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雫の街―家裁調査官・庵原かのん―

乃南アサ/著

2,035円(税込)

発売日:2023/06/21

  • 書籍
  • 電子書籍あり

新任地川崎で、彼女の頬を濡らすのは涙の雫か、全てを洗い流す慈雨の雫か。

モラハラ夫、我が子を見捨てる母親、身寄りのない記憶喪失の男……横浜家裁川崎中央支部にやってくる家事事件の当事者たちは多種多彩。社会から零れ落ちそうな人たちの心を開き、それぞれの人生に寄り添うため、赴任したばかりのかのんはひたむきに奔走する! 人間、そして家族の表と裏を心揺さぶる筆致で描く連作短篇集。

目次
幽霊
待ちわびて
スケッチブック
引き金
再会
キツネ
はなむけ

書誌情報

読み仮名 シズクノマチカサイチョウサカンイオハラカノン
装幀 agoera/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 352ページ
ISBN 978-4-10-371017-2
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 2,035円
電子書籍 価格 2,035円
電子書籍 配信開始日 2023/06/21

書評

「生きる価値がある」ことをかのんが教えてくれる

池上冬樹

 家人の買い物の合間に、店の広い駐車場にとめた車の中で、『雫の街―家裁調査官・庵原かのん―』のゲラを読んでいたら、思わず泣きそうになった。これはまずい、こんなところで泣いていられないといったん閉じたのだけれど、その後の展開が気になって仕方がない。それでも我慢して、続きは自宅の書斎で読んだのだが、感涙でした。作者は別に泣かせようと書いているわけではないけれど、一人ひとりの悩みや苦しみが人事ではなく、庵原かのんが、自分にひきつけて考えて対処しようとしているからである。
『雫の街―家裁調査官・庵原かのん―』は『家裁調査官・庵原かのん』に続く、家裁調査官・庵原かのんシリーズの第二作。前作の舞台は福岡家庭裁判所北九州支部で、かのんは少年係調査官だったが、シーズン2は、横浜家庭裁判所川崎中央支部に場所を移して(家裁調査官はほぼ三年ごとに異動をする)、今回は家事事件、離婚や相続など家庭に関する多種多様な事件を扱うことになる。「少年事件なら分かりやすいのだが」という述懐が出てくるが、この分かりにくい複雑な事件であるがゆえに、家族の様々な相を捉えていて厚みがあり、ときに大いに胸に迫るものがある。
 今回も七篇収録されているが、たとえば第三話「スケッチブック」。二十七歳の専業主婦・宮下茉子と一つ年下の居酒屋勤務・宮下竜平との離婚調停である。茉子は十八歳で妊娠し、結婚。十九歳で琴寧を産んだものの二十一歳の時に離婚して、二十四歳で宮下と再婚した。だが、ふたたび離婚を望んでいる。申し立ての理由は夫の暴力のほかに、長女への夫の性的虐待の疑いがあった。かのんは八歳の琴寧と面会して、心理状況を捉えるために「バウムテスト」という投影法心理テストを行い、琴寧の精神状況が極めて深刻であることがわかるのだが、なかなか難しい。
 読んでいて思うのは、とてもではないけれど、僕にはつとまらないということだ。それは多くの読者がそう思うのではないか。この短篇の場合、母親の茉子はスマホ命で、わが子のことは放ったらかしで遊びほうけている。父親はコロナ禍で仕事が不安定になり、義理の娘に異常な欲望を抱いているようにみえる。どうしようもない現代の若き父親・母親像がここにあり、ねじれた親子関係を良き方向にもっていこうとするのだが、簡単ではない。でも、それをかのんは可能にするのだ。
 家裁調査官と簡単にいうが、国家試験に合格した後、二年間の研修期間中に法律や社会学とともに心理学も学び、正式に調査官になってからも定期的に研修を受けて経験と知見を深める必要がある。なぜなら、裁判所という「法律」を扱う場所では、「調査官だけは人間そのものと向き合う臨床家という立ち位置にある」からだ。「裁判所には、ありとあらゆる境遇の、実に様々な人生を背負った老若男女がやってくるわけだから、それらの人々にきちんと対応出来るだけのスキルが必要」となるのである。
 この場合のスキルのひとつとは相手の言葉が本当かどうかを見極める術である。なぜなら本当の心の内まではわからないし、しかもみんな嘘をつく。でも、「嘘をつくには、それなりの理由がある」。だから決して焦らず、丁寧に向き合うしかない。そのかのんの慎重な姿勢があるからこそ、人は心を開くし、気づきをえることになる。
 第五話の「再会」もまた捩じれてしまった元夫婦の話で、母親に捨てられたと思い込んでいる子どもたちと母親の再会を静かに熱く語っていて泣かせるし、第六話「キツネ」は別れた妻が結婚中から悪事を重ねていて被害にあったこと、さらには息子がDNA鑑定の結果、自分の子どもではないことが判明し、別れた元夫が慰謝料を請求する話であるが、読者の予想とは違うところに着地して、思わずこちらも感涙。生きる価値がある、人を信頼する道もある、充分に報われるものがあることを教えてくれる。まだまだ人の道は捨てたものではない、優しく自分たちの信ずる世界を肯定してくれて嬉しくなる。
 そして巻末の第七話「はなむけ」もまた、たまらない。十五年の内縁関係の解消を申し立てた女性(四十四歳)の物語には、非行に走り鑑別所に入っている二人の子どもの問題も関わってくるのだが、居酒屋を経営しているとはいえ、女性は昼間から酒を飲み、内縁の夫は夫で交通事故の影響で仕事もままならない。どうみても絶望的で誰もが納得するような解決策もないし、物語としても気持ちいい着地はないだろうと思っていたら、やる瀬ない、でも温かな結末を迎えるのである(駐車場で泣きそうになった場面だ)。
 言い忘れたが(本当は最初にいうべきだったが)、かのんは前作で恋人関係だった動物園の飼育員のくりりんとは結婚をし(毎回二人が食べるバラエティ豊かな料理が美味しそうだ)、仕事以外にも自らの家事問題が起きるし(栗林の母の個性が強く、嫁・姑問題が起きるかも)、七話の中で、数話で解決するサイド・ストーリーもあり、とにかく読み応えがある。前作を読んでなくても、いきなり本書から始めてもかまわない。とにかく乃南アサの傑作シリーズであることは間違いないし、シーズン3が待ち遠しくなる。

(いけがみ・ふゆき 文芸評論家)
波 2023年7月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

乃南アサ

ノナミ・アサ

1960年、東京生れ。早稲田大学中退後、広告代理店勤務などを経て、1988年に『幸福な朝食』で日本推理サスペンス大賞優秀作を受賞し、作家活動に入る。1996年に『凍える牙』で直木三十五賞、2011年に『地のはてから』で中央公論文芸賞、2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。他に『鎖』『嗤う闇』『しゃぼん玉』『美麗島紀行』『六月の雪』『チーム・オベリベリ』『家裁調査官・庵原かのん』など、著書多数。

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