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雪月花―謎解き私小説―

北村薫/著

1,650円(税込)

発売日:2020/08/27

  • 書籍

本と本とが響き合い奏でる音を愛でる日々。読書愛あふれる初の私小説。

解決のない疑問は、解毒剤のない毒薬のようなものだ――どうして! なぜ? と謎は深まる。江戸川乱歩、三島由紀夫、芥川龍之介、山田風太郎、福永武彦……小説、俳句、詩歌に音楽、小沢昭一の随筆も登場。本を読んではスパークする作家魂。読み手もまた創作者、本読む愉しみを分かち合い、時空をめぐる、日常の冒険。

目次
よむ
つき
ゆめ
ゆき
ことば
はな

書誌情報

読み仮名 セツゲツカナゾトキシショウセツ
装幀 大野隆司/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-406615-5
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,650円

書評

連想のディスクジョッキー

池澤夏樹

 なにしろ北村薫さんだ。博学無双、八宗兼学、万邦無比、縦横無尽の人だ。守備範囲は、むしろ攻撃範囲は、凝ったトリックの創作ミステリから、近代文壇史、詩歌のアンソロジー、父君の伝記、と多彩にして多様。エスカレーターで上るごとに違う売り場が展開される。「おや、中野のお父さん、こちらにいらっしゃいましたか」という具合。
 そのお方が知識と経験を駆使して、連想で話題を繋ぎながら元気なって、のんのんずいずいと(←これはたしか開高健の本で見た表現だが、今ウィキすれば講釈師田辺南龍の口癖だったらしい)書き進められた、恐ろしく知的な漫文、と申し上げてよいか。
 連想だからついこちらも引き込まれる。口を挟みたくなる。
「だからどうというわけではない。しかし、考えているうちに、糸が繋がるように、思わぬところで、それとこれが結び付くのが面白い」というのが原理。あるいは「不思議な縁だ」とか。
 ごく短い引用だけでもガーンと響くものがある。
『虚無への供物』を書いた中井英夫(別号ハネギウス一世、世田谷区羽根木に住んでいたから)に「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」なんて言われると何も書けなくなる。
 その中井英夫のエッセーに「LA BATTEE(ラ=バテエ)」のことが出てくる。芥川龍之介に関わる話題で、もとはフランスの作家ジュール・ルナールが使った言葉。「砂金を洗う木製の皿」である。ふふふ、これについてはぼくは詳しいのだ。明治時代の北海道を書いた『静かな大地』に砂金掘りの男を登場させた。
 あの道具は「揺り板」と呼ばれていた。師匠格の男に連れられて日高の山に入り、「あれを持って、砂を満たし、水の中で揺すって砂金がきらきらと光るところを見たかった」と思うが師匠は貸してくれない。やがて彼は独立して結構な量の砂金を採るのだが。
「六 はな」の章がとりわけおもしろかったのは中村真一郎が登場するからか。『雲のゆき来』などを書いた文学者として敬愛するだけでなく、幸運なことに私的にも行き来があった人である。ともかく座談の達人。いくらでも話が広がるのはこの本に似ている。そしてどこまで本当かわからない。「栗原小巻に好かれて、ぼく困っちゃったよ」なんてホントかな?
 しかしその前に、この章の初めの「はなさくはるにあひそめにけり」に足を止めよう。頭の中で勝手に楽曲が鳴るのを耳の虫という。動画などの画像の断片がつきまとうこともある。同じように詩歌の一句が長くしつこく脳裏に見え隠れする。北村さんではそれが「はなさくはるに……」だったが、ぼくの場合は「いささむらたけ」。それが「むらさめ」だったか「むらくも」だったか、それさえ不分明。必死で記憶を辿って内田百閒の著書の名だったことを思い出し、そこから大伴家持の、「わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも」にたどり着く。だいたいそんなことをやって遊んでいるのだ、我々は。
「六 はな」の連想の基本原理はわかりやすい。最初は『三国志物語』で三人の英雄が義兄弟の契りを結ぶ場面。後の方では「お笑い三人組」や「脱線トリオ」や「てんぷくトリオ」が出てくる。その前に『深夜の散歩』の福永武彦・中村真一郎・丸谷才一。心理の深層を三人という概念が密かに流れている。
 さて中村真一郎。折口信夫に会った話を中村が書いているのだが、それが「数回お目にかかっただけ」から「敗戦直後、毎週」まで本によって幅がある。大森新井宿の中村の家にふっと折口が立ち寄ったなどと具体的な記述もある。
 真実は那辺にありや、と問うことに意味はない。中村は折口を敬愛し、その著作に大きな影響を受け、それを己が幸福として受け入れた。二人の間には堀辰雄という共通の友人がいた。ぼくは『日本文学全集』を編むにあたり何人かの批評家に頼った。折口と中村、丸谷、吉田健一。文学とはそういうものだ。
 しかし、これを書いていて北村さんと昆虫採集の自慢ごっこをしている子供のような気持ちになった。養老孟司vs奥本大三郎のような大家の対決ではなく、ずっと慎ましいコレクション。
 あちらには中野のお父さんがついているが、こちらは孤立無援である。

(いけざわ・なつき 作家)
波 2020年9月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

愛の小説

北村薫

 小説家、研究者として大きな仕事をした和田芳恵は、編集者でもあった。新潮社時代を回想した『ひとつの文壇史』(講談社文芸文庫)に、大流行作家三上於菟吉の言葉が引かれている。三上は『雪之丞変化』の作者。早稲田の先輩、近松秋江について、こう語る。
「どこか、新聞に歴史小説を書きたいから、よろしく頼むといわれたんだよ。この先輩には、ふしぎなヘキがあって、三上の小説はつまらないからやめろ。近松秋江先生に、どうして、新聞小説を書かせないのだと新聞社に投書するんだ。一読者よりと書いてあるが、はがきを見せられると、近松さんの字だから、僕には、すぐ、わかるんだ」
 近松は『黒髪』などのいわゆる情痴小説で知られる。女とのかかわりを事実そのままに書くタイプの《私小説》を代表する作家の一人だ。かなり困った人だったらしい。
 正直いって、今、近松のその方面の小説を読もうという気には、あまりならない。
 だが、こういう《投書》の話には動かされる。男と女がどうしたこうした――より、小説家としてのそういう執着を赤裸の心で描いてくれたら、現代でも読める、力のこもった作品になったろう。
 ここで、ふと思うのはジョージ・ロバート・ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』である。岩波文庫、平井正穂の解説によれば、本国イギリスにおいても版を重ね、我が国でも大正年間に紹介されて以来、読書人に愛され続けているという。
 ギッシングはその序において、これは、ひっそりと逝った、本を愛する者の遺稿であるという。その通り、片田舎で紡がれた英国の『方丈記』であり『徒然草』である。豊かではないが生活に足る金を、思いがけず得たヘンリ・ライクロフトの安らかな生活。
 若き日を回想し、《その頃の私にとっては、金の意味は本を買うこと以外にはなかった。(中略)矢も楯もたまらぬほど欲しい本、肉体の糧よりももっと必要な本というものがあった》と、彼はいう。食べるものを食べなくても、本を買わずにはいられなかった。
 そして今、カタログで注文した本が届き、手をふるわせながら小包をほどく時の喜び。《私は希覯本をあさる者ではない。初版本や大型本なども問題にしない。私が買うのは文学書、すなわち人間の魂の食物なのだ。一番内側の包装紙がめくられて、装釘が初めてちらっと見えたときのあの感じ!》。
 この人間像が根底にあるからこそ、愛され続けて来た私記だろう。しかし、《ヘンリ・ライクロフト》はギッシングにより創造された人物である。彼が、つれづれなるままに綴った――という形の創作だ。土左日記の作者が紀貫之であるようなものだ。非在のライクロフトの心は、ギッシングその人のものである。いうまでもない。その真実性が読者をうつ。
《事実》を書くのが随筆――と思うのは、いたって素朴な読者だけだ。随筆にも、さまざまな形で虚構は侵入する。教科書に載っているような、よく知られた小文中にも、そういう例はある。より語りたいことに近づくためなら、随筆でも平気で《嘘》が語られる。それが正しい道なのだ。
 ジャンル分けなど意味のないものとは思うが、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は何に分類されるのか。随筆かどうかの二択でいえば、より小説に近いのではないか。
 ギッシングには、いかにも短編らしい短編群がある。こういう作品を読むのは、まことに嬉しいものだ。その一方で、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は日本の私小説的手法で、自分を描いた一作とも思える。であるからこそ、変わらず人々の心をつかんで来た。
 私小説の方法は、情痴小説や家庭の葛藤を描くことにのみ適用されるものではなかろう。
 人間の愛や情熱は、さまざまなものに向かう。文字を表現の手段とするものなら、その対象が本を指すのは、いたって自然だ。愛の小説には、そういう形もある

(きたむら・かおる 作家)
波 2020年9月号より
単行本刊行時掲載

あれ、それ、これ

北村薫

「波」、本年2月号に、昨年10月に新潮講座で行なわれた柳家喬太郎さんとの対談を載せていただいた。題して、
 ――「落語の本質」って何でしょう!?
 喬太郎さんに「綿医者」という噺を語っていただき、さて、わたしは、こんな風に口火を切った。

 お腹に傷があるので、笑いながらちょっと痛がってる、という場面がありましたね。あそこでアメリカの小噺を思い出しました――マフィアが活躍した時代のシカゴかどこか、非常に荒れ果てた町で、男が腹に弾を撃ち込まれて血みどろになりながら、グアーッと苦しがってるんです。偶然通りかかった人が怖がりながらも近づいて「大丈夫ですか、痛みますか?」と聞くと、男は苦悶の表情で「ええ、笑うと余計痛むんです」。

 解説するのも馬鹿げているが、不条理なところに面白さがある。気持ちが悪い――だの、あり得ない――だのいっても仕方がない。まさにそこがおかしいのだ。確か、「ミステリマガジン」のコラムで読んだような気がする。
 しかし、通じない人には全く通じない。これを喬太郎さんが、《ああ、いい小噺ですね。洒落てますね》と受けてくださったので、大変、嬉しかった。
 ところが、その後、あることを調べるために和田誠さんの『お楽しみはこれからだ』全七冊を通読した。最近では、読んだ内容をすぐに忘れてしまう。ざるで水をすくうようだから、今のうちに書いておく。
『PART4』まで来て、愕然とした。グレン・ジョーダン監督、ニール・サイモン脚本の「泣かないで」について、こう書かれていた。

 そんなこんなでニール・サイモンお得意の泣き笑いが続く。この作品はやや泣きの要素が強く、日本題名も「泣かないで」だが、原題は「笑う時だけ」である。この原題がとても気が利いているのだが、その由来は一つのジョークなのだ。次の通り。

「胸に槍がささった男がいる。もう一人がきく。“痛くないか?”…男は答える“笑う時だけ”」

 人は誰も耐え難い哀しみを抱えて生きている――という比喩になっている。実に見事だ。さすがはニール・サイモン――と感心するところだが、わたしの記憶する《あのジョーク》とのかかわりが気になった。いうまでもなく、この手のものは作者不明となり、形を変えて拡散する。より高度なのはサイモン型だが、路上の男型にも愛着を感じる。
 さて、その喬太郎さんがNHKの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組で対談をしていた。お相手が美学者の伊藤亜紗さん。そこで喬太郎さんは、生まれ変わりについて語り、こうおっしゃった。
 ――ミジンコとかになってみたい。クジラに食われてみたい。
 わたしはそこで手塚治虫を思った。『火の鳥 鳳凰編』の中で、仏師茜丸は、幻想の中で輪廻転生を経験する。
 唐へと渡る船が沈み、溺れ死んだ彼は、ミジンコになる。そして大きな魚に呑み込まれるのだ。さらに長江の亀となり……と、転生は続く。
 腕(?)を振るミジンコの絵は印象的だ。喬太郎さんの頭の中を覗くわけにはいかない。しかし、人生のどこかで、喬太郎さんも『火の鳥』の、同じこのページを開いていたような気がする。
 さらに芥川龍之介を思う。芥川はいう。牛馬に生まれ変わり悪いことをして死ねば、神仏は自分をスズメやカラスにするだろう。性懲りもなく、まだ悪さをすれば、さかなかヘビになる。それでも悔い改めず、順繰りにやっていってバクテリヤにまでなったら、さて神仏はどうするか。ちょっとやってみたい気はする。
 いかにも芥川的だ。畜生道に落とされて、
 ――牛になっちゃったよ。畜生!
 などと洒落ていたら、神仏も怒って、まだこりないか、とエスカレートするだろう。この芥川的妄想を演じる喬太郎さんも、ちょっと見てみたい。これは、わたしの《妄想》である。
 あれからそれ、それからこれ。要するに人のいとなみは、何事も何事かに繋がっていく。

(きたむら・かおる 作家)
波 2020年8月号より
単行本刊行時掲載

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著者プロフィール

北村薫

キタムラ・カオル

1949(昭和24)年埼玉県生れ。早稲田大学第一文学部卒業。大学時代はミステリ・クラブに所属。高校で教鞭を執りながら執筆を開始し、1989(平成元)年『空飛ぶ馬』でデビュー。1991年『夜の蝉』で日本推理作家協会賞、2006年『ニッポン硬貨の謎』で本格ミステリ大賞、2009年『鷺と雪』で直木賞、2016年日本ミステリー文学大賞受賞。〈円紫さんと私〉シリーズ、〈覆面作家〉シリーズ、『スキップ』『ターン』『リセット』の〈時と人〉三部作、〈ベッキーさん〉シリーズ、〈いとま申して〉三部作、〈中野のお父さん〉シリーズ、『飲めば都』『ヴェネツィア便り』『雪月花』『水 本の小説』など著書多数。アンソロジーや『本と幸せ』などのエッセイ、評論に腕をふるう〈本の達人〉としても知られる。

判型違い(文庫)

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