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浮き身

鈴木涼美/著

1,650円(税込)

発売日:2023/06/29

  • 書籍
  • 電子書籍あり

十九年前、私たちは浮くようにそこに居た。実体験を元に描く慈しみの物語。

彼らが女を商品のようにしか扱えないのと同じで、私は彼らを子供を産ませる男か身体を買う男に峻別することしかできなかった――。十九年前の、デリヘル開業前夜の彼らとの記憶に導かれ、私はかつて暮らした歓楽街へ赴く。酷い匂いの青春はやがて、もうすぐ子供が産めなくなる私の、未来への祈りとなる。新たな代表作!

書誌情報

読み仮名 ウキミ
装幀 石田真澄/写真、弓ライカ/モデル、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 128ページ
ISBN 978-4-10-355151-5
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,650円
電子書籍 価格 1,650円
電子書籍 配信開始日 2023/06/29

書評

虚空に漂えば

桐野夏生

 主人公の「私」は、ふとしたことから十九年前の記憶を蘇らせる。当時の「私」は十九歳。大学にほとんど通わず、飲み屋でバイトをしていた。
 ある夜、「私」は年上のホステス、梨絵さんと連れだって遊んでいるところを、梨絵さんの知り合いのボーイに誘われて、ラブホテル街に建つ古いマンションの十一階の部屋に導かれる。そこでは、三人の男たちがデリヘル、つまり無店舗型風俗店の開業を目指して準備をしていた。
 いつの間にか、その部屋には男たちの仲間や、女たちが足繁く出入りするようになる。デリヘルで手っ取り早く金儲けを企む男たち、それを手伝う男、何をしているのかわからないけど出入りする男、デリヘルで働きたい女、そしてデリヘルで働く気などない「私」も、なぜか入り浸るようになる。
 部屋の記憶は、「私」の嗅覚によって生々しく支えられている。たとえば、いつも漂っている不穏な酸っぱいにおいは何か。誰かの吐瀉物かもしれないし、コンビニのおにぎりが腐敗しているにおいだったかもしれない。そして、得体の知れないビニールのにおい。
 やがて酸っぱいにおいは、皆が吸う煙草のにおいに凌駕されて、煙草のにおいしかしなくなる。それも、女の吸う煙草と男の吸う煙草は違うにおいがする。男がつけているムスク系の香水。渚ちゃんという子はミント・スティックを両手に挟んでコロコロとやっては、いつもその両手のにおいを嗅いでいる。しかし、「私」が嗅ぐと、渚ちゃんの掌からはヨダレのにおいしかしない。嫌悪感も不快感も特に表されずに、「私」は部屋の爛れをにおいで描く。
 男たちは、肉体的な特徴で表される。デリヘル開業を目論む三人の男は、それぞれ黒髪、金髪、顔長男。部屋にしょっちゅうやってくるガタイの良い先輩や、パソコンでチラシやHPを作成する細眉、そしてデブのヤクザに坊主頭の男。男たちは、なぜか名を与えられない。
 対して、女たちは源氏名で呼ばれる。梨絵さん、マリア、ユリカ、チカちゃん、渚ちゃん、ポンちゃん。
 同世代と言っても差し支えない若い男たちが、女を使ってひと儲けしようとする。金欲しさにデリヘルを厭わない女たちがそこに集まってくる。
 だが、「私」は飲み屋で働いているだけで、風俗をするつもりはない。むしろ、風俗嬢に対して微かな侮蔑感さえ持っている。経営に加わるわけでもなく、「私」はただ単にその部屋にいる。では、「私」がそこにいられる理由は何か。
「誰の性器を咥えることも、別に泣くほど嫌ではなかった。それで部屋に出入りする正当な権利がもらえるならよかった。(中略)この部屋にいる限り、少なくともしばらくは何者にもならずに済むように感じて、出ていく理由を持てずにいた」
「私」は限りなく中途半端な存在である。が、しかし、若い女ではある。部屋にいられるということは、誰も口にはしないが、やはり性の場に共にいるということだ。
 部屋での共通言語はセックスである。誰も意識せずに放たれる言語だ。「私」も、最初の夜に、布団を借りるのだからという理由で黒髪と寝る。そのことには何の感想もなく、単に射精はしなかったと思い出す「私」。
 かように定まりのない「記憶」ではあるのに、ここには悪い夢を見ているような苦い淀みがある。
 心理描写はほとんどなく、執拗に描写される部屋のにおいと風景。いったい、この主人公は何を思い出したいのだろうと、読み手は不安を覚える。
 不安こそが、この小説を覆う空気でもある。そのうち、不安の正体がわかる時がくる。これは、怖ろしく空疎な「性」の物語なのだということが。
 作者は心理描写をしないことに技巧を凝らしている。それは、性に伴うはずの精神を排除した「性」を描くことに成功している。精神を排除した「性」はやりきれないからである。虚しいからである。
 昨今、これほど凄みのある作品を読んだことはない。経験値というものがあるとしたら、この年代の人間の経験値は、私たちが思うより深く、残酷な場数を多く踏んで培われたものなのだろう。もっとも残酷という言葉でさえも計ることのできない、質の違う経験なのかもしれない。『浮き身』は、近年稀に見る傑作である。

(きりの・なつお 作家)
波 2023年7月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

鈴木涼美

スズキ・スズミ

1983年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学卒。東京大学大学院修士課程修了。小説第一作『ギフテッド』が第167回芥川賞、第二作『グレイスレス』が第168回芥川賞候補。著書に『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『愛と子宮に花束を 夜のオネエサンの母娘論』『おじさんメモリアル』『ニッポンのおじさん』『往復書簡 限界から始まる』(共著)『娼婦の本棚』『8cmヒールのニュースショー』『「AV女優」の社会学 増補新版』などがある。

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