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晴子情歌 上

高村薫/著

1,980円(税込)

発売日:2002/05/31

書誌情報

読み仮名 ハルコジョウカ1
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 382ページ
ISBN 978-4-10-378402-9
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,980円

母という名の壮大な海。高村薫の五年間はこのために費やされた!

北洋漁船に乗り組む青年のもとに、青森の母から届き始めた大量の手紙。母の半生を告白するその手紙の中には、彼の見知らぬ母の姿があり、近代日本が忘れ去ろうとしている履歴がつづられていた。しかし母はいったい何を息子に告げようとしているのか。母とは一体、何者なのか。大作長編1300枚。

インタビュー/対談/エッセイ

波 2002年7月号より 〔インタビュー〕 高村 薫 ミステリーを書かなかった理由

高村薫

ミステリーではないがミステリアス

――刊行されてまだ間もないですが、編集部に寄せられた読者の反応は上々で、上下巻を一気に読んだという方が多いですね。

高村 それを聞いて少しほっとしています。これまでの私のイメージからミステリーやサスペンスを期待して、がっかりされるんじゃないかと心配でしたから。

――「ミステリーのない高村薫が一段とミステリアスで思わず一気に読破した」という愛読者カードが印象的でした。意外に高村ファンにとってミステリーというジャンルの枠は頑固なものではなかったということでしょうね。

高村 今度の作品は「事件」といったストーリー展開の核になるものをあえて考えませんでした。細部がすべてその核に奉仕しなければならなくなるからです。『晴子情歌』ではこれまで書かなかったことを描いてみようと思っていました。例えば合田刑事であれば、当然父母もおり、関係のあった女性もいるはずですがそれは敢えて描かなかった。描くとスピード感とか、サスペンスに不可欠なものを犠牲にしなければなりませんからね。

――今月、野崎六助さんが『高村薫の世界』という読書案内本を情報センター出版局から刊行されました。野崎さんは、『晴子情歌』はもちろんミステリーではないが、謎を小出しにしながら読むものを引っ張ってゆくという点で、ミステリーファンをも十分満足させるものだ、と言っています。また、ある女性評論家は、この作品を読んで、高村さんは「物語のうねり」をペンだけで作れる稀有な作家だと感嘆していました。

震災体験と般若心経

高村 これから先、ミステリーを一切書かないというわけではないんです。ただ一九九五年一月の阪神大震災を身近に体験して、人生観が変わった。ちょうど年齢的にも小説家としての転機が訪れる時期でしたが、震災でそれがかなり早まったということですね。

――これまでの作品はキリスト教的というか西欧的な世界観がベースにあったように思いますが、今度はそれが仏教に取って代わられている印象を受けます。それも震災体験からでしょうか。

高村 これは経験した者でないと分からないんですが、まさしく死の体験なんです。グラグラッときたあと、自分は生き残ったけれどもご近所で亡くなった方がたくさんおられる。それが六四○○人ですよ。これをどういうふうに自分の中におさめようかと考えたときに、仏教しかなかった。キリスト教ではなかったんです。死ぬいわれのない六四○○人の人々が神の国に召されたというふうにはどうしても思えなかった。そこに仏教が降って来たんです。これはもう般若心経だと。

――それで彰之を将来の僧侶にしたということなのですね?

高村 世紀末的気分の続く今日、日本人にとってやはり仏教だと思っていますので、何らかの形で僧侶を登場させたかった。僧侶はふつう男ですからね。当然僧侶も人の子ですから母親がいて兄弟がいて一族がいてということで、僧侶=彰之=男、そこから母親=晴子という設定になったわけです。母と息子の物語として構想するまでの過程をいえばそうなります。

――その彰之と晴子を立たせたい場所は、あらかじめ高村さんのなかであたためられていたわけですよね。

高村 それが青森県の七里長浜です。はじめて訪れたのが九三年ですが、この地を小説にしたいという衝動がそのときにありまして。「ぎゃーてーぎゃーてー」という般若心経と響きあう土地としてここを選んだのです。気候の関係で、空もない海もない、ひたすら風が鳴っている。形あるものがない、見えないというのは、まさに般若心経の世界です。

手紙というメディア

――作品の冒頭でそこにまず彰之を立たせ、漁船に乗り組んでいる彼のもとに母・晴子が書き送ってくる大量の手紙について言及されます。そこからこの小説の基本的スタイルが提示されるわけですが。

高村 手紙というスタイルについてはずいぶん考えました。手紙のなかの人称は確かに私という一人称ですが、手紙というからには必ず語りかける相手がはっきりしている。そういう意味で私小説の「私」とは全く違う。母の手紙があって息子がそれに呼応してゆく。これは母子もそうだし、人間同士みんなそうだと思うんですが、絶えず人は回りの人間と呼応しながら物を考えたり感じたりしている。そういう眼で晴子の一生を見ると、この小説は息子の彰之が晴子の一生を少しずつ自分に引き寄せてゆく、あるいは発見してゆく過程なのかも知れません。

――読者の反応のひとつとして面白かったのは、自分の母親から正面切って手紙をもらったらどうしよう、かなり悩むんじゃないかというのがありました。

高村 今は手紙というメディアが存亡の危機ですからね。でも晴子の時代の意思疎通手段としては手紙がもっとも自然です。なぜ会話じゃ駄目だったかという疑問が残るでしょうが、遠洋漁船の船室で長時間ひとりで母親と向かい合う、そんな状況を作りたかった。彰之は大量の手紙を読み、反芻し、それでも母の真意が分からない。陸にあがって母と対面しても手紙の内容について議論したりはふつうしませんから、ますます分からない。でも晴子にしてみれば、息子がそんなふうに手紙を読んでずっと物を考えてくれているともし知ったら、それは母としては本望ですよね。これほど幸せなことはない。

二十一世紀に乗り越えられるべき小説を書く

――「自分の祖父母に、生きているうちに話を聞いておきたくなった」という読者が多くて、これも高村効果なんだと嬉しくなりました。

高村 別に最初から一族の物語を展開しようと思ったわけではないんです。しかし、青森の野辺地を取材したときに、当地の大家のありようは都会の人間にはたいへんショックで、その伝統というのが一代限りのものではなくてずっと続くものですから、どうしても血族の物語にならざるを得ない。彰之にしたって突然変異のように出てきたわけではない。何代にもわたるDNAの所産です。ただ、これまではずっと同時代の話しか書いたことがなかったので結構苦労しました。

――一般的に言えば、現代の小説にあまり描かれない世界ですよね。読者が喜ばないだろうという作家の先入観かも知れませんけど、こういうタイプの小説には近頃とんとお目にかかりません。

高村 私、二十一世紀に我々は何を残せるのかということをいつも考えるんです。我々は、そもそも乗り越えるべきものが何も存在しなかった世代です。ポスト何々とか言うだけで実は越えるべき壁がない。一方、私自身、新しい感性や価値観にはついてゆけない。時代の潮流は、それはそれとして認めるけれど、こんな今という時代に、自身が転換期にある作家になにが残せるかと考えたときに、それはやはり、乗り越えられるべき日本語の小説だと。二十世紀にはこういう日本語の小説があった、こういう日本語を育ててきたのが日本の二十世紀なんだと。二十一世紀に乗り越えられるべきものを描くということを考えたんですね。何か新しいものを作るというのは、過去にあるものを破壊してこそですね。だけど、今その破壊するものがはっきりしない。今の小説の言葉はすごく軽いものになっている。これはかつての言語体系を否定しつつも現代が新しい言葉の秩序をつくれなかったためですから、私にとっても非常に切実な問題でした。

近代日本の忘れ物

――二十世紀の日本語小説として残す、という意味で言えば、『晴子情歌』には、漁業とか、炭鉱とか、労働運動とか、現在の日本人の記憶から消えつつある題材ばかりが扱われていますね。

高村 私、装丁に使われた青木繁の「海の幸」が大好きなんです。あそこに描かれた猟師たちの肉体はとても美しい。漁業の労働条件がいかにきびしいものであるかは承知しているつもりですが、そこには労働にともなう官能美というべきものがある。
 北洋漁船で魚鱗にまみれ内臓にまみれて立ち働く姿を描写しましたけれど、それを感傷的に「労働はすばらしい」と言ってみてもしょうがない。端から見た感傷ではなく実際に漁船員たちにとって労働とは何だろうかということを書いたつもりです。書くことによってのみ、それが官能にもなりうる。それは初山別の鰊漁のシーンでも同じです。描いてこその官能です。

――高村さんは、たしか長塚節の『土』を座右の書のひとつに挙げておられましたね。農村文学の古典ですが。

高村 自分には絶対に超えられない作品ですね。農村の自然、農民のしたたかさを歌人らしい眼で描いている。日本人は土地があってこその民族だと私はつねづね思っているんです。近代化につれて、わが国の第一次産業は隅へ隅へと追いやられているけれど、日本人は、体を動かすこと、あるいは土地に根づくことによって、初めて世界観とか人生観とか、あるいは美的感覚とか、いろんな日本人なりのものを獲得して来たんだろうと思います。

――そういえば、高村作品にはA市とかB国とかは出てきませんよね。今回は現地取材に相当時間をかけられましたが、実際の土地を時間をかけて訪ね歩き、土地の人にじっくり話を聞いて、現実の土地の物語として描いてゆく……。

高村 登場人物の名前はともかく、設定した場所は現実のものです。それ以外の設定ができないんです。『リヴィエラを撃て』に出てくる土地も建物も実際にあるものです。外国へ行ってもやっぱり土地。土地があって人間がある。私がアイルランドや青森に惹かれたというのは、土地の風景ですからね。

(たかむら・かおる 作家)

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著者プロフィール

高村薫

タカムラ・カオル

1953(昭和28)年、大阪市生まれ。作家。1990年『黄金を抱いて翔べ』でデビュー。1993年『マークスの山』で直木賞受賞。著書に『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』『空海』『土の記』等。

関連書籍

判型違い(文庫)

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