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叫び

畠山丑雄/著

1,870円(税込)

発売日:2026/01/14

  • 書籍
  • 電子書籍あり

聞いて欲しい人が一人おるんです。政と聖を描く芥川賞受賞作。

早野ひかるは「先生」に打ちのめされ、銅鐸と土地の来歴を学び始める。ここではかつて罌粟栽培と阿片製造が盛んで、満州に渡って「陛下への花束」を編み、紀元2600年記念万博を楽しみにしていた青年がいた。いつしか昭和と令和はつながり、封印されていた声が溢れ出す。大阪と大陸で響き合う夢とロマン、恋愛政治小説。

  • 受賞
    第174回 芥川龍之介賞

書誌情報

読み仮名 サケビ
装幀 須永有 「逆光の中の人」2016/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 144ページ
ISBN 978-4-10-356751-6
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
価格 1,870円
電子書籍 価格 1,870円
電子書籍 配信開始日 2026/01/14

インタビュー/対談/エッセイ

芥川賞受賞記念特別企画

往復書簡「先生とわたし」【中篇】

若島正畠山丑雄

新芥川賞作家の畠山丑雄さんは「受賞のことば」の冒頭、「小説は昔から「取り違え」を書いてきた。『嵐が丘』に“He’s more myself than I am.”(彼は私以上に私である)とある」と記しています。2月に都内で行われた贈呈式で若島正さんと再会し、「先生は人でなしではないか」と申し上げたことなどを思い出しますが、様々な取り違えもあったようで……好評につき延長決定、師弟間の腹蔵ない言葉の応酬と文学談義です。

 若島正様

 先日は芥川賞贈呈式にお越しいただきありがとうございました。会場では娘をお見せできて、とても嬉しかったです。挨拶に伺った際、娘はぐっすり寝ていましたが、きっと先生の謦咳が眠りの中まで響いていたことだと思います。
 いつか先生は、自分の娘が生まれた瞬間は猿のようで全くかわいいとは思えなかった、とおっしゃっていて、私はそのことばを聞いた時、先生はほんらい人間に通っているはずの、温かな血潮が通っていない、人でなしなのではないか、と申し上げたのをよく覚えています。しかしいざ妻の出産に立ち会う直前になると、実際問題として赤ん坊というのは生まれた直後は血だらけでしわくちゃなのだから、自分も先生と同じようにかわいいとは思えないのではないか、と不安になりました。あのとき想像力を働かせず、先生の人間性を否定するようなことばを口にしたことを、ひどく恥じ入りもしました。
 そうしていざ泣き声が聞こえ、血だらけの赤ん坊の姿を目にしたとき、私は心から、かわいい、と思いました。涙も流しました。同時に、やっぱり先生は人でなしなのだ、と安堵もしました。
 などと書いているうちに、先生がある授業でとりあげた、アメリカ文学の短編を思い出しました。といっても私は授業中は小説を読むのが常で、タイトルも作者も覚えていないのですが、確かある夫婦が街中で不要になった赤ん坊を募り、集めた赤ん坊を大きな釜で炒めて、お肌にいい油をつくり、売りさばく。ところがひょんなことで夫婦げんかになり、互いが互いを殺そうともつれあい、二人して釜に落ちてしまう──そんな話だったような気がしますが、こうして筋を起こしてみるとムチャクチャなので、もうちょっと違う話だった気もします。「赤ん坊 油 炒め 釜 短編」のキーワードでGoogle検索したところ圧力IHジャー炊飯器の取扱説明書が出てきました。ちゃんと授業を聞いておけばよかったと反省しています。
 いずれにせよ具体的なことは何も覚えていないのですが、先生が話すのを聞いて大いに笑ったことはよく覚えています。先生自身も、とにかく笑える小説なのだと言っていた気がします。
 うろ覚えのまま書きますが、先生はこの作者は、人でなしである、とも言い切っていました。しかしともかくも腹は括っている。露悪というのともまた違う。露悪は一つの釈明であり、この作者にはやむにやまれぬ切実さがある。その切実さと腹の括りようが、残酷さの底の抜けた、不思議なあかるさをもたらしている、云々。
 先日町田康氏と対談したところ、氏は小説家が小説を書く基本的な態度として「無責任」をあげていました。どういうことかというと、小説というのは大変な目に遭っている人を描写する。ほんらいはそいつを生かすも殺すも作者の胸一つであるのに、それを忘れているかのようにカメラで捉えている。その心が痺れたような感じを、作者は持っているべきである。例えば戦争映画ややくざ映画でも、主人公やその関係者が死ねば皆大騒ぎするが、その背後で景色としてバタバタと死んでいく人間がいる。そこにはある種の焦点と、それを定める作者の手つきがある。そのような景色として死んでいく人間を、小説家もいっぱい殺していく。そういう意味で小説家は人非人である──あまり詳しく書くと「新潮」の5月号(定価一二〇〇円)を買ってもらえなくなるのでこのあたりにしておきますが、そのことばを氏から聞いた時、私は例の圧力IHジャー炊飯器の作者と、先生を思い浮かべました。
 私などはまだまだその域までは至らぬ、温かな血潮の通った人間に過ぎませんが、今後も先生の背中を追って精進していきたいと思います。

畠山丑雄 

 畠山丑雄様

 定年退官してからもう十年近くも経っているのに、学生が書いたものに誤りがあれば指摘してしまうという、教師の癖がまだ抜けきれない悲しい性をお許しください。
 まず「圧力IHジャー炊飯器」の件ですが、これはアンブローズ・ビアスの「犬の油」(“Oil of Dog”)という短篇です。我が国にも蝦蟇の油というのがありますが、この手のインチキ軟膏は万国共通なんでしょうか。
 こんなところで油を売っていないで、本題に行きましょう。「娘が生まれた瞬間は猿のようで全くかわいいとは思えなかった」とわたしが言ったことになっていますが、それは事実誤認です。というか、わたしが同じ文脈でしゃべった二つのことが合成されたものになっていますので、それを説明しておきます。
 わたしの最初の子供は、男の子でした。まるでホタルイカみたいやなあ、と思ったのが、初めてその子を見たときの第一印象です。産道を通ってきて、頭がとんがり帽子をかぶったみたいに見えたからです。初めて我が子を目にしたときにしては、妙な感動のなさだなあと思われるかもしれませんが、それまでに小林信彦の『パパは神様じゃない』を愛読していましたので、自然とそういう態度が身についてしまったのかもしれません。まだお読みになっていなければ、まあ騙されたと思って読んでみてください。
 それはともかく、「猿のようで全くかわいいとは思えなかった」という部分は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』です。ご存知のとおり、『アンナ・カレーニナ』はアンナとヴロンスキー、そしてリョーヴィンとキチイという、二組のカップルをめぐるダブル・プロットになっています。リョーヴィンはすったもんだの挙句、晴れてキチイと結婚し、この大長編が終盤にさしかかったあたりで、キチイの出産場面を迎えます。苦しんで、死にそうだと悲鳴をあげているキチイを目にして、神様、許してください、どうか助けてやってください、とリョーヴィンは祈ります。知識人で無神論者であった彼が、ここで初めて神に祈り、その瞬間だけ神を信じるのです。この小説のクライマックスの一つであり、感動的としか言いようのない場面です。
 しかし、トルストイはとんでもなく凄いと思わされるのはその先で、リョーヴィンが初めて我が子を見るところです。産婆が「おかわいい赤ちゃん!」と言うのに対して、彼はこう思います。「リョーヴィンは悲しくなって溜息をついた。この『おかわいい赤ちゃん』は、彼にただ嫌悪と哀れみの情を呼びおこすばかりであった。それは、彼が期待していた感情とは、まったく違ったものであった」(木村浩訳、新潮文庫)。人間は生きる苦しみを背負って生まれてくる。小さな生き物をその苦しみから守ってやるのが父親の役目だとすれば、リョーヴィンが父親になるのはまだまだ先のことだ、とそんなことを読者に想像させてくれます。リョーヴィンの試練は続くのです。
 トルストイはここで、リョーヴィンの目を通して、この赤ん坊を「その奇妙な、ぐらぐら揺れながら、産着の襟で頭を半分隠した、赤い生きもの」と描写しています。わたしはどうやら、それを「猿みたい」だと記憶の中で翻訳してしまったらしく、授業や酒席でその話を何度もしたことがあります。今回、この機会に『アンナ・カレーニナ』を読み返してみたら、「猿みたい」という言葉は出てきませんでした。感動のあまりの勇み足だと思し召して、トルストイ先生、どうかお許しください。

若島正 

(わかしま・ただし 京都大学名誉教授)
(はたけやま・うしお 作家)

波 2026年4月号より
単行本刊行時掲載

京都の地で育まれたもの

三宅香帆畠山丑雄

『叫び』で第174回芥川賞を受賞した畠山氏。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が大ベストセラーとなり、各メディアに引っ張りだこの三宅氏。京都大学文学部の同窓生でもあるお二人が、自由を満喫した大学時代から、文学の未来まで語りつくします!

京都での大学生活

──お二人はともに京都大学の文学部で学ばれ、入学も一年違いということですが、どのような学生生活を送っていたのでしょうか。

畠山 結局七回生まで大学にいたのですが、三宅さんとは一度もお会いしていませんよね。コミュニティが全然違っていたと思います。僕はサッカー部で、一回生から四回生まで授業にはほとんど出ずにサッカーばかりしていましたし、その後の三年間もどこかに所属するということはなく、自分で小説を読んだり書いたりしていました。

三宅 唯一の共通点は私も大学に七年間いたということですね。学部を四年、大学院、D1まで行きました。

畠山 七年もいると、元取った気がしますよね。本当に楽しい日々で、四年で卒業するなんてもったいないと思っていました。三宅さんはサークルなどには入っていたんですか?

三宅 京都の神社仏閣をまわるサークルと、フリーペーパーを作るサークルに入っていました。前者は週末に集まって、本当に神社仏閣をまわるだけのゆるやかな集まりで、三回生くらいになるとみんな慣れてきて、「今週は銀閣寺か。じゃあ我々三回生は近くの喫茶店でお茶でもして待っていよう」とか、「今週は壬生寺か、久しぶりに行ってみよう」といった雰囲気でした。一通りの神社やお寺をまわれたので、良い経験になりましたね。フリーペーパーを作る方はまた全然違っていて、そこで出会った先輩の影響を受けて批評などを読むようになりました。それが今の仕事につながっている感覚がありますね。

畠山 そこも全然違いますよね。僕は本を読む友達があまりいなかったので、ずっとひとりで読んでいました。

三宅 畠山さんって本当にいろんなジャンルを深く読まれているじゃないですか。例えば海外文学を読もうと思ったのって、どういうきっかけがあったんですか。

畠山 もともと父親がかなりの読書家で、僕が大学に入るときに「何読んだらええかな」って聞いて、最初に渡されたのがレヴィ=ストロース『悲しき熱帯』、ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』、『エリック・ホッファー自伝』の三冊だったんです。

三宅 お父様の趣味が素敵ですね。

畠山 そこから文学にのめり込んで、日本だったら漱石とか鷗外とか、大江、川端、三島みたいに読んでいって、そのまま海外文学も、英文学ならジェーン・オースティン、ディケンズだとか、世界文学全集みたいなところから読み始めたという感じですね。

三宅 私の場合、読書歴を振り返ってみると、京都で過ごした学生時代に、わりと乱雑な読書をしても許される雰囲気があった。それが良かったと思いますね。

畠山 それこそ僕はまわりに読む人がいなかったし、競争意識を持たず、ゆっくり勉強できたのはよかったですね。競争すると、どうしてもニッチな方に行ってしまうじゃないですか。誰も読んでいない本を読むのが一番強いから、最新のものとか、まだ訳されていないものとかを読もうとする。それもすごく大事なんですけど、ものを書くのであれば、基礎体力をつけるために、みなが通るような古典から読んでいく必要があると思います。それはある意味東京と違って、競争がないゆるい空間だったからできたことだと思いますね。

なぜ歴史に向かっていくのか

三宅 今日一番聞いてみたかったことなのですが、畠山さんの小説がいつも歴史の方に向かっていくのはなぜなんでしょうか。

畠山 そもそもエピソードとして興味深いし、小説に使いやすいというのはありますね。その土地のことを調べ上げて、さらに過去へ遡ってみると、メインの歴史にはならなかった小話がいっぱい出てくるんです。そういったものって本当に面白いんですよね。
 それから小説の根源にあるものが歴史にもあると考えていて、僕は「取り違え」みたいな言い方をよくするんですが、小説も歴史も、ある意味三人称というか、ヒズ・ストーリーなんですけど、そのヒズ・ストーリーをマイ・ストーリーと思いこんでしまうというのが肝にあると思っています。読み込んでおもろいなって突っ込んでいくうちに、自分の話だと勘違いしてしまうというか。そのような面白さが歴史にもあると考えているのも理由のひとつかと思います。

三宅 歴史を楽しむことと、小説を楽しむことが、畠山さんの中ではイコールとは言わないまでも、かなり近いことなんですね。

畠山 歴史と小説はもちろん違うものではあるのですが、楽しみようとしては近いと思います。

三宅 いまの歴史のお話ともつながりがあるかと思いますが、『叫び』に限らず、他の作品を読んでいても強く感じるのが、ローカル性という主題です。例えば『叫び』であれば、茨木という土地の歴史とつながることが、ある意味では自己表現にもなり得るみたいな、そういう文脈をすごく感じています。それって抽象的なものが信じられなくなったことの反動なのではないですか。

畠山 ただ僕はこれを手放しに良いものとは思っていません。『叫び』の早野が持っている、「僕がここに来た理由はこれだったんだ」という、自分で見つけたかけがえのないアイデンティティというのは、やっぱり捏造されたものではあるので、すごく危ないとも思うんですよね。陰謀論とほとんど同じであって、それを信じすぎたことで早野自身も破滅に向かってしまうわけです。

役所と「考察的社会」

畠山 少し話がずれるんですけど、僕は役所で働いていて、例えば窓口でなにか紛糾した場合に、「条例でこうなっているので」みたいな対応をすると、「その条例書いたの誰やねん。俺聞いてないぞ。連れてこいや」って言われることがあるんですね。これはまさに三宅さんが『考察する若者たち』でお書きになっていることと繫がると思います。本来は法律って、このテキストとみんなでにらめっこして解釈を引き出しましょうねっていうものだと思うんですけど、そうではなくて、それ書いたやつ、つまり立法者出てこい、そいつと直接話をつけたるわ、という。

三宅 おもしろい。まさに考察的ですね。正解を持っている作者がいる前提というか。

畠山 だから、あまりに考察的な社会になってしまうと、法の支配が成り立たなくなってくると思いますね。世界的にも例えば法の支配よりも、トランプが決めているんだから、彼の話を聞かないといけないみたいな。テキストにりんごは赤いって書いてあっても、オーサーが出てきて、ごめんごめん、実は黄色のつもりで書いててんって言われたら、そっちが正しくなってがらっと色が塗り替えられてしまう世界というか。そういうのって「越後屋おぬしも悪よのう」的なある種のネポティズム(縁故主義)やとも思うし、そういうところで繫がっていると思いましたね。

三宅 トランプの話はまさに私も同じことを感じていました。やっぱり二十世紀って、抽象的なテキストへの信仰があった時代だと思うんです。人間はみんなで決めたルール、テキストを読んで、それを守って自立した市民になって、何か問題が起きたときは言葉で議論するのだ、と考えていた。でも、実は抽象的な思想よりもやっぱり具体的な事例に価値を感じてしまうからこそ、テキスト主義になりすぎた反動として「それ書いたやつ出てこい」と言いたくなる人たちが生まれてくるのだと思います。

畠山 たまに道の駅の野菜とかである「私たちがつくりました」じゃないけど、生産者の顔を想定せずに、テキストだけを享楽的に味わうのって地味なくせに負荷が高すぎて嫌だよねってなってきたと思うんですよね。良い悪いを超えて。『考察する若者たち』は、その時代のあれこれを受け止めていると思いました。

文学が見つけ出す欲望

畠山 『考察する若者たち』の最後には、欲望を見つけ出すことが大事ということが書いてあって、たしかに僕もそう思います。一方で文学としては、頑張って見つけ出した欲望が倫理的に間違っていることもある。きちんと手順を追って見つけた欲望だからこそ見て見ぬふりはできないし、文学っていうのはそういう危なさも含めて書くべきだと思うんですよね。

三宅 私自身の話で言えば、倫理的に間違っているということではありませんが、親の言うことを聞いて地元で就職していたらどうなっていたのかと考えることはよくあります。その方が確かに安全な人生かもしれません。それこそ畠山さんの言葉で言うところの移動しなかった場合の方が、人は安全であることが多い気がします。一方でその欲望を持つこと自体そもそも抑えつけられている人の方が多いのではないか、と私自身は思っていて。なぜなら欲望を見つけてしまったら危ないよ、というメッセージの方が社会では多いからです。

畠山 それはそうだと思いますね。

三宅 それこそ文学の役割みたいな話なのかもしれないですけど、文学が後押ししてくれるものもあれば、もちろんそれで危険な目にあうとか、他人を傷つけてしまうこともある。それでも欲望を持ってしまったんだっていうことも含めて、文学の書くべきもの、読み解くべきものではないかと思ったりもします。

畠山 両方書かないとダメだと思いますね。まず抑圧、という言葉でまとめてしまっていいのかわからないですけど、抑圧された状態にあることを知らしめること。そしてそこから、自分自身の欲望を見つけること。その先にはやっぱり破滅があるかもしれないけれど、小説のいいところは、その破滅に対してジャッジを下さなくていいということですね。あるがままに差し出したらいいということです。これは先日、対談をご一緒した際に町田康さんが仰っていたことでもあるのですが。

三宅 ジャッジする必要がないっていうのは本当にそうかもしれないですね。そこはある意味、批評家と小説家で一番異なるところかもしれません。私は、批評家というのは責任をあえて持つものだと考えています。良い意味で無責任な物語という器に対して、こういう読み方や見方ができると、あえて責任をもって示すのが批評家というか。

畠山 結局ひとつの作品に対して一人だけが評価をするわけじゃないので、複数性が重要だと思います。ひとりひとりの読みは貧しくしかなりようがないですが、それでも安易に社会的なものの見方に逃げずに、きちんと個人的な貧しさを担って持ち寄れば、豊かになり得る可能性がある。みんな違ってみんないいということではないですけど。

三宅 仰る通りで、いろんな読み方があった方がいいと思います。

畠山 書いてる人間としても、もちろん聞かれたら、こういう意図がありますとか答えますけど、やはりそれを裏切るような読みがボンボン出てくると嬉しいなと思いますね。僕も考察だけで終わるのは不満というか、僕がオーサーだから僕が言うたことが正解みたいに思われると困りますし。さっきの立法者出てこいって話に戻ると、普通立法者はもう袖にはけたもんとして、残されたみんなで法というテキストをいじくり回すのが近代以降の共同体の基本だと思うので、書いたやつ出てこいで話が終わってしまうとちょっと辛いと思います。

アフターコロナの世界で

三宅 コロナ禍というのもひとつの大きなターニングポイントだと思っていて、例えば考察的な感覚も、アフターコロナ的な世界観の話だと考えています。

畠山 コロナ禍に関しては、関西にいたこともあって、東京とは少し感覚が違っていました。僕は品行方正にしてましたが、みんな無視して飲みに行ったりしていましたし。在宅勤務組でこっそり旅行いったりとか。そこでだいぶ差はあるなと思いました。東京っていざとなると、国に近いですからね。

三宅 決められた法律で善悪を判断すべきだという感覚は、むしろ思春期にコロナ禍を経験した、若い世代の方が強いのではないかと思います。自分たちより上の世代だと、国家の前に中間共同体の存在感があった気がするんですが、若い世代のほうがすぐに国家の話にいく感じがありますね。

畠山 同時に、法になっていないのに「お前気を使えよ」みたいなのがすごく多かったとも思いますね。法律では別にええねんけど、お前多分病気になるから行かん方がええでっていう、そういうお願いベースみたいな言葉も結構みんな聞くんですよね。お願いで済んだら補償せんでいいので行政としてはすごいラクできてしまう。

三宅 法律はまさにみんなで議論すべき一番のテキスト。畠山さんには役所小説をまた書いてほしいなという気持ちになりますね。役所というか、法学的な世界の見方って案外まだ日本文学では描かれきっていない気がします。

畠山 役所で働いていると毎日がそういう世界なんです。『改元』や『叫び』も役所小説で、一応次も書いているんですが、それが律令をテーマにした作品で、僕の中ではお役所仕事三部作ということで考えています。

〈3月4日、京都大学にて収録〉

(はたけやま・うしお 作家)
(みやけ・かほ 文芸評論家)

波 2026年4月号より
単行本刊行時掲載

芥川賞受賞記念特別企画

往復書簡「先生とわたし」

若島正畠山丑雄

新芥川賞作家・畠山丑雄さんの受賞作『叫び』には、主人公の男を失意のどん底からすくいあげ、厳しく強烈に導く「先生」が登場します。畠山さんにも「先生」と慕う方がいます。ナボコフの『ロリータ』の名訳で知られるアメリカ文学者の若島正さんです。師弟の書簡を今月号と来月号の二回、お届けします。

 畠山丑雄様

 畠山くん、芥川賞受賞おめでとう。
 かつて大学に勤めていたとき、わたしの目から見ると、畠山くんは「授業にはほとんど出てこないが、飲み会ではいつも顔を見る」学生でした。最近の大学事情はどうなっているのか知りませんが、過去の京大にはよくいたタイプで、こう書いているわたしも、学生だった頃は「若島はめったに授業で顔を見ない」と恩師に言われていたので、あまり人のことは言えません。それはともかく、そういう認識がガラッと変わったのは、『改元』の表題作を読んだときです。なんや、畠山くん、小説書けるやないか、というのが正直な感想でした。それまで、畠山くんが書いたものでわたしが読んだのは、あの卒業論文とはとても呼べないフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』論で、うちの英米文では卒業論文を英語で書くのが決まりですが、扱った作家の名前ですらスペリングが間違っている論文というのはおそらく空前絶後でしょう。その記憶があっただけに、まるで別人の手になるような「改元」を読んでびっくりしたのです。
 とりわけ感心したのは、語り手の「私」に対して、そのパートナーである「瑛子」が、電話がかかってきて家を出てからの行動を話す場面です。作品全体は一人称の語りではあるものの、そこで視点が「私」から「瑛子」へと微妙に移行します。「瑛子」が「私」に話した内容という枠があるので、極端な変化という印象は受けませんが、それでも、そこで語られる「瑛子」の意識は決して「私」の意識に還元されるものではありません。
『改元』の出版記念イベントで畠山くんが円城塔さんとトークショーをやったとき、円城さんがまず質問したのもそこでした。「テクニックにしか興味がないので」と円城さんは言っていましたが、それに対して、畠山くんは「そっちのほうが書きやすいので、自然にそうなりました」と答えていて、それを聞いたわたしは、ああ、畠山くんは小説家やなあ、と思いました。その個所の視点の変化は、一見すると破調のようにも見えますが、三人称と一人称が曖昧になり、「龍」が「私」の中を通って「瑛子」の中に流れ込むという物語全体の構図にぴったり収まっています。計算尽くではなく、身体が自然に反応している感じ。小説家やなあ、と思ったのはそういうことです。
 ここでちょっと余談を(わたしが授業中によく雑談をはさんでいたのは、畠山くんも知ってるでしょう)。四十年ほど前、授業でヘミングウェイの短篇「インディアン・キャンプ」を読んだときのことです。ご存知のとおり、ニックが少年時代に人間の誕生と死を同時に目撃してしまうという物語で、強烈な印象を残す名品ですが、いつものように英文レポートを書かせたら、ある学生がこんなことを書いていました。彼がまだ子供の頃、馬のお産を目撃したことがあったとか。子供のくせに助平な奴やなあとまわりにいた大人たちにからかわれながら、「ぼくは西瓜を持って立っていました」とその学生は書いていて、本筋にはまったく関係のないその文章に打たれて、わたしは思わずそのレポートにAをつけてしまいました。記憶の中にある、西瓜を持って立っていたというイメージが、その学生にとって妙なリアリティを持っていたはずで、それが読んでいるわたしを不意打ちにしたわけです。
 こんな思い出話をしたのは、他でもありません、「改元」に大きな瓜が出てくるからです。小説の冒頭で沓脱に置かれるずっしりとした瓜は、終盤近くではシンク下で「熟しきってひとりでに裂け、覗いた青い果肉から汁が陰気に滴り伝って」います。きっと畠山くんは、さまざまなアイデアを内に抱えているでしょう。それがひとりでに裂けたとき、どんな作品がそこから顔を覗かせるのか、今後も楽しみにしたいと思っています。

若島正 

 若島正様

 おっしゃるとおり、学生時代、私の成績は恐るべき低空飛行を続けており、今振り返ってもよく卒業できたものだと思います。先日実家を整理している際に大学の成績表が出てきたのですが、卒論含めほとんどの単位が「可」でした。数少ない「優」は屋久島でヤクザルのフィールドワークをした霊長類研究所のゼミと、アジア・アフリカ地域研究研究科の文化人類学のゼミだったので、やはり文学研究の方に進もうとしたのがそもそもの間違いだったのだと、認識を新たにした次第です。
 卒業論文を提出する際も、「これで卒業させてもらえるだろうか」という不安がありました。中身がカスだったからです。あまりにカスだったので、「もう一度、卒論だけに一年かけてやりなおした方がいいのではないか」とも思いましたが、当時私は七回生で、留年回数が限度に達しており、その年に卒業できなければ放校になる定めでした。どうしようかと悩んでいるとき、たまたま『青春少年マガジン』を読んでいると、小林まことが「ダメなときは無理に糊塗しようとせず、誰が見てもダメだとわかるものを潔く出した」というようなことを書いていて、大いに励まされる思いがしました。
 そうして私は卒業論文を提出し、先生方の爽やかな諦念と毅然とした寛容により、卒業を許されたのでした。試問の際の、先生方の生暖かいまなざしと、教室に満ちた、乾いた笑いを今でもよく覚えております。あのとき、もし先生方に、きびしいことばで詰められていたら、どうなっていたか。きっと泣いていたでしょう。
『改元』をそんな風に読んでいただき、ひじょうに嬉しく思います。私もあの対談で円城さんと先生がその話をしていて、「そんな話だったかしら……?」と思い、家に帰って読みなおしたところ、まさにそんな話になっていたので大変おどろき、膝を打ったものでした。
「インディアン・キャンプ」はなんとなくニックの成長譚の一つ、という記憶はあったのですが、どんな話かよく覚えていなかったので、読みなおしてみました。うーん、おもしろい。いかにもヘミングウェイらしい、過不足のない文章もすばらしいですが、個人的には直近で『叫び』というタイトルで小説を書いたこともあり、この作品においても「叫び」が気になりました。少年ニックが、今からインディアン女性の帝王切開手術をする父に向かって、「このひとに何かあげて、叫ばないですむようにしてあげられないの?」(高見浩訳)と訊く。父は、麻酔の持ち合わせがないのだ、と答えた後に、“But her screams are not important. I don’t hear them because they are not important.” と続ける。いざ手術が始まり、父が麻酔なしのままジャックナイフでインディアンの女性の腹を裂き始めても、インディアンの女性の叫び声は全く描かれない。ニックたちがキャンプについたばかりの時には彼女の叫びは “the noise” と表現されていたが、ここではその “noise” すらが不可聴化されている。無論麻酔なしの帝王切開で、インディアン女性が叫ばぬはずはない、というか、常識的に考えれば今までで一番激しい叫びになるはずである。ではなぜその叫びが小説の記述から漏れているかというと、この小説が基本的にニック視点で動いているからである。つまりニックは父の教え(her screams are not important)を受け入れ、インディアンの女性の叫びよりも、彼女に腕を嚙まれたジョージ叔父の “Damn squaw bitch!” に耳を遣っている。それまでも一度もクオーテーションマークによって前景化されなかった彼女の叫びは、ここでは地の文からも落とされている。ヘミングウェイらしい、過不足のないすばらしい文章であり、これをニックの成長譚と取るなら、そのような「叫び」が風景となり、聞こえなくなることこそ、一つの成長なのかもしれませんね。
 私も一回生の頃、サッカー部の砂川くんと追いコンの漫才のために猛練習をしていると、彼の突っ込みの手が思い切り耳にあたって鼓膜が破れ、耳が遠くなったことがありました(漫才は成功しました)。その砂川くんが先日受賞をお祝いしてくれたのですが、彼は今タンザニアでエアコンを売っているそうです。お互い人生何があるかわからないものだと思います。ちなみにタンザニアはスイカが安くておいしいので、砂川くんは毎日のように食べているとのことでした。

畠山丑雄 

(わかしま・ただし 京都大学名誉教授)
(はたけやま・うしお 作家)

波 2026年3月号より
単行本刊行時掲載

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著者プロフィール

畠山丑雄

ハタケヤマ・ウシオ

1992年大阪生まれ。京都大学文学部卒。2015年「地の底の記憶」で文藝賞を受賞し、2025年『改元』が三島由紀夫賞候補となった。著書に『地の底の記憶』(河出書房新社)と『改元』(石原書房)がある。

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