この地上において私たちを満足させるもの
1,760円(税込)
発売日:2018/12/21
- 書籍
戦後の房総半島からヨーロッパ、アジア、そして日本で。そこでは灰色の人生も輝き、沸々と命が燃えていた。小説家の誕生と歩みを綴る自伝的長編小説。
あのとき、自分を生きる日々がはじまった――。縁あって若い者と語らううち、作家高橋光洋の古い記憶のフィルムがまわり始める。戦後、父と母を失い、家庭は崩壊、就職先で垣間見た社会の表裏、未だ見ぬものに憧れて漂泊したパリ、コスタ・デル・ソル、フィリピンの日々と異国で生きる人々、40歳の死線を越えてからのデビュー、生みの苦しみ。著者の原点と歳月を刻む書下ろし長篇。
ムジカノッサの夜
丘の上の下町
乞食と女中とサンダル売り
反逆者製作所
賢いウェイトレス
ジェシーのように
ティアレの島
確かな人々
ジェット機のサンバ
書誌情報
読み仮名 | コノチジョウニオイテワタシタチヲマンゾクサセルモノ |
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装幀 | 増島実/カバー写真、乙川優三郎・新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 256ページ |
ISBN | 978-4-10-439309-1 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文学賞受賞作家、文学賞受賞作家 |
定価 | 1,760円 |
書評
声を獲得する
乙川優三郎さんの長篇小説が2冊、連続刊行されます。『二十五年後の読書』(10月刊。小説新潮に連載)は書評家の女性、『この地上において私たちを満足させるもの』(12月刊。連載と並行して書き進められた書下ろし!) は男性の小説家が主人公。翻訳家の小川高義さんと小説家の角田光代さんにそれぞれの長篇を書評していただきました。
語り手は七十一歳の作家、高橋光洋である。家政婦として雇っている若いフィリピン人女性に日本語を教えたり、彼女の疑問に答えたりしつつ、過去に思いをはせる。過去とはつまり、彼が今、自分自身として立つ「今」へと続く長い断片的な軌跡である。
貧しく、閉塞した実家から逃れるようにして光洋は製鉄所に就職するが、「有形無形の美しいものに飽きるほど触れて」みたいとの思いから、若い彼は日本を飛び出し世界の各地を放浪する。海外暮らしが長引くにつれ仕事も人脈も得、さらなる飛躍のチャンスを残しつつ、光洋は日本に帰国して高田馬場のアパートで小説の執筆をはじめる。やがて光洋は作家としてデビューし、編集者の妻を得て、文章を生み出すことと静かに格闘する。
高橋さん自身が小説になりそうだ、と光洋を担当する若い編集者は言う。たしかに光洋という男は書く題材や舞台、それに必要な知識教養にはこと欠かない。しかし書きはじめるときから、デビューし、大きな賞を受賞し、文筆で暮らしが成り立つようになっても、どこか苦しみ続けている。よい文章を書くことに、自身の文体を得ることに、心を砕き続け、これでよしと自身で認めることがない。
うつくしい文章とはなんだろう、文体とはなんだろう。読みながら考えているが、次第にそれは、べつの問いに変わっている。生きるとはなんだろう、自分の人生とはなんだろう。
ごく一般的に、この高橋光洋という人の人生を、成功か失敗かに分けたら成功の部類に入るだろう。生まれ育った家庭の足かせをみずから振りほどき、望むとおりに日本の外に出て職と信頼を得、帰国後は望むとおりに作家となり、暮らすに困らず、快適なすみかを手に入れて、好きな酒を飲み好きな音楽を聴き自分のペースで暮らす日々が、失敗のはずがない。けれどもこの小説に記された光洋の足跡を追っていると、成功も失敗も、幸福も不幸も、さほど意味を感じられなくなる。光洋自身がそれらを求めたり避けたりしていないからだ。成功とも失敗とも分類のできない、厄介なことやよろこばしいことが、日々、予想もしないかたちで予想もしないところからやってくる。光洋はただひたすらに愚直に、それらを受け止め続けている。日本でもパリでもフィリピンでも、おそらく彼の転々とした他の地でも、そのように日を過ごして年齢を重ねてきたのだろう。愚直さとは、人生に向き合う真剣さだ。そういう男のもとにはやっぱり同じように愚直な人々があらわれる。人生に向き合う深度が似た人たちだ。彼らは、彼らなりの愚直な方法で、自分自身になる道を手さぐりに歩いている。そこに、世間的なもの差しでの成功も失敗も存在しないのだと、読み手は思い知らされる。
成功ということとは無関係に、小説の後半で、私は光洋が満ちていっていることに気づく。満たされる、のではなくて、満ちている。何かが彼のなかに積もり、消えることも減ることもなく彼の内にたまっていき、彼の、目には見えない輪郭をぎゅうぎゅうと内側から押し広げているのを感じる。たとえばそれは、光洋が若い作家と編集者と、年齢も性別も超えて語り合うとき。過去に出会っただれかの面影が、人生に組みこまれた必然のように今ふたたびあらわれるとき。かなしみを背負ったまま訪れた島で、空も海も焼き尽くすような夕焼けを見て、言葉を失うとき。そこにいる高橋光洋という男は、かつてパリで定食を食べていたときより、フィリピンでカジノに向かったときより、ずっとずっと、満ちている。では彼を満たす「何か」とはなんだろう、と思うと、すぐに答えは出る。若い彼が飽きるまで触れたいと願った、有形無形のうつくしいものだ。旅することで、働くことで、書くことで、格闘することで、愛することで、手放すことで、失うことで彼が触れてきた、すべてのうつくしいもの。それらがこの小説にはちりばめられている。
かつて、文体とは何であるかを私はずっと考え続けて、声ではないかといったん結論づけたことがある。それがただしいのかどうかわからないけれど、しかし、そう考えるならば、この小説は一貫して高橋光洋という男の声で語られている。この地上において私たちを満足させるものはなんであるのか、ひたすら愚直に生きた男が、みずから獲得した深い声で静かに語っている。
(かくた・みつよ 小説家)
波 2019年1月号より
単行本刊行時掲載
担当編集者のひとこと
2018年の5月、小説新潮で『二十五年後の読書』の連載が終わり、単行本化の作業に取りかかった矢先、なんの前触れもなく乙川優三郎さんから小包が届きました。なかみは書下ろし長篇のプリントアウトで、小説新潮に長篇を連載しながら、並行して書き進めていたとのこと。『この地上において私たちを満足させるもの』という壮大なタイトルの書下ろしは、文字通り巻を措くあたわずで引き込まれました。主人公の高橋光洋は終戦後、崩壊した家庭と故郷を飛び出し、パリやマラガ、フィリピンなど世界各地を漂泊した後、小説家となり、書くことの難しさに苦悶し、老いてなお挑みつづけることをやめようとしません。これと「並行して」書かれた『二十五年後の読書』はエッセイストから書評家に転じた中川響子が業界の馴れ合いや虚飾を排して小説に向きあい、小説への信頼を取り戻すさまが活写され、この二篇は二冊にして一冊の姉妹篇のようであり、その内容は不可分で、対をなすものに思えました。
ご存知のように乙川さんは『五年の梅』で山本周五郎賞を、『生きる』で直木賞を受賞し、時代小説の名手として知られ、近年は現代小説に移行し、『脊梁山脈』で大佛次郎賞、『太陽は気を失う』で芸術選奨文部科学大臣賞、『ロゴスの市』で島清恋愛文学賞を受賞するなど高い評価を受けてきました。そのようななか小説の原点に立ち返るかのように、深遠で困難な世界であがき、真摯に生きる者たちを綴った『二十五年後の読書』と『この地上において私たちを満足させるもの』は、小説家として書かずにいられなかった衝迫を感じさせ、こころを激しく揺ぶられます。
装幀には乙川さんも関わり、登場人物たちの遍歴と、二冊が「対をなすもの」であることが表現されています。
2019/01/28
著者プロフィール
乙川優三郎
オトカワ・ユウザブロウ
1953年東京生まれ。外資系ホテル勤務などを経て1996年小説家デビュー。2001年『五年の梅』で山本周五郎賞。2002年『生きる』で直木三十五賞。2013年 初の現代小説『脊梁山脈』で大佛次郎賞。2016年『太陽は気を失う』で芸術選奨文部科学大臣賞。2017年『ロゴスの市』で島清恋愛文学賞。著書に『潜熱』『二十五年後の読書』『この地上において私たちを満足させるもの』など。