さんと知り合えて、さっそく三島さんの言葉を伝え、
「どうして、ゲイの小説をお書きになろうとお思いになったの?」
と尋ねると、茉莉さんは、
「私、何かで写真を見たのよ。フランスの映画人とか演劇人がたくさん写っている、パーティか何かの写真で、おおぜいの人がいるんだけど、その中で、アラン・ドロンと、ジャン=クロード・ブリアリがちょっと離れて立っているのに、ふたりの目が互いに合ってたの。見つめ合ってた、というのかしら。その時、あ、これで書こう、と思ったのね」
と答えた。それより前、ジャン=クロード・ブリアリさんが来日したとき、「徹子の部屋」に出て、話してくださったことによれば、彼とドロンさんは一緒にアパートで暮していた(自分のことを別にハンサムとは思っていなかったドロンさんだが、ブリアリさんが強く勧めたから、俳優になったのだという)。一緒に暮すことの意味は、いろいろあるだろうけど、そのことを茉莉さんに伝えると、
「あら、そうなの! それは知らなかったけど、私は、やっぱり正しかったわね」
と、うれしそうだった。
しかし、ふたりの美青年の関係を敏感に察知したことよりも、たった一枚の写真から、あんなに豪華で、なまめかしくて、貴族的で、優雅な小説世界を生み出すことの方が、やっぱりすごいことだ。そんなふうに、茉莉さんは、現実のちっぽけな切れ端のようなものからでも、美の大聖堂を築き上げられる、本当に、稀有な芸術家だった。
私も茉莉さんもよく執筆していた「話の特集」という雑誌が、ある時、何かの記念のパーティを開き、そこで偶然、茉莉さんをお見かけして、同誌の矢崎泰久編集長から紹介してもらったのが最初だった。
私たちは、一瞬で、友達になった。パーティの二次会で行った洋食屋さんでは隣りあわせに座って、大食いの私と同じくらい、茉莉さんも見事な食欲を発揮した。ふたりともお酒を飲まないから、食べるのに集中して、オムライスも、カレーライスも、ビーフシチューやなんかも、女学生みたいに、半分こしたりしながら、ガツガツと食べた。
茉莉さんは当時、「週刊新潮」で「ドッキリチャンネル」という辛辣なテレビ評を連載中で、そこで彼女自身のことを「八十婆さん」と表現していたのを私はおぼえていたけど、とても八十歳には見えなかった。顔が丸くて、しわがなく、血色も良く、手もポチャポチャしていて、表情も豊かで、若々しかった。ただ、頭に巻いたスカーフがちょっとズレると、ピンク色の地肌が見えて、ほとんど毛がないことがわかった。そんな頭が見えていることも平気で、いろんな話をしてくれるのがうれしくて、私たちは一緒に笑いながら、デザートも平らげた。
そのうち二次会もお開きになって、私が自分の車を運転して茉莉さんを送っていくことになった。世田谷の、かつて私の実家のあったあたりまで来ると、「ここが私のアパート」と茉莉さんが言った。ぽつんとある街灯のあかりに、小さな団地のようなアパートが見えた。
「ねえ、二分、お寄りにならない? お引き止めしないから、二分だけ!」
私は喜んで、「はい」と言って、二階にある茉莉さんの部屋まで、手をつないで上がっていった。エレベーターはなく、階段をのぼっていって、暗い外廊下を進んだ、つきあたりの部屋のドアを、茉莉さんは「ここよ」と言って、開けた。
「どうぞ、お入りになって。足元、お気をつけになってね」
なるほど、注意が必要なのはもっともで、入ったところに、空になった、ざるそばや、どんぶりの乗った、出前のお盆が何枚も並んでいて、その脇には新聞がうずたかく積んであり、その上にも、出前のお盆や、どんぶりが重ねて置いてあった。
それは絶妙のバランスで置いてあるらしくて、一見、微動だにしなさそうだった。(これで、よく崩れないなあ)と私が感心していると、茉莉さんが電気をつけた。そこはお台所兼ダイニングのような三畳ばかりの空間だったけど、物がいっぱいで、とてもここではゆっくり食事が取れなさそうに見えた。キッチンシンクには、半分くらい水が入ったアルミのお鍋が置いてあるだけで、煮炊きした匂いはまったくなかった。ゴキブリが五、六匹、慌てたように、物かげへ走り去った。ふだんなら、ゴキブリが一匹でもいたら、キャーッ! と大騒ぎして、殺虫剤を探し回る私だけど、何も言わなかったし、茉莉さんも平然としていた。
小さなテーブルがあって、そのテーブルの上にも、いろんな物が雑然と置かれていた。私たちは椅子に腰をかけた。でも、茉莉さんはすぐ腰を浮かし、椅子を動かして、うしろの冷蔵庫を覗いてコーラの瓶を出してくれ、「一本あったから、半分こ、しましょうね」と言って、また椅子を元の場所に戻して座った。いちいち、そうしないと、床に置かれた物が多いから冷蔵庫が開かないのだ。
それから、栓抜きを探したり、コップを探したりするのに、ひと苦労があった。食器棚はガラスの戸がなくなっていたので、お湯飲みがひとつ、あるだけだとすぐわかった。茉莉さんは、「もう一個、コップがあるはずだわ」と言って、冷蔵庫の横の襖を開けた。そこに襖があるなんて、気づいていなかった私は、びっくりした。
襖の奥は、茉莉さんのベッドルームになっていた。私は、自分の書斎を「蜘蛛巣城」と称しているくらいだから、どんなに散らかった部屋を見せられても平然としている方だけど、この部屋には驚いた。新聞や雑誌が天井近くまで積み上げられて、窓も見えないし、だいいち、ベッドも見えなかった。ベッドと床の区別もつかなかった。かろうじて、テレビがあるのが見えて、その前のへんまで、かぼそいケモノ道みたいな隙間ができているから、その先にベッドがあるんだなと思えるだけだった。たぶん、茉莉さんはあのあたりの狭い空間で横になって、テレビを見て、原稿を書いているんだと、私は想像した。
あまり見ているのも悪いから、観察はすぐ切り上げて、私がテーブルに戻って、しばらく待っていると、「あったわ、あったわ」とグラスを持って、茉莉さんはベッドルームから帰ってきた。私はグラスとお湯飲みを洗って、コーラを半分ずつ注いで、茉莉さんが「乾杯ね」と言って、グラスとお湯飲みをカチンと鳴らし、ふたりでコーラを飲んだ。
あんなに贅沢な乾杯は、それ以前もそれ以後も、したことがない、と今でも思っている。私たちには話すことがいっぱいあった。茉莉さんは、フランス文学者との結婚のこと(「父に言われて撮ったお見合いの写真が、修整のすごく上手な写真館にお願いしたものだから、すごく美人に撮れちゃって、『あれが自分の奥さんになる女性だ』と思っていたら、出てきたのがこれですもの、うまくいくはずないわ」)、離婚のこと、息子さんのこと、パリのこと、いろんな人たちとの交際のこと、小説のことなど、さまざまなことをユーモアたっぷりに話してくださるから、私は笑いっぱなしだった。でも、茉莉さんの話の中心は、やはり、お父さまの森鷗外からどれだけ愛されたか、ということだった。

「すごく美人に撮れちゃっ」たお見合い写真の頃?
途中で、「トイレ、拝借していいかしら?」と尋ねると、「どうぞ、お入りになって。あなたのうしろよ」と言った。私の背後に、トイレのドアがあることにも気づいていなかった。中に入って、電気をつけると、やはりゴキブリが四、五匹走って、どこかへ消えた。お風呂とトイレが一緒になっているスタイルだったが、お風呂は使っている様子はなくて、どこも乾ききっていた。
とにかく、茉莉さんと話をしていると、まわりの光景はまったく気にならなかった。茉莉さんも、「汚くしていて、ごめんなさいね」みたいなことはひと言も言わなかった。あきらかに、茉莉さんにとって、部屋が雑然としていることなど、まったく取るに足らないことだった、というか、まるで目に入ってもいないみたいだった。
二分の約束は、結局、四時間になった。それでもまだ名残り惜しかった。別れ際に電話番号を交換して、私にとっては、夢を見ているような夜が終わった。

1957年、初の著書『父の帽子』刊行の頃
翌日の夜、早速、茉莉さんから電話があった。そして、
「今日は、息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの。もう、うんざりしちゃう。息子の恋人は、きれいな足を、片方は床にのばして、もう片方は膝を立てているの。彼女は、私の父が吸っていたハヴァナ産の葉巻の、箱の蓋の裏に描いてあった女神に似てるわ。息子は、恋人の膝を軽く抱くようにしてね……」
などと語り始めた。
たちまち、私の頭の中に、美しい緑色の芝生の上に、天蓋つきのベッドがあって、その上に茉莉さんが寝そべり、古い映画雑誌を眺めていて、その足元に、ハンサムな息子と美しい恋人がいる、という光景が浮かんでしまった。きっと、茉莉さんの頭の中にも、くっきりと、そんな光景が浮かんでいるに違いなかった。
やっぱり、天井まで積み上がった新聞や雑誌の山も、床いっぱいの物も、ゴキブリも、全然見えないベッドも、ガラス戸のない食器棚も、身の回りのどんな現実も、茉莉さんの世界からは消えているのだ。どんな部屋に住もうが、それはどうでもいいことで、茉莉さんの才能や美意識はいつだって変わることなく、ひとたび原稿用紙に向かえば、美と悦楽と秩序に満ちた作品を生み出せるのだ。そんなことが、人間には可能なのだ。茉莉さんは、それを私にまざまざと見せてくれた。私は、森茉莉という作家のすごさをあらためて知ったような気がして、息子と、きれいな恋人の話を聞きながら、感動のあまり、受話器を持ったまま、心が震えたものだった。
そして、誰も寄せつけない、秘密の王国のような、あの贅沢な部屋に、私を入れてくださったのは、私なら、少しは彼女の秘密をわかるだろう、と思ってのことだ、と、私はうれしかった。
夜、私の家に電話があると、最短でも二時間、長いと四、五時間にもなった。私は、茉莉さんからの電話とわかると、チョコレートなんかを用意して、寝転がって、おしゃべりを楽しんだものだ。
亡くなったのは、私が外国に行っているときだった。だから、「死後二日たって見つかった孤独死だった」と報じられたのは後で知った。でも、それも、なんか茉莉さんらしいじゃない、と私は思った。
『トットあした』より、森茉莉さんの章を再録しました。 編集部
(くろやなぎ・てつこ 俳優)
波 2025年9月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
黒柳徹子
クロヤナギ・テツコ
東京乃木坂生れ。東京音楽大学声楽科卒。NHK放送劇団に入団、NHK専属のテレビ女優第一号となる。文学座研究所、ニューヨークの演劇学校で学び、テレビ、ラジオ、舞台女優として活躍。また、ユニセフ親善大使、トット基金理事長を務め、長年にわたり活動を続ける。著書は、ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』をはじめ『トットの欠落帖』『小さいときから考えてきたこと』『新版 トットチャンネル』『トットひとり』など。